第004話 飛竜の巣と風の規律
「ならば、風に示しなさい」
シルフェリアの言葉で、橋の白い光が少し強くなった。
まるで、今のやり取りを聞いていたみたいに。
いや、この世界では本当に聞いている可能性がある。
風の神域。
竜皇の目覚め。
神々の遊戯。
考え始めるときりがない。
だから今は、目の前の橋を見る。
橋は細い。
谷の向こうまで、白い帯のように伸びている。
欄干はあるが、飾りみたいな細さだ。
下は雲と岩と、風の音。
落ちたらどうなるかは、あまり想像したくない。
「先に言っておきます」
シルフェリアが俺たちを見た。
「橋の上では走らないこと。風の流れに逆らわないこと。飛竜の声が聞こえても、許可なく応じないこと」
「応じるって、鳴き返すとかですか?」
クリスティーナが真面目な顔で聞いた。
シルフェリアは一瞬だけ彼女を見る。
「冗談ではありません。飛竜は、風と声で群れの位置を確認します。不用意な声は、彼らの判断を乱します」
「すみません。今のは本当に質問でした」
クリスティーナが小さく頭を下げる。
いつもの軽口に見えたが、目はちゃんと緊張している。
この橋が怖くないわけではないのだろう。
俺も怖い。
怖いが、それよりも隣が気になった。
ソフィアは橋の入口に立っている。
顔は少し白い。
それでも、下がらない。
「ソフィア」
俺が呼ぶと、彼女は振り向いた。
「無理はするな」
言ってから、しまったと思った。
また俺が止める側になりかけている。
ソフィアは少しだけ困った顔をした。
でも、怒らなかった。
「はい。無理はしません」
そして、橋を見た。
「でも、歩きます」
その一言で、俺の中の余計な心配が静かに切られた。
そうだ。
歩くかどうかは、ソフィアが決める。
「わかった」
俺はうなずく。
「隣にいる」
「はい」
ソフィアは小さく返事をして、白い橋へ足を置いた。
橋が鳴った。
高い音ではない。
風鈴のような、でももっと低くて深い音。
光がソフィアの足元から広がり、橋の表面を細い波紋のように走っていく。
誰も息をしなかった。
少なくとも、俺にはそう感じた。
ソフィアは一歩、進んだ。
橋は落ちない。
風も荒れない。
飛竜の咆哮も、急には響かない。
ただ、白い橋が静かに光っている。
《コメント:渡った》
《コメント:一歩目》
《コメント:ソフィアちゃん自分で歩いた》
《コメント:橋、普通に反応してる?》
《コメント:風が乱れた感じはないよな》
《コメント:シルフェリアの顔映ってる?》
俺は配信画面を少しだけ傾けた。
シルフェリアの顔を正面から映すためではない。
橋と風と、ソフィアの足元が記録されるように。
誰かを追い詰める映像ではなく、起きたことを残す映像にする。
その線引きは細い。
でも、細いからこそ意識しないと簡単に越える。
「橋に異常反応なし」
ミリアムが端末を見ながら言った。
「風圧、通常範囲内。橋脚光量、個人認証反応と思われます。種族差による乱流は検出できません」
「検出できないだけです」
シルフェリアがすぐに言った。
「風の変調は、数値に現れる前に飛竜が感じ取ります」
「では、飛竜の反応も記録します」
ミリアムは淡々と返す。
その淡々さが、今は頼もしかった。
ソフィアは二歩目を踏み出した。
俺もその隣に足を置く。
白い橋は、今度は俺の足元でも鳴った。
足裏に、薄い膜の上を歩いているような感触がある。
固い。
でも、生き物の背中みたいにわずかに揺れる。
シャルロッタ、ミリアム、ティアナ、クリスティーナ、ミラが続く。
シルフェリアは少し距離を置いて歩き始めた。
ソフィアのすぐ後ろではない。
隣でもない。
監視できる位置。
同時に、風の流れを読める位置なのだろう。
その距離に、俺はまだ苛立ちを覚える。
ただ、さっきとは違う。
シルフェリアの視線は、もうソフィアの耳と尻尾だけを見ていない。
足運び。
呼吸。
橋の光。
風の揺れ。
神官として確認している。
それが良いことなのか、最低限のことなのかはわからない。
でも、変化ではあった。
橋の中央へ進むと、谷の音が変わった。
下から吹き上げる風が、横から来る風とぶつかっている。
俺の耳にはただの強い風に聞こえる。
けれど、ティアナが顔を上げた。
「音が、割れています」
「割れてる?」
