第009話 水神官の湖へ
水の神官がいる湖。
映るはずのないものが映る場所。
その言葉を聞いた時、なぜか俺は、弟の名前を思い出していた。
あれから数日。
俺たちはシルフェリア渓域を離れ、巨大湖へ続く水路の上にいた。
舟は小さい。
けれど、水路は広い。
空の上にある島を進んでいるはずなのに、目の前には水平線みたいなものが見えている。
雲海の上に、水の海がある。
冷静に考えると意味がわからない。
だが、この世界ではだいたいそういうものだ。
「配信、始めるぞ」
俺が端末を掲げると、画面に青い水面が広がった。
視聴者数がゆっくり増えていく。
《コメント:待ってた》
《コメント:風の渓域の後どうなった?》
《コメント:湖でかすぎない?》
《コメント:空が二つあるみたい》
空が二つ。
確かに、そう見えた。
上にも空。
下にも空。
湖面は雲を映し、どこからが水でどこからが空なのか、たまにわからなくなる。
「まず、渓域の件から簡単に報告する」
俺は配信画面へ向けて言った。
「飛竜の巣で見つかった神具異常と、報告書の矛盾は、神官団の継続調査になった。シルフェリアたち風神官側が正式記録として受け取ってる」
《コメント:よかった》
《コメント:ソフィアちゃんの件も?》
《コメント:ちゃんと記録された?》
コメント欄の流れが、そこへ向かう。
ソフィアは舟の縁に座り、水面を見ていた。
耳が少しだけ動く。
俺は一拍置いてから続けた。
「ソフィアへの偏見の件も記録されてる。ただ、あれを勝利物語みたいに消費するつもりはない」
《コメント:了解》
《コメント:勝った負けたじゃないやつ》
《コメント:でもソフィアが立ったのは覚えてる》
「それでいい」
俺は頷いた。
「立ったことを覚えておく。それ以上を勝手に飾らない」
ソフィアがこちらを見て、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、俺は端末を水路の先へ向ける。
ここから先は、次の調査だ。
水神官の湖。
映るはずのないものが映る場所。
胸の奥に引っかかった名前は、まだそこにある。
でも、今ここで言葉にする必要はない。
言葉にした瞬間、俺はそれを何かの予兆として扱ってしまいそうだった。
それが怖い。
「あれ、湖底ですか?」
ティアナが水面を覗き込む。
俺も画面を下へ向けた。
透明な水の奥に、白い影が見えた。
大きい。
翼のようにも見える。
岩の形かもしれない。
水草の群れかもしれない。
あるいは、本当に何かの翼かもしれない。
《コメント:今の何?》
《コメント:でかい白い影》
《コメント:地形? 生き物?》
《コメント:竜っぽく見えた》
ミリアムが端末を覗き込む。
「映像保存します。距離と水深が不明なので、現時点では形状未確定です」
「未確定が増えていくな」
「未確定を未確定として保存するのが大事です」
「それ、最近よく聞く」
「大事なので」
ミリアムは真顔だった。
舟が水路を抜け、巨大湖へ入る。
その瞬間、配信画面が一度だけ揺れた。
映っている舟の影が、二つになる。
一つは今の俺たちの舟。
もう一つは、ほんの少し前の俺たちの舟。
水路の曲がり角を通過した直後の角度で、薄く重なっている。
「ミリアム」
「確認しています」
彼女の返事が早い。
「端末故障?」
「その可能性もあります。ただ、時刻表示は正常です。映像レイヤーだけが二重化しています」
《コメント:残像?》
《コメント:配信遅延?》
《コメント:今の舟、さっきの位置じゃない?》
《コメント:湖こわ》
湖こわ。
雑なコメントだが、ちょっとわかる。
綺麗すぎるものは、時々こわい。
「水が覚えているのです」
ミラが言った。
彼女は舟の先に立ち、湖面を見ている。
「この湖には、水が出来事を覚えるという伝承があります」
「伝承、ですか」
シャルロッタが確認する。
「はい。水源は竜皇の涙とも言われていますが、それが事実か比喩かはわかりません。ただ、湖が像を残すことは事実です」
「像を残す」
ミリアムの目がさらに鋭くなる。
