第010話 映るはずのない黒い街
配信画面の向こうに、
俺たちの知らない夜が映り始めた。
「ミリアム」
「切り替えます」
俺が言い切る前に、ミリアムの指が動いていた。
通常配信の画面が、湖岸の固定カメラへ切り替わる。
視聴者に見えているのは、夜の湖と、観測陣と、白竜の影。
俺の手元端末だけが、湖面の長方形と同期した異常像を映している。
「通常配信は維持。異常像は非公開録画へ分離しました」
「助かる」
喉が乾いていた。
湖面の長方形は、配信画面と同じ周期で明滅している。
映っているのは、湖岸ではない。
水神官の湖でもない。
夜。
黒い石畳。
黒曜石に似た建物。
街路は細く、曲がり、壁は高い。
空は暗いのに、どこか青い。
俺の知っているアルケディアの街とは、何もかも違っていた。
「……どこだ、これ」
自分の声が低くなる。
ミラが画面を覗き込んだ。
「少なくとも、私の知る神官領ではありません」
シャルロッタも身を寄せる。
「建築様式が違います。石の組み方も、窓の高さも」
「異世界っぽいです!」
クリスティーナが言って、すぐに口を押さえた。
「すみません。まだ断定する場面じゃないですね」
「よく自分で止まった」
俺は短く返した。
正直、俺の中でも似た言葉が浮かんでいた。
異世界。
遠い場所。
ありえない場所。
でも、言葉にすると、その形に引っ張られる。
湖は意味を理解しない。
俺たちも、まだ意味を理解していない。
なら、名前を急ぐべきじゃない。
画面の奥で、石壁に刻まれた紋章が見えた。
月。
その月の中に、翼を持つ蛇。
蛇は輪を描くように体を曲げ、翼は左右に広がっている。
見たことがない。
なのに、目を離せない。
「ミラ」
「アルケディアの神官紋章ではありません」
ミラの答えは早かった。
「少なくとも主要神殿、竜皇関連、七神官系統には該当しません」
「シャルロッタ」
「写します」
シャルロッタは紙を取り出し、素早く紋章の形を写し始めた。
線が正確だ。
月の角度。
蛇の翼。
輪郭の癖。
彼女はただ眺めているのではなく、あとで照合できる形に変えている。
ミリアムは録画状態を確認している。
「映像、音声、湖面観測、端末内記録、すべて保存中です」
「音声は」
「ほぼありません。風のような低音だけです」
声はない。
それに、少しだけほっとした自分がいた。
声が聞こえていたら、俺は冷静でいられなかったかもしれない。
黒い街の画面が揺れる。
誰かが通った。
銀白の長い髪。
画面を横切ったのは、その一部だけだった。
後ろ姿ですらない。
肩より先か、髪の流れか、布の揺れか。
顔は映らない。
全身も映らない。
ただ、夜の黒に、銀白が一筋流れた。
そのあとに、氷青の光が一瞬だけ残る。
俺は息を止めていた。
知らない。
あんな髪をした知り合いはいない。
弟ではない。
俺の知っている弟の髪は、あんな色じゃなかった。
外見は一致しない。
顔もない。
声もない。
名前もない。
それなのに。
頭の中で、弟という言葉が浮かんだ。
乱暴な結びつけだ。
わかっている。
シルフェリア渓域で光の英雄の名を突きつけられてから、ずっと弟のことを思い出していた。
だから、何を見てもそこへ繋げようとしているのかもしれない。
黒い街も、銀白の髪も、俺の弟とは関係がない。
そう考える方が自然だ。
自然なのに、胸の奥が苦しい。
「秀直さん」
ソフィアが静かに呼んだ。
彼女は画面を覗き込まなかった。
ただ、俺の隣に座った。
「匂いが変わりました」
「俺の?」
「はい。怖い匂いと、期待している匂いが混じっています」
逃げ場のない指摘だった。
俺は苦笑しようとして、失敗した。
「何を見たか、聞かないのか」
「聞いた方がいいですか」
「いや」
俺は首を横に振る。
「今は、まだ言葉にできない」
「なら、隣にいます」
ソフィアはそう言って、本当にただ隣に座った。
問い詰めない。
慰めすぎない。
その距離が、今はありがたかった。
湖面の像では、画面外に誰かがいる気配があった。
人物の形は結ばない。
ただ、黒い街の側で、複数の光が反応しているように見える。
契約光。
そう呼びたくなるような、細い光の筋。
