第006話 ミリアムの記録、風の矛盾
「……この風向、報告書と合いません」
ミリアムの声は、風の音より小さかった。
けれど、全員が聞いた。
シルフェリアの視線が、すぐにミリアムへ向く。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
ミリアムは端末から目を離さない。
神具の青白い石が、断続的に光っている。
飛竜たちは落ち着かない。
岩棚の上を歩き回るたび、爪が石を引っかく音がする。
風は右から吹いている。
いや、俺の感覚ではそうだ。
でも、ミリアムの端末に表示された風向線は、何本も別方向へ伸びていた。
「報告書では、直近七日間の風向は西北西で安定。乱流発生なし。飛竜の警戒反応は通常範囲内、とされています」
「その通りです」
シルフェリアが言う。
「報告は毎日上がっています」
「現地の風向計は、そう言っていません」
ミリアムが端末を反転させた。
画面に、線と数字が並ぶ。
俺には一目で全部は読めない。
だが、赤い線が何度も跳ねていることはわかった。
「三日前の夕刻から、定期的に南側から逆流が入っています。昨日の深夜には、風速の急上昇が二回。今日の昼前にも一回」
「一時的な乱れでしょう」
「報告書には、一時的な乱れの記載もありません」
シルフェリアの口が止まった。
ミリアムは続ける。
「さらに、配信ログの音声波形と照合しました」
「配信ログ?」
「はい。渓域到着時からの風音です」
さらっと言った。
この人、いつの間にそんなものまで取っていたんだ。
いや、ミリアムなら取っている。
そういう人だ。
《コメント:ミリアム先生きた》
《コメント:ログ残ってるの強い》
《コメント:風音まで証拠になるのか》
《コメント:報告書アウトでは?》
《コメント:いやまだ断定早い》
最後のコメントに、俺は小さくうなずいた。
そう。
断定は早い。
早いからこそ、ミリアムが必要になる。
「コメント欄」
俺は画面を見ずに言った。
「まだ誰が悪いとは決めない。今は、何が合っていないかを見てる」
《コメント:了解》
《コメント:証拠待ち》
《コメント:でも怪しい》
《コメント:怪しいと黒は違うってやつ》
ありがたい。
視聴者全員が落ち着くわけではない。
それでも、配信の空気は少し変えられる。
俺が煽れば燃える。
俺が止めれば、少し踏みとどまる。
その責任は、思ったより重い。
「ミリアム、続けて」
「はい」
ミリアムは眼鏡の位置を直した。
それから、ふっと息を吐く。
いつもの穏やかな目ではない。
数字を相手にしている時の目だ。
戦闘ではない。
でも、本気だった。
「配信音声の風切り音には、一定の周期で低周波の歪みがあります。通常の谷風なら、橋の中央と巣場入口で位相が変わるはずですが、今回は神具方向から同じ歪みが戻っています」
「すまん。半分くらいしかわからない」
「神具が、風を整えているのではなく、風を跳ね返している可能性があります」
それならわかる。
わかりたくないくらいには。
シルフェリアの表情が険しくなった。
「あり得ません。あの神具は封じられています」
「封じられているはず、です」
ミリアムは言い直した。
「現状は、封印状態と報告状態が一致していません」
「報告状態」
シルフェリアが低く繰り返す。
その声には怒りがある。
ミリアムに向いた怒りではない。
まだ、どこへ向ければいいのかわからない怒りだ。
「配下の報告が誤っていると?」
「誤記、測定不備、機器不調、意図的な修正。可能性は複数あります」
「意図的な修正」
空気が一段、冷えた。
ミリアムは即座に首を横に振った。
「まだ断定しません」
それが大事だった。
疑いを出す。
でも、疑いを結論にしない。
このバランスを崩すと、記録は証拠ではなく凶器になる。
「風向計の実測ログは、誰が管理していますか」
シャルロッタが聞いた。
シルフェリアは配下へ視線を向ける。
風神官配下の一人が、一歩前に出た。
若い男だ。
顔色が悪い。
「定時記録は、観測班が」
「観測班の責任者は」
「……私です」
その声を聞いた瞬間、ソフィアの耳が動いた。
俺はそれに気づく。
「ソフィア?」
ソフィアは小さく首を傾げた。
「あの人、すごく緊張しています」
「この状況なら、誰でも緊張するんじゃないか」
「それもあります。でも、匂いが違います。怖いというより、隠したい匂いです」
本人には聞こえない程度の小声だった。
それでも、シルフェリアは見逃さなかった。
「何を話しています」
ソフィアは一瞬、身を引きかける。
だが、踏みとどまった。
「あの人が、とても緊張しています」
配下の男の肩が跳ねた。
それだけで、周囲の視線が集まる。
俺はすぐに手を上げた。
「待ってくれ。ソフィアの感覚は証言として記録する。でも、それだけで責めない」
配下の男が俺を見る。
その目に、少しだけ救われたような色があった。