「録画のようなものですか」
「近いですが、同じではありません」
ミラは少し考えた。
「水は意味を理解しません。触れた魔力、声、祈り、映像を、そのまま形として留めます。過去と遠い場所を、明確には区別しないとも言われています」
過去と遠い場所を区別しない。
その言葉は、さらっと流していいものではなかった。
「それ、危なくないか」
「危ないです」
ミラは即答した。
「だから、水神官アクアリナが管理しています。彼女以外には、湖が映すものを正確に読めません」
「正確に」
シャルロッタがつぶやく。
「ということは、不正確には読めてしまうのですね」
「はい」
ミラは頷いた。
「そこが一番危険です」
舟が湖岸へ近づいた。
神殿らしい建物は見えない。
あるのは浅瀬と、白い石の桟橋と、水辺に立つ細い柱だけだ。
その柱も、神殿というより目印に近い。
「水神官どこ?」
クリスティーナがきょろきょろする。
《コメント:水神官どこ?》
《コメント:建物ないの?》
《コメント:その子?》
その子、とコメントが流れた直後、浅瀬に座っていた少女が顔を上げた。
淡い水色の髪。
長い衣の裾を水に浸したまま、裸足で湖に触れている。
年齢は俺たちとそう変わらないように見える。
けれど、目だけが不思議に遠かった。
少女のそばには、白い竜がいた。
飛竜よりは小さい。
だが、存在感が違う。
鱗は白く、湖面の光を受けて銀に揺れる。
その竜は少女の話を聞いているように、静かに首を傾けていた。
「あ、来ました」
少女が言った。
俺たちの方へ手を振る。
「神酒秀直さん、ソフィアさん、シャルロッタさん、ミリアムさん、ティアナさん、クリスティーナさん、ミラさん」
全員の名前を、一息で呼んだ。
俺は思わず足を止める。
「……初対面だよな」
「はい。初対面です」
「じゃあ、何で名前を」
「水が覚えていました」
少女はにこりと笑った。
悪気はない。
悪気はないのだろう。
でも、監視されていたような気持ちになる。
ソフィアの耳も少し警戒していた。
シャルロッタが一歩前へ出る。
「お初にお目にかかります。わたくしはシャルロッタ。こちらは神酒秀直様の一行です。水神官アクアリナ=ルース様でいらっしゃいますか」
「はい。あ、それ知ってます」
少女、アクアリナはあっさり頷いた。
シャルロッタの眉が少しだけ動く。
「何を、どこまでご存じなのですか」
「ええと、舟が来ることと、風が落ち着いたことと、歌が水に届きかけたことと、白い橋が痛かったことと、黒くない黒いものがまだ遠くで」
「お待ちください」
シャルロッタが手を上げた。
アクアリナがぴたりと止まる。
悪いことをした子どもの顔ではない。
言葉が渋滞している顔だった。
「質問を分けます」
シャルロッタの声が、落ち着いている。
「一つ目。わたくしたちの名前を、誰から聞きましたか」
「誰から、ではありません」
「では、何から知りましたか」
「水です」
「二つ目。いつ知りましたか」
「今朝です。舟の声が、水路を通ったので」
「三つ目。それは言葉でしたか、映像でしたか」
アクアリナは水面へ視線を落とす。
「両方です。名前は声。顔は水の揺れ。あと、配信の光が少し」
シャルロッタがゆっくり頷く。
「ありがとうございます。大変わかりやすくなりました」
「今の、わかりやすかったですか?」
「最初よりは」
アクアリナが少し嬉しそうにする。
天然、と言って片づけるには危うい。
彼女は知っている。
ただ、その知っているものを、他人が受け取れる順番に並べるのが苦手なのだ。
シャルロッタはそこを解いている。
前章で、礼儀で風を切った人間が、今度は水の言葉を分けている。
「アクアリナ」
俺は言った。
「この湖は、何を映すんだ」
「届いたものです」
「届いたもの」
「はい。水は意味を知りません。触れた声、流れた魔力、こぼれた祈り、通りかかった映像。届いたものを映します」
「過去も?」
「はい」
「遠い場所も?」
「はい」
「区別は」
「水は、あまりしません」
さらっと怖いことを言う。