けれど、これもまだ名前をつけるべきではない。
「アクアリナ」
シャルロッタが呼ぶ。
「これは、遠い場所ですか。過去ですか。それとも、別の種類の像ですか」
アクアリナは湖へ手を触れたまま、目を閉じている。
白竜がその隣で低く喉を鳴らした。
「遠いです」
「島内の距離として遠い、という意味ですか」
「違います」
「時間として遠い?」
「それも少し違います」
「では、別の場所」
アクアリナは眉を寄せた。
言葉を探している。
「空の重なり方が違います」
シャルロッタはすぐに聞き返さなかった。
まず紙に書き留める。
「空の重なり方が違う。今は、そう記録します」
「はい」
「誰か、そこにいますか」
「います。でも、水は名前を知りません」
アクアリナの声が少し揺れた。
「誰かが、帰ってきた直後に近いです。帰ったのに、まだ選ばなければならない感じ」
帰ってきた。
選ばなければならない。
その言葉だけで、また胸が揺れる。
やめろ。
証拠に弟の要素はない。
証拠は黒い街。
月の紋章。
銀白の髪。
氷青の光。
画面外の気配。
それだけだ。
弟の顔も声も、ここにはない。
名前を呼ぶ材料もない。
「秀直様」
シャルロッタが俺を見る。
俺はうなずく。
「わかってる。結論は出さない」
「はい」
その返事には、信頼と警告が両方あった。
湖面の像が、ふっと強くなった。
ミリアムが息を飲む。
「通常配信レイヤーへ侵入しています」
「止めろ」
「数フレーム流れました」
固定カメラ側のコメント欄が、一気に荒れる。
《コメント:今の街どこ?》
《コメント:黒い街映った?》
《コメント:銀髪いた?》
《コメント:止めたってことはヤバいやつ?》
《コメント:何これ何これ》
俺は配信画面を見た。
数フレーム。
それだけでも、視聴者は見ている。
拡散される前に判断しなければならない。
「通常配信を一時停止する」
俺は言った。
クリスティーナが驚いた顔をする。
「師匠、今の、ものすごい話題になりますよ」
「なるだろうな」
「止めるんですか」
「止める」
俺は迷わなかった。
少なくとも、その答えだけは。
「隠すためじゃない。誰の記憶かわからないものを、無断で広げないためだ」
クリスティーナの目が揺れる。
配信者としては、たぶん止めない方が正しい瞬間がある。
数字は回る。
話題になる。
世界の秘密に近づいた感触も出る。
でも、これは誰かの記憶かもしれない。
誰かが必死に選んでいる場所かもしれない。
それを、俺たちの娯楽として流していい理由にはならない。
「ミリアム、停止ログも残してくれ」
「はい。停止理由も記録しますか」
「記録する。未確認の反射像が通常配信へ侵入したため、権利者不明の記憶・映像の無断拡散を避けるため、と」
「そのまま記録します」
通常配信が止まる。
画面上には、一時停止の表示。
湖畔は静かになった。
ティアナが湖へ耳を澄ませる。
「息を詰める音がします」
「湖から?」
「はい。言葉ではありません。でも、誰かが緊張して息を止めているみたいです」
誰か。
また、その言葉だ。
アクアリナが白竜を見る。
白竜は湖面へ尾を打った。
水が大きく波打つ。
黒い街の像が揺らぎ、月蛇の紋章が遠ざかる。
銀白の光も、氷青の残滓も、水の奥へ沈んでいく。
「まだ見せる時じゃない、と言っています」
アクアリナが翻訳した。
「白竜が?」
「はい。たぶん、水も」
湖面の長方形が閉じる。
残ったのは、夜の湖だけだった。
静かすぎるほど静かな湖。
ミリアムが深く息を吐く。
「録画を保全しました」
「内訳は」
「生データ。通常配信へ流れた数フレーム。湖面観測映像。手元端末映像。音声波形。すべて分けています」
「ありがとう」
俺は停止した画面を見る。
最後のフレームに、月の中の翼ある蛇が残っていた。
それは、俺の知らない紋章だ。
弟とは関係がない。
そう言い聞かせる。
言い聞かせても、名前は浮かぶ。
弟の名前。
俺はその名を、口にはしなかった。
見間違いなら、それでよかった。
ミリアムが、違うと言うまでは。
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