「はい。同じ風なのに、重なっていません」
ティアナは不安そうに喉元へ手を当てる。
「歌うと、たぶん喉が持っていかれます」
「今は歌わなくていい」
俺が言うと、ティアナはこくりとうなずいた。
シルフェリアがこちらを見る。
ティアナの言葉を、軽視していない顔だった。
「……風音の割れは、数日前から報告されています」
「異常なんですか」
「季節の変わり目にはあります」
シルフェリアは答えた。
けれど、その声には少し迷いがあった。
ミリアムが記録する。
俺も配信画面を橋の先へ向けた。
白い橋の向こう側に、岩壁へ張りつくような広い巣場が見えてくる。
巨大な棚田みたいに岩が段々になっていて、その上に木と縄と骨材で組まれた足場がある。
そして、飛竜。
思っていたより大きい。
翼を畳んでいても、小型の馬車くらいはある。
長い首。
細い脚。
風を切るための薄い翼膜。
その体が何頭も、岩棚の上で落ち着きなく動いていた。
《コメント:飛竜きた》
《コメント:でかい》
《コメント:かっこいいけど、なんか落ち着きない?》
《コメント:翼ばたついてる》
《コメント:風の音やばいな》
配信越しにも、ざわつきは伝わるらしい。
飛竜たちは、こちらを見ている。
いや、こちらだけではない。
風の上の何かを見ている。
何もない空間へ首を向け、翼を震わせ、低く鳴く。
その声が谷に反響して、橋がかすかに揺れた。
「止まってください」
シルフェリアの声が鋭くなった。
全員が足を止める。
「ここから先は、私の指示なしに進まないこと。特に、竜へ不用意に近づかないでください」
「わかりました」
ミラがすぐに答えた。
俺も頷く。
クリスティーナだけが、目を輝かせすぎていた。
「師匠、あの翼の付け根、すごい構造です。魔力で補助してるんでしょうか。近くで見ると」
「近づくな」
俺とソフィアの声が重なった。
クリスティーナがびくっと止まる。
俺は少し遅れて、ソフィアを見た。
ソフィアも自分で驚いた顔をしていた。
でも、すぐ飛竜の方へ向き直る。
「だめです。今、怖がっています」
「飛竜が?」
「はい」
ソフィアは鼻先を少し上げた。
獣人の嗅覚で、この風の中から何かを拾っている。
「人が怖い、だけじゃないです。焦げた匂いと、金属みたいな匂いがします。あと、苦い匂い」
「苦い匂い?」
クリスティーナが小声で繰り返す。
「薬ですか?」
「薬かはわかりません。でも、落ち着かない匂いです」
シルフェリアの表情が変わった。
「焦げた匂い?」
「はい。風の奥からします」
「飛竜の巣に火は禁じられています」
シルフェリアの声が硬くなる。
それは、ソフィアへの疑いではなかった。
別のものへの警戒だ。
彼女は配下の風神官へ短く指示を出す。
数人が岩棚の奥へ走った。
その動きは速い。
この場を何度も守ってきた人間の動きだった。
「シルフェリア」
俺は呼んだ。
「飛竜は、前にもこうなったことがあるのか」
「小さな乱れはあります。ですが、ここまで長引くことは多くありません」
「原因は」
「外来者による接触です」
即答だった。
俺の眉が動く。
シルフェリアはそれに気づいたのか、少しだけ声を落とした。
「昔、旅の魔術師が飛竜の翼膜を採取しようとしたことがあります」
ティアナが息を飲む。
「生きている竜から?」
「はい」
シルフェリアの目が、飛竜の群れへ向く。
「飛竜は群れで風を読みます。一頭が傷つけば、群れ全体が乱れます。その時は、子竜が三頭、谷へ落ちました」
誰もすぐには言えなかった。
シルフェリアの厳しさの根は、そこにある。
この人は、偏見だけで橋を守っているわけではない。
守れなかった記憶がある。
たぶん、失ったものもある。
だから外から来た者を疑う。
だから、規律を強くする。
だからといって、ソフィアを血だけで止めていい理由にはならない。
ならないが。
彼女の硬さが、ただの悪意ではないことはわかった。
それがわかると、怒りは少し複雑になる。
「その事件は、記録に残っていますか」
シャルロッタが聞いた。
「残っています」
「では、その記録と今回の判断を混同しない方がいいでしょう」
シルフェリアの目が細くなる。
だが、シャルロッタは続けた。
「過去に飛竜を傷つけた外来者がいたことと、今ここにいるソフィアが危険であることは、別の事実です」