俺はミリアムを見る。
彼女はすでに端末設定を変更していた。
「録画レイヤーを分けます。通常配信、検証用記録、非公開保全用を準備します」
「まだ何も出てないぞ」
「出てからでは遅いので」
「その通りだ」
風の渓域で学んだことが、ここでも使われる。
記録は残す。
でも、全部をそのまま晒さない。
湖が祈りや過去を映すなら、なおさらだ。
白竜がゆっくり俺たちへ近づいた。
ソフィアが少し身構える。
だが、敵意は感じない。
白竜は俺の端末を見て、それから七環錫杖へ視線を移した。
両方に、同じように鼻先を近づける。
七環錫杖の輪が、かすかに鳴った。
端末の画面に、薄い波紋が走る。
「反応しています」
ミリアムが言った。
「端末と七環錫杖へ同時に」
「危険か」
俺が聞くと、アクアリナは白竜の首を撫でた。
「敵意はありません。白竜は、同じ水音を聞いただけです」
「同じ水音?」
「説明すると長いです」
「じゃあ、今は短く」
「似ています」
短すぎる。
クリスティーナが吹き出しそうになり、ティアナが小さく笑った。
シャルロッタは額に手を当てかけて、こらえた。
アクアリナを単なる天然扱いしてはいけない。
でも、会話はなかなか手強い。
その時、湖面に文字が流れた。
《コメント:え、水にコメント映ってる?》
《コメント:これ俺たちのコメント?》
《コメント:湖すご》
端末のコメント欄と同じ文字が、水面に淡く浮かんでいた。
数秒遅れで、波にほどけて消える。
「端末から湖へ映っています」
ミリアムの声が少し緊張する。
「逆は?」
俺が聞いた瞬間、水面の奥が暗くなった。
ほんの一瞬。
現在の湖岸ではない、別の色が返ってきかける。
アクアリナが湖面に手を触れた。
暗さは消えた。
「配信は止めなくていいです」
彼女は言った。
「ただし、湖も映し返します」
軽い言い方ではなかった。
水面を見ている目が、初めて少し深くなる。
「映し返したものは、誰のものかわかりません。水は、持ち主を考えません」
俺は背筋を伸ばした。
「ミリアム」
「はい」
「異常像が出たら、録画と公開を分ける。自動で流すな」
「設定します。通常配信は継続、異常反射は非公開レイヤーへ退避。公開判断は保留」
「頼む」
アクアリナが俺を見る。
「消さないのですね」
「消さない」
「流さないのですね」
「勝手には流さない」
彼女は少しだけ頷いた。
「それなら、水も少し話しやすいです」
夜になった。
湖畔に観測陣が置かれる。
ミリアムが端末の時刻を湖岸の水時計と同期し、シャルロッタがアクアリナの説明を質問ごとに整理していく。
ティアナは湖に耳を澄ませていた。
「歌みたいな音がします」
「湖から?」
「はい。でも、歌っているというより、歌えなかった音が沈んでいるみたいです」
その言葉に、アクアリナが静かにうなずく。
「湖底には、声を残せなかった祈りがあります」
俺は配信画面を少し下げた。
ここから先を、ただの観光配信として流すのは違う。
でも、閉じすぎても記録にならない。
境目を探りながら、俺は湖面を見つめた。
アクアリナが水に手を入れる。
白竜がその隣で目を閉じた。
七環錫杖が、また小さく鳴る。
「遠いところで」
アクアリナがつぶやいた。
声が水面を滑る。
「誰かが、必死に選んでいます」
「誰かって」
俺は聞いた。
アクアリナは首を横に振る。
「わかりません。どこかも、いつかも、水は分けません。ただ、選んでいることだけが、とても強いです」
胸の奥が、また揺れた。
弟のことを思い出す。
だが、ここで結びつけるな。
わからないものを、願望で埋めるな。
俺は自分に言い聞かせる。
湖面が光った。
配信画面と同じ比率の、長方形の光。
まるで、水そのものが画面になったみたいだった。
その奥に、現在の湖岸ではない色が滲む。
黒い。
夜の黒ではない。
石のような、街の影のような黒。
配信画面の向こうに、
俺たちの知らない夜が映り始めた。
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