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第008話 光の英雄は、誰の隣に立つか

 風は鎮まった。




 けれど、神具の奥で、何かがまだ震えていた。




 その震えを残したまま、俺たちは巣場から渓域の神殿へ戻った。




 飛竜の暴走は止まった。




 橋に取り残されていた風神官配下も、命に別状はない。




 ティアナは喉を休めるため、シャルロッタに渡された温かい飲み物を両手で抱えている。




 クリスティーナは、固定具を補助した魔法剣を何度も見ていた。




 褒められたい顔と、まだ怖かった顔が半分ずつ混じっている。




 ソフィアは、神殿の窓際に立っていた。




 外の風を聞いている。




 さっきまでよりも、耳の動きが落ち着いているように見えた。




 ミリアムは端末を膝に置き、記録の整理を続けている。




 この人は本当に休まない。




「ミリアム、少し休め」




「休んでいます」




「それは休んでる人間の手の動きじゃない」




「座っています」




「座ってるだけだ」




 返ってきた答えが真面目すぎて、少し笑いそうになった。




 それでも、彼女の目は画面から離れない。




 風向計ログ。




 配信音声。




 神官報告。




 飛竜の反応。




 それらが、一本ずつ整理されていく。




 感情で燃え上がった場面を、あとから確認できる形にする。




 それがこの章で何度も必要になった。




「神酒秀直」




 シルフェリアが入ってきた。




 背筋はいつも通りまっすぐだ。




 けれど、最初に会った時のような硬い透明感は少し薄れていた。




 疲れているのだろう。




 それを隠している顔だった。




「飛竜は落ち着いています。神具の異常も、一時的に安定しました」




「原因は」




「まだ断定できません」




 即答だった。




 以前なら、規律の言葉が先に来たかもしれない。




 今は、断定できないと言った。




 それだけでも、変化だ。




「報告書の件は」




 ミリアムが端末を閉じずに言う。




 シルフェリアは彼女を見た。




「正式記録として受け取ります」




 ミリアムの指が止まる。




「原本、検証用複製、提出用要約、公開版の四種に分けています。提出用要約には、未確定事項と個人名伏せを反映します」




「個人名伏せ?」




「観測班の配下についてです。現時点では、証言者であって断罪対象ではありません」




 シルフェリアは一瞬、目を伏せた。




「……それで構いません」




 小さい声だった。




 彼女にとって、自分の配下に疑いが向くことは簡単ではない。




 それでも、受け取った。




 ミリアムは短くうなずく。




「では、正式記録として提出します」




「お願いします」




 その「お願いします」は、少しぎこちなかった。




 でも、ちゃんと願いの形をしていた。




 シャルロッタが静かに口を開く。




「シルフェリア様。今回の記録は、責任追及より再発防止を優先する形で整えます」




「責任がないとは言えません」




「もちろんです。ただ、今すぐ誰かを吊し上げれば、神具の異常を隠した構造が見えなくなる可能性があります」




 シルフェリアは黙った。




 シャルロッタは続ける。




「風神官の責務を守るためにも、事実を急いで潰さない方がよろしいかと」




「あなたは、言葉の置き方が上手い」




「必要に迫られて覚えました」




 シャルロッタは微笑む。




 そこに少しだけ、王族だった頃の影が見えた。




 でも、今の彼女は過去の肩書きだけで立っていない。




 この旅の中で、自分の言葉を使っている。




 シルフェリアは、そのシャルロッタへ浅く頭を下げた。




「助言として受け取ります」




 コメント欄が静かに流れている。




 《コメント:ちゃんと記録受け取った》




 《コメント:即謝罪じゃないのが逆にリアル》




 《コメント:再発防止に持っていく姫つよい》




 《コメント:ミリアム先生の記録、信頼感ある》




 章が終わりに向かっている空気を、視聴者も感じているのかもしれない。




 でも、まだ一つ残っている。




 シルフェリアはソフィアの方へ向いた。




 ソフィアも、それに気づいて振り返る。




 少しだけ身構えた。




 それは仕方がない。




 橋の前で最初に拒まれた傷は、今日一日で消えるものではない。




「獣人」




 シルフェリアが言いかけた。




 空気が止まる。




 俺の手に力が入った。




 だが、シルフェリアはそこで言葉を切った。




 短い沈黙。




 それから、言い直す。




「ソフィア」




 ソフィアの耳がぴくりと動いた。




 コメント欄も、一瞬止まった気がした。




 《コメント:ソフィアって呼んだ》




 《コメント:ちゃんと見たな》




 《コメント:ここ大事》




 シルフェリアは続けた。




「あなたは、風の橋を渡る資格を示しました」




 その言葉に、ソフィアは少しだけ目を伏せた。




 嬉しい、だけではない顔だった。




 たぶん、まだ足りない。




 俺もそう思った。




 資格。




 それは、認められたようでいて、まだ誰かの許可の中にある言葉だ。




 ソフィアは両手を前で重ねた。




 少し迷って、それでも顔を上げる。




「ありがとうございます」




 まず礼を言った。




 それから、ゆっくり続けた。




「でも、わたしは、資格だけがほしいわけではありません」




 シルフェリアの目が細くなる。




 怒ったのではない。




 聞くために、集中した顔だった。




「わたしは、今日ここに立ちました。怖かったけど、橋を渡りました。飛竜を怖がらせないように、匂いを伝えました。みんなと一緒に、あの人を助けました」




 ソフィアの声は大きくない。




 それでも、神殿の中にしっかり届く。