「別の事実でも、守る側は最悪を考えます」
「最悪を考えることと、誰かを最悪として扱うことも、別です」
風が強く吹いた。
シルフェリアの長い髪が、白い布のように揺れる。
彼女は何かを言い返そうとして、やめた。
その時、奥の岩棚で飛竜が一頭、大きく翼を広げた。
竜騎士らしき男が手綱を引く。
だが、飛竜は従わない。
翼膜が風を受け、足場の縄が軋んだ。
「下がってください」
シルフェリアが叫ぶ。
俺たちは岩壁側へ寄った。
飛竜は暴れるというほどではない。
ただ、何かを避けようとしている。
見えないものがそこにあるみたいに、首を振り、爪で岩を掻く。
「あそこです」
ソフィアが言った。
指差したのは、巣場の奥。
岩壁に半分埋もれるような、古い柱があった。
柱というより、壊れた祭具。
金属の輪がいくつも重なり、中央に青白い石が嵌められている。
その石が、かすかに明滅していた。
風の音に混じって、低い震えが聞こえる。
耳ではなく、骨で聞くような音だった。
「神具です」
ミラがつぶやいた。
「風の流路を整えるための、古い神具。まだ稼働していたのですか」
「稼働ではありません」
シルフェリアの声が厳しくなる。
「あれは封じられているはずです」
ミリアムが端末を持ち上げた。
「映像、拡大します」
配信画面に、神具が大きく映る。
石の周囲に、黒っぽい煤のような跡。
金属輪の一部は、わずかに歪んでいる。
飛竜はその方向を嫌がっている。
ソフィアの言った焦げた匂いも、たぶんあそこだ。
《コメント:これ原因では》
《コメント:神具が壊れてる?》
《コメント:焦げ跡見える》
《コメント:さっきの風の乱れ、これか?》
《コメント:触るな危険》
俺も同じことを思った。
触るな危険。
ただ、見なかったことにもできない。
「ミリアム、記録」
「しています。映像、音声、風音、飛竜反応、ソフィアさんの嗅覚証言を分けて保存します」
「ソフィア」
「はい。近いです。あの神具のあたりから、焦げた匂いがします。あと、飛竜の匂いが苦しくなっています」
シルフェリアがソフィアを見る。
疑いではない。
確認の目だ。
「あなたには、そう感じるのですか」
「はい」
「どの程度近づけば、さらにわかりますか」
「近づけばわかると思います。でも、飛竜が怖がるなら近づきません」
その返答に、シルフェリアは一瞬だけ黙った。
ソフィアは、自分の力を示すために飛竜を脅かすことは選ばなかった。
この渓域を守りたい、と言った言葉を、自分で守っている。
「俺が先に見る」
思わず言うと、今度はソフィアが俺を見た。
そして、首を横に振る。
「ご主人さまも、許可なく近づいたらだめです」
「……そうだった」
クリスティーナが小さく笑いそうになって、慌てて口を押さえた。
こんな時に笑うな、と思ったが、少しだけ俺も助かった。
前に出るだけが正解じゃない。
橋の前で学んだばかりなのに、もう忘れかけていた。
俺は配信画面を神具へ向けたまま、足を止める。
「シルフェリア。調査許可を」
できるだけ静かに言った。
「あの神具が風を乱している可能性がある。飛竜にも影響が出てる」
「許可できません」
返答は早かった。
早すぎるくらいだった。
「神具は渓域の中枢です。外来者が触れてよいものではありません」
「触るとは言ってない。まず確認を」
「確認も同じです」
シルフェリアは一歩前に出た。
飛竜が鳴く。
風が、巣場の足場を揺らす。
「ここは風神官の管理地です。飛竜の巣であり、渓域の生命線です。あなた方が何を記録していようと、神具への接近は認めません」
その声には、また壁が戻っていた。
ただし、今度の壁はソフィア一人へ向けたものではない。
渓域全体を守るための壁。
それでも、壁であることに変わりはない。
シャルロッタが静かに息を吸った。
ミラが表情を引き締める。
ミリアムは記録画面を保存しながら、神具の歪みを拡大している。
次に必要なのは、怒りではない。
手続きだ。
たぶん、シャルロッタの領分になる。
「許可なく触れれば、渓域への敵対と見なします」
風より先に、言葉が壁になった。
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