第003話 ソフィア、自分の足で立つ
「わたし、ここにいない方がいいですか」
ソフィアの声は、風に押されたら消えてしまいそうだった。
けれど、消えなかった。
橋の前にいる全員が、その言葉を聞いた。
シルフェリアも。
ミラも。
シャルロッタも。
ミリアムも、ティアナも、クリスティーナも。
そして、俺も。
答えなければならない。
そう思った瞬間、喉まで言葉が上がってきた。
そんなわけがない。
ここにいていい。
俺たちと一緒に来ればいい。
いくらでも言える。
言えるのに、言ってしまえば、それは俺の答えになる。
ソフィアが聞きたいのは、たぶん俺からの許可だけじゃない。
この橋の前で。
この風の中で。
自分がどう立つのか。
そこを、誰かに決められたくないのだ。
俺は、唇を噛んだ。
情けないくらい、何もできない。
でも、何もしないことが必要な時もある。
それを、今やっと覚え始めている。
「ソフィア」
シャルロッタが静かに呼んだ。
ソフィアの肩が、少しだけ震える。
「あなたの問いです。答える権利も、あなたにあります」
その言い方は、やさしい。
やさしいのに、甘くはない。
前へ出るなら自分で出なさい、と言っている。
ソフィアは一度、目を閉じた。
獣耳が、風の音を拾うようにわずかに動く。
尻尾はまだ身体の近くにある。
それでも、さっきより強く握りしめたような硬さは消えていた。
「……ご主人さま」
俺は反射的に返事をしそうになった。
けれど、ソフィアは俺の返事を待たなかった。
「わたし、自分で話してもいいですか」
その言葉で、胸の奥が痛くなる。
許可を求める言い方だった。
でも、前へ出ようとしている言葉でもあった。
俺はうなずいた。
「もちろん」
それ以上は言わない。
言いたくなる。
守る、とか。
大丈夫だ、とか。
言いそうになる言葉を全部、奥歯で止めた。
ソフィアは小さく息を吸った。
そして、シルフェリアを見た。
まっすぐ、とは言えない。
視線は何度も揺れた。
それでも、逸らし続けることはしなかった。
「シルフェリア様」
シルフェリアは返事をしない。
ただ、風の橋の入口に立ったまま、ソフィアを見ている。
いや。
見ている、というより、確認している。
獣耳。
尻尾。
血統。
規律に照らすための情報として。
それがわかったのか、ソフィアの手が服の裾を掴んだ。
けれど、下がらなかった。
「わたしは、風を汚しに来たんじゃありません」
短い言葉だった。
それだけなのに、コメント欄の流れが一瞬だけ止まったように見えた。
《コメント:ソフィアちゃん》
《コメント:自分で言った》
《コメント:がんばれ》
《コメント:これ配信で見ていいやつなのかって気持ちもある》
《コメント:でも残してほしい》
俺も同じことを思っていた。
見ていいのか。
残していいのか。
でも、ソフィアが今、自分で話している。
だったら勝手に消すのも違う。
「ミリアム」
俺は小声で呼んだ。
「はい」
「ソフィアが望めば、この部分は公開版から外せるようにしてくれ」
「原本保存、公開編集権は本人確認扱いにします」
「頼む」
ミリアムの返事は短い。
でも、それだけで少し息ができた。
記録は残す。
けれど、記録された人間から所有権を奪わない。
たぶん、それが俺たちのやり方だ。
「汚しに来たのではない、とあなたは言う」
シルフェリアが口を開いた。
「ですが、風が乱れれば結果は同じです」
「まだ、乱していません」
ソフィアの声は震えていた。
でも、言葉は折れていない。
「わたしは、橋に足を置いてもいません。飛竜にも近づいていません。風が苦手なら、近づき方を教えてください。危ないことがあるなら、守ります」
そこで、少し詰まる。
ソフィアは唇を結んだ。
言葉を探している。
俺は待つ。
隣でシャルロッタも待っている。
ティアナは胸元で両手を握り、クリスティーナは前へ出たそうな足を必死に止めていた。
「でも」
ソフィアが続けた。
「見ただけで、だめって言われるのは……苦しいです」
風の音が、やけに大きく聞こえた。
苦しい。
その一言は、怒鳴り声より強かった。
「わたしは、昔、言われたことがあります」
ソフィアは視線を落とした。
「獣人だから、買われたんだって。獣人だから、黙っていればいいって。獣人だから、人の前に出ない方がいいって」
長い話ではない。
ただ、短い傷跡だけが置かれていく。
それが逆に重かった。
俺は拳を握りしめた。
ここで怒るな。
今の主語は、俺じゃない。
俺の怒りじゃない。
ソフィアの声だ。
「ご主人さまに会ってからも、すぐには変われませんでした」
ソフィアは少しだけ俺を見る。
その目に、申し訳なさがあった。
そんな顔をする必要はない。
そう言いたい。
でも、飲み込む。
「後ろにいた方が安心でした。言われたら下がる方が、怖くありませんでした」
シルフェリアの表情が、ほんの少し変わった。
眉が動く。
それは同情ではない。
理解でもない。
ただ、想定していなかった言葉を聞いた顔だった。
「でも」
ソフィアは服の裾から手を離した。
指先は震えている。
それでも、離した。
「もう、黙って下がるだけではいたくないです」
誰も声を出さなかった。
橋の白い光が、ソフィアの足元を照らしている。
彼女はまだ橋には乗っていない。
それでも、そこに立っている。
自分の足で。
《コメント:これは泣く》
《コメント:ソフィア先輩って呼びたい》