「だから、橋を渡っていいかどうかだけじゃなくて」




 一度、息を吸う。




「わたしがここに立ったことを、見てほしいです」




 シルフェリアは何も言わなかった。




 長い沈黙だった。




 でも、風の橋でソフィアを押し出した沈黙とは違う。




 誰かを外に押し出す沈黙ではない。




 言葉を探す沈黙だった。




「……ソフィア」




 シルフェリアがもう一度、その名を呼んだ。




「私は、あなたを最初に見誤りました」




 謝罪、というにはまだ硬い。




 でも、逃げではなかった。




「渓域を守る規律と、あなた自身を見ることを、混同しました」




 ソフィアは目を丸くする。




 シルフェリアは続けた。




「完全に改められると、今この場で軽く言うつもりはありません。私は長く、この規律で渓域を守ってきました。すぐにすべてを変えたと言えば、それは嘘になります」




 その正直さに、俺は少し息を吐いた。




 そうだ。




 ここで完全改心されても、たぶん軽い。




 人は一日で別人にはならない。




 でも、一歩は動ける。




「それでも」




 シルフェリアは、ソフィアをまっすぐ見た。




「今日、あなたがここに立ったことは、記録します」




 ソフィアの尻尾が、ほんの少し揺れた。




「はい」




 その返事は、静かだった。




 でも、満ちていた。




 俺は配信画面を確認する。




 ちゃんと残っている。




 ソフィアが資格ではなく、自分が立ったことを認めてほしいと言った場面。




 シルフェリアが、初めて名前を呼び直した場面。




 誰かを叩くためではなく。




 誰かの声が消えなかった証拠として。




 《コメント:泣いた》




 《コメント:許可じゃなくて、見てほしいってことか》




 《コメント:英雄っていうか記録者なんだよな》




 《コメント:ソフィア、立ったな》




 その流れの中に、一つだけ妙なコメントが混じった。




 《コメント:――見ている》




 俺は目を細めた。




 一瞬、背筋に冷たいものが走る。




 今のは何だ。




 通常コメントか。




 ノイズか。




 それとも。




 次の瞬間には、コメント欄は普通の流れに戻っていた。




 《コメント:第一章って感じ》




 《コメント:風の章よかった》




 《コメント:次どこ行くんだろ》




 俺は、今の一文をミリアムへ送る。




 ミリアムは無言でうなずき、ログに印をつけた。




 ここでは深追いしない。




 深追いするには、材料が少なすぎる。




 シルフェリアが俺へ向き直った。




「神酒秀直」




「何だ」




「あなたは、光の英雄なのですね」




 その言葉に、コメント欄がまた少し盛り上がる。




 《コメント:出た光の英雄》




 《コメント:英雄認定?》




 《コメント:本人嫌がりそう》




 俺は苦笑しそうになった。




 嫌というより、重い。




 英雄という言葉は、便利だ。




 人を集める。




 道を開く。




 でも、その言葉は時々、隣にいる人たちの声を小さくする。




 今日この章で起きたことを、光の英雄の活躍でまとめられたら、たぶん嘘になる。




 ソフィアが立った。




 シャルロッタが道を作った。




 ミリアムが記録した。




 ティアナが歌った。




 クリスティーナが支えた。




 シルフェリアも、間違いながら守ろうとした。




 それを、俺一人の称号で塗りつぶしたくない。




「英雄かどうかはわからない」




 俺は言った。




「ただ、声を消される人の隣には立つ」




 シルフェリアは、少しだけ目を伏せた。




「それが、あなたの答えですか」




「今はな」




「今は」




「明日になったら、また間違えるかもしれない。怒鳴りたくもなるし、称号を振り回したくもなると思う」




 正直に言った。




「だから、記録する。あとから見返せるように。俺が間違えた時にも、誰かが止められるように」




 シルフェリアは黙って聞いていた。




 それから、小さくうなずく。




「記録者としての光、ですか」




「かっこよく言うな。照れる」




 クリスティーナが小さく笑った。




 ティアナも、喉を庇いながら少しだけ笑う。




 重かった空気が、ほんの少しほどけた。




 ミラがそのタイミングで口を開いた。




「風の渓域の件は、こちらで中央神官団へ報告します。神具の異常と報告書の矛盾は、継続調査扱いになります」




「俺たちは?」




「次の調査地へ向かっていただきたいです」




 ミラの表情が、少し深くなる。




「水神官の湖へ」




 水神官。




 湖。




 風の渓域とは違う響きだ。




「そこにも神具が?」




「あります。ただし、湖は少し特殊です」




 ミラは言葉を選んだ。




「水が記憶を映す、と言われています」




「記憶?」




 ミリアムの目がすぐに鋭くなる。




 記録者の顔だ。




「はい。水神官アクアリナの管理する湖では、時折、映るはずのないものが映ります」




 映るはずのないもの。




 その言葉が、やけに耳に残った。




 配信画面に、小さなノイズが走る。




 一瞬だけ。




 本当に一瞬だけ、画面の端が白く揺れた。




 俺は息を止める。




 何かが見えたわけではない。




 声が聞こえたわけでもない。




 ただ、胸の奥に、古い痛みが触れた。




 弟。




 神酒聖夜。




 俺が守れなかった名前。




 ここで思い出す理由は、何もないはずだった。




 それなのに、湖という言葉が、水面のように記憶を揺らした。




 水の神官がいる湖。




 映るはずのないものが映る場所。




 その言葉を聞いた時、なぜか俺は、弟の名前を思い出していた。




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