第007話 ティアナの歌、吊り橋を渡る
飛竜の咆哮が、風を裂いた。
その中で、ティアナが小さく息を吸った。
俺は動こうとしていた。
橋の中央で、風神官配下が手すりにしがみついている。
白い吊り橋が、左右に大きく揺れていた。
下は谷。
雲が流れ、岩肌が見え隠れする。
あそこへ落ちたら、助からない。
「シルフェリア!」
俺が叫ぶより早く、シルフェリアが杖を掲げた。
風が彼女の周囲で輪を描く。
白い衣が跳ね上がり、足元の砂が舞った。
「橋を押さえます。竜騎士は飛竜を下げて!」
風神官配下たちが動く。
だが、飛竜は従わない。
岩棚の上で翼を広げ、見えない何かを拒むように首を振る。
その翼が風を受けるたび、吊り橋へ横殴りの風が飛んだ。
シルフェリアの術が橋を支える。
けれど、飛竜の恐怖そのものは止まらない。
「俺が行く」
口に出した瞬間、シャルロッタが振り向いた。
「秀直様」
「わかってる。無茶はしない」
言いながら、自分で信用できなかった。
無茶かどうかを判断する前に、身体が動きそうになっている。
橋に残っている配下は一人。
足場は悪い。
風は不規則。
配信画面は揺れ、コメント欄も荒れていた。
《コメント:橋やばい》
《コメント:誰か残ってる!》
《コメント:秀直行くな危ない》
《コメント:いや行かないと落ちる》
《コメント:飛竜が怖がってるのが原因?》
行くべきか。
止まるべきか。
考えている余裕が少ない。
その時、ティアナが俺の袖を掴んだ。
「歌います」
声は震えていた。
はっきり震えていた。
でも、言葉は逃げていない。
「ティアナ」
「怖いです」
彼女は先にそう言った。
強がらなかった。
それが逆に、強かった。
「風の音が割れています。飛竜の声も、痛いです。歌ったら、喉が持っていかれるかもしれません」
「だったら」
「でも、今、歌わなかったら」
ティアナは橋を見た。
しがみついている配下の手が、少しずつ滑っている。
「あの人の呼吸も、飛竜の呼吸も、ばらばらのままです」
俺は何も言えなかった。
止めたい。
止める理由はいくらでもある。
危ない。
無理をするな。
俺が行く。
いつもの言葉が喉まで来る。
でも、ここでそれを言えば、ティアナの選択を奪う。
ソフィアが自分の足で立った時に学んだばかりだ。
それなのに、また同じことをしそうになっている。
俺は息を吸った。
「自分で決めたんだな」
「はい」
ティアナは頷いた。
「歌いたいです」
「わかった」
俺は配信画面を固定し直した。
橋。
飛竜。
ティアナ。
全部が入る角度へ。
見世物にしたいわけじゃない。
でも、これも残すべき場面だ。
怖いと言った人間が、それでも自分で選んだ記録。
「ミリアム、音声を分離できるか」
「できます。歌声、風音、飛竜声、橋の軋みを別トラックで保存します」
「公開版はティアナの確認を通す」
「ティアナ本人へ確認を取ります」
ティアナは一度だけ、俺を見る。
その目に、少し安心が戻った。
そして彼女は、風に向かって立った。
歌い出しは、とても小さかった。
言葉というより、息に近い。
風にさらわれそうな細い音。
けれど、その音は消えなかった。
割れていた風の隙間へ、そっと差し込まれる。
ティアナの声が、橋の白い光を撫でた。
飛竜が首を振る。
咆哮が重なる。
ティアナの肩が震えた。
やはり怖いのだ。
それでも、歌は止まらない。
「すごい」
クリスティーナが小さく言った。
その声にも緊張がある。
彼女は橋の支柱へ視線を走らせた。
「師匠、橋の固定具、風で緩んでます」
「補助できるか」
「できます。たぶん、短時間なら」
「無理は」
「しません」
クリスティーナは言い切った。
その顔は、いつものはしゃいだ弟子の顔ではなかった。
「ティアナさんが歌ってます。私も、できることをします」
俺は頷く。
「行け。固定具だけだ。橋の上には出るな」
「はい!」
クリスティーナが走る。
手にした魔法剣が、淡い光を帯びた。
彼女は橋の入口脇に膝をつき、固定具へ剣先を当てる。
斬るのではない。
光の刃を細く伸ばし、緩んだ金具の隙間へ噛ませる。
橋の揺れが、ほんの少しだけ弱まった。
《コメント:クリスティーナ今のナイス》
《コメント:弟子ちゃん成長してる》
《コメント:歌で飛竜止まった?》
《コメント:まだ、でも弱まってる》
《コメント:ティアナすごい》
飛竜の翼の動きが、少しずつ変わる。
無秩序に打ちつけていた翼が、ティアナの歌に合わせるように間を取った。
呼吸が合っていく。
完全ではない。
まだ怯えている。
でも、暴れ方が弱くなった。
「歌が、風に乗っている」
シルフェリアがつぶやいた。
その声には、驚きがあった。
自分の術では抑えきれなかったものが、外から来た少女の歌で変わり始めている。
彼女には、どう見えているのだろう。
屈辱か。
発見か。
それとも、両方か。
「ソフィア」
俺は橋を見たまま呼んだ。