責められたくない。
でも、何かを抱えている。
そんな顔だ。
「観測班」
シルフェリアの声は硬い。
「実測ログと報告書の差異について、説明を」
「それは」
男は唇を震わせた。
風が強くなる。
神具の石が、また青白く明滅した。
飛竜の一頭が首を振る。
「機器の不調だと、聞いていました」
「誰に」
シルフェリアの問いが鋭くなる。
男は目を泳がせた。
「上からの指示です」
その言葉が落ちた瞬間、誰も動かなかった。
上。
便利で、危険な言葉だ。
誰のことか言っていない。
何を指示されたのかも、まだ曖昧だ。
それでも、空気は変わった。
《コメント:上からの指示きた》
《コメント:これはアウトでは?》
《コメント:いや誰の上だよ》
《コメント:神官組織内部?》
《コメント:断定するなって秀直が言ってた》
コメント欄が推理配信みたいになっている。
俺も知りたい。
でも、ここで詰めすぎれば、この配下は潰れる。
そして、本当に隠れているものは奥へ逃げる。
「シルフェリア」
俺は言った。
「今の発言も記録する。でも、ここで犯人扱いはしない」
「私の配下です」
シルフェリアの声には、怒りと動揺が混じっていた。
「疑うなと言うのですか」
「疑うなとは言ってない。誰かを責めるためじゃなく、原因を知るために記録する」
前にも似たことを言った気がする。
でも、言い続ける必要がある。
俺自身が忘れないためにも。
「飛竜が苦しんでる。神具もおかしい。報告書と実測が合わない。まず、その三つをつなぐ」
「……つなげば、何が見えるのです」
「まだわからない」
正直に言った。
「でも、わからないものを、都合よく誰かの罪にしないために記録する」
シルフェリアは黙った。
その顔に、初めてはっきりと迷いが出る。
自分の配下を疑いたくない。
でも、記録は目の前にある。
風も、飛竜も、神具も、報告書の通りには動いていない。
守ってきたはずのものが、自分の足元からずれていく。
それは、怖いだろう。
ミリアムが端末を操作し、三つの画面を並べた。
一つ目は神官報告。
二つ目は現地風向計。
三つ目は配信ログから抽出された風音の波形。
「時間を合わせます」
ミリアムの声が、少し低くなった。
画面上で、三つの線が同じ時刻へ揃う。
報告書は異常なし。
風向計は乱れている。
配信ログの波形も、同じ時刻に歪んでいる。
「ここです」
ミリアムが指で示す。
「昨日の夜、報告書では安定。実測では逆流。波形にも低周波歪み。さらに、飛竜の給餌記録に遅延があります」
「給餌?」
「飛竜が巣の奥へ近づかなかった可能性があります」
ソフィアが神具の方を見る。
「嫌がっていたんだと思います。匂いが強いから」
「神具の異常が、昨日から出ていた?」
シャルロッタが言う。
「少なくとも、昨日の夜には記録上の兆候があります」
ミリアムは断定しない。
でも、もうかなり形が見えている。
報告書にはない異常が、複数の別記録に残っている。
しかも、配信ログにも。
俺たちが面白半分で流していた風景や風音が、今は証拠になっている。
配信は娯楽だ。
でも、娯楽だけでは終わらない。
残っているものは、あとから意味を持つ。
それをまた思い知らされた。
「ミリアム」
「はい」
「この三つ、原本と検証用複製を分けて保存してくれ」
「実施済みです。公開版は、個人名と未確定部分を伏せます」
「助かる」
シルフェリアが端末を見つめている。
唇が固く結ばれていた。
彼女の中で、何かが崩れているのかもしれない。
でも、まだ立っている。
「観測班」
シルフェリアが言った。
配下の男が震える。
「詳細は後で聞きます。今は飛竜を優先します」
「は、はい」
その判断は早かった。
怒りに任せて配下を責めるより、まず現場を見る。
この人は、やはり守る人間なのだと思った。
間違える。
硬くなる。
偏見も持つ。
それでも、守ることを捨ててはいない。
だからこそ厄介で。
だからこそ、ここで終わらせてはいけない。
その時だった。
巣場の奥で、飛竜の一頭が大きく跳ねた。
翼が岩棚の支柱に当たる。
縄が弾けるような音を立てた。
「離れて!」
シルフェリアが叫ぶ。
竜騎士たちが動く。
だが、飛竜は首を振り、見えない何かから逃げるように足場を踏み鳴らした。
神具の青白い石が、強く光る。
風が逆巻いた。
橋の方から悲鳴が上がる。
吊り橋が揺れている。
まだ渡り切っていない風神官配下が、橋の中央で足を取られていた。
「まずい」
俺は動こうとした。
同時に、飛竜が吠えた。
咆哮というより、痛みに似た声だった。
風が裂ける。
耳の奥が震え、胸が押される。
ティアナが、俺の隣で小さく息を吸った。
飛竜の咆哮が、風を裂いた。
その中で、ティアナが小さく息を吸った。
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