「配下の位置、わかるか」
「はい」
ソフィアは耳を立てた。
風の中から、人の息と足音を拾っている。
「橋の中央より少し手前です。右手で手すり、左足が浮いてます。あと、怖くて息が浅いです」
「シルフェリア、聞こえたか」
「聞こえています」
シルフェリアは風術を調整した。
橋の右側から吹きつける風が、わずかに弱まる。
「神酒秀直。あなたは救助に行けますか」
初めて、彼女が俺に頼む形になった。
命令ではない。
拒絶でもない。
状況判断としての問い。
「行く」
今度は迷わなかった。
ティアナの歌が風を整え、クリスティーナが橋を支え、ソフィアが位置を示し、シルフェリアが風を抑える。
その中でなら、俺が動ける。
俺一人が何とかするのではない。
全員が道を作ってくれている。
「配信は」
シャルロッタが聞く。
「止めない」
俺は即答した。
「ただし、助けること優先だ。画面は揺れる」
「それでよろしいかと」
ミリアムが録画設定を変える。
「自動追尾、低解像度予備記録に切り替えます。秀直さんは画面を気にしないでください」
「助かる」
俺は橋へ足を踏み出した。
風が顔を叩く。
ティアナの歌が背中から届く。
それは勇壮な歌ではなかった。
泣きそうなほど細いのに、途切れない歌。
怖さごと風に乗せている歌だった。
橋の中央で、配下の男がこちらを見た。
顔は真っ青だ。
「動くな!」
俺は叫ぶ。
「こっちから行く!」
橋が揺れる。
足元の白い光が歪む。
クリスティーナの補助がなければ、もっと激しく揺れていたはずだ。
ソフィアの声が飛ぶ。
「ご主人さま、右から風が来ます!」
俺は身を低くした。
直後、横風が肩をかすめる。
シルフェリアの術が、それを途中で削った。
俺は進む。
配下の男の手が滑った。
「手を伸ばせ!」
男が必死に腕を伸ばす。
俺は橋板へ膝をつき、手首を掴んだ。
軽くない。
風で身体が持っていかれる。
奥歯を噛む。
その時、ティアナの歌が少しだけ強くなった。
飛竜の鳴き声が低くなる。
橋の揺れが一瞬、弱まった。
その一瞬で、俺は男を引き寄せた。
「立てるか」
「は、はい」
「俺の肩を掴め。下を見るな」
男は震えながら頷いた。
帰り道は、行きより長く感じた。
ティアナの歌。
クリスティーナの固定。
ソフィアの警告。
シルフェリアの風。
全部が細い糸みたいに重なって、俺たちを橋の入口へ戻した。
足が岩棚へ戻った瞬間、配下の男が崩れ落ちる。
俺も膝に手をついた。
息が荒い。
でも、落ちていない。
助かった。
「固定、解除します!」
クリスティーナが叫び、魔法剣の光をゆっくり抜いた。
橋はまだ揺れている。
だが、さっきほどではない。
飛竜の呼吸も、だいぶ落ち着いていた。
ティアナの歌が、最後に細く伸びる。
風の上を渡り、飛竜の翼に触れ、谷へ溶けていく。
歌が終わった瞬間、彼女の膝が少し折れた。
シャルロッタが支える。
「ティアナ」
俺は駆け寄ろうとした。
ティアナは首を横に振る。
「大丈夫です。少し、怖かっただけです」
声がかすれている。
大丈夫ではなさそうだ。
でも、彼女は笑おうとしていた。
「届きました」
その言葉に、俺は足を止めた。
「飛竜に?」
「はい。たぶん、少しだけ」
シルフェリアが飛竜を見る。
飛竜たちは、まだ神具の方を警戒している。
けれど、もう暴れてはいない。
翼を畳み、低く喉を鳴らしている。
その音は、痛みではなく、様子を見る音に聞こえた。
「……認めざるを得ません」
シルフェリアが言った。
誰に向けた言葉か、最初はわからなかった。
「あなた方の力が、飛竜を守りました」
ティアナが目を伏せる。
クリスティーナは驚いた顔で固まる。
ソフィアは、少しだけ尻尾を揺らした。
シルフェリアはまだ謝らない。
それでいい。
今ここで必要なのは、謝罪より確認だ。
彼女は、見た。
ティアナの歌を。
クリスティーナの補助を。
ソフィアの耳と鼻を。
外から来た者たちが、渓域を壊しに来たのではなく、守るために動いたことを。
俺は配信画面を確認した。
映像はかなり揺れている。
でも、残っていた。
誰か一人の英雄譚ではない。
全員が少しずつ支えた記録として。
《コメント:助かった……》
《コメント:ティアナすごい》
《コメント:クリスティーナもナイスすぎる》
《コメント:ソフィアの指示なかったら危なかった》
《コメント:これ全員で助けたやつだ》
その通りだと思った。
俺は画面に向けて、短く言う。
「今のは、全員の記録だ」
神具の青白い石が、また小さく震えた。
飛竜は落ち着いた。
風も、いったんは鎮まった。
けれど、あの神具だけは違う。
奥の方で、何かがまだ揺れている。
自然故障ではない。
そんな気がした。
風は鎮まった。
けれど、神具の奥で、何かがまだ震えていた。
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