《コメント:秀直が黙ってるのいい》
《コメント:シルフェリア聞いてる?》
《コメント:聞いてはいる。認めるかは別》
コメント欄は熱を持っている。
けれど、風の橋でソフィアへ向けられた時のような一方向の怒りだけではなかった。
ソフィアの言葉が、視聴者の怒りを少し変えた。
誰かを叩くための熱ではなく。
彼女が立っていることを見届けるための熱へ。
「あなたの事情は理解しました」
シルフェリアが言った。
その瞬間、クリスティーナの眉が跳ねた。
俺も、少しだけ息が荒くなる。
事情。
その言い方は、便利すぎる。
ソフィアの言葉を、小さな個人的事情に押し込める言葉だ。
「しかし、私には渓域を守る責務があります」
シルフェリアは続けた。
「風の橋は、感情で渡すものではありません」
ソフィアの顔が少し曇る。
それでも、下がらない。
俺は一歩出そうになった。
そこで、シャルロッタが俺より先に口を開いた。
「規律であるなら、記録と根拠が必要です」
涼しい声だった。
怒りを薄く刃にしたような声。
「風神官シルフェリア様。あなたは先ほど、獣人であることを理由に渡橋を拒否しました。では、その規律はどの条文に基づくものですか」
「条文の問題ではありません。渓域には、口伝の規律も」
「口伝を否定しているのではありません」
シャルロッタは一歩も引かない。
「ただし、口伝で人を排除するなら、その口伝が何を禁じ、誰に適用され、どの権限で執行されるのかを示す責任があります」
ミラが深くうなずいた。
「神官組織の手続きとしても、その確認は必要です。特に、光の英雄一行の調査協力を拒む形になりますから」
「光の英雄」
シルフェリアが俺を見る。
俺は首を横に振った。
「今はその名前で押す気はない」
「では、何の権限で」
「ソフィアが聞いた。シャルロッタが手続きを聞いた。ミリアムが記録を調べてる。俺は、ここにいるだけだ」
言ってから、少し情けないと思った。
でも、今回はそれでいい。
俺が全部をやる回じゃない。
俺は、隣で待つ。
それが難しい。
戦うより、たぶんずっと。
「ミリアム」
シャルロッタが呼ぶ。
「確認できますか」
「現在照合中です」
ミリアムの指が端末の上を走っている。
配信画面とは別に、神官団から共有された渓域資料、過去の通行規定、風の橋の維持記録が並んでいる。
彼女の目は、いつもの柔らかさを消していた。
数字と文字を見る時のミリアムは、静かに怖い。
「風の橋の古規律。初期条文には、風を乱す者の渡橋制限があります」
シルフェリアの表情がわずかに緩む。
けれど、ミリアムは続けた。
「ただし、種族名の明記はありません」
その場の空気が、少し変わった。
「後年の注釈に、獣性の強い者、竜を脅かす匂いを持つ者、という表現があります。しかし、これも対象は状態であって血統ではありません。さらに注釈には、風神官による現認と、危険兆候の記録が必要とあります」
「危険兆候はあります」
シルフェリアが言う。
「獣人の血は、風を」
「それは兆候ではありません」
ミリアムが遮った。
珍しく、強い声だった。
「分類です」
短い言葉が、橋の前に落ちた。
シルフェリアが黙る。
ミリアムは端末から目を上げない。
「現時点で、ソフィアさんによる風流乱化、橋脚反応、飛竜興奮反応の記録はありません。反対に、渡橋前の段階で拒否発言が先に記録されています」
「ミリアム」
俺は小さく呼んだ。
「はい。公開版には、断定表現を避けます。これは検証記録です」
わかっている。
彼女は怒っていても、記録を雑に扱わない。
それが彼女の強さだ。
「ソフィア」
ティアナが小さく名前を呼んだ。
それだけだった。
でも、ソフィアの耳が少し動いた。
クリスティーナはもう我慢できない、という顔で拳を握っている。
それでも声量を落として言った。
「ソフィア先輩、かっこいいです」
ソフィアが、少しだけ目を丸くした。
「せ、先輩?」
「はい。今のは先輩です。完全に先輩です」
「よくわからないです」
「わからなくても大丈夫です。私も勢いで言っています」
こんな場面なのに、少しだけ空気が緩んだ。
ソフィアの口元も、ほんの少しだけ動く。
笑った、というには小さい。
でも、さっきまでの作った笑顔とは違った。
俺は胸の奥で息を吐いた。
「ソフィア」
今度は俺が呼んだ。
彼女がこちらを見る。
何を言うべきか、少し迷った。
よくやった、は違う気がする。
守ってやれなくて悪い、も今は違う。
だから、短くした。
「言えたな」
ソフィアは一瞬、泣きそうな顔になった。
けれど、泣かなかった。
「はい」
その返事は、風に負けなかった。
シルフェリアは、橋の入口で沈黙していた。
彼女の中で、何かがすぐに変わったわけではない。
顔に浮かんでいるのは、納得ではなく、困惑だ。
自分が守ってきた規律の形と、目の前に立つソフィアの姿が、うまく重なっていない。
たぶん、今はそれでいい。
人は一言で変わらない。
変わったことにすると、また誰かの痛みが飾りになる。
「規律の原文と現状記録は確認しました」
シャルロッタが言った。
「この場で、ソフィアを血統のみで排除する根拠は不足しています」
「不足」
シルフェリアが低く繰り返した。
「あなた方は、風の危険を軽く見ています」
「軽くは見ていません」
ソフィアが答えた。
今度は、少し早かった。
「怖いなら、教えてください。危ないなら、止めてください。わたしも、守りたいです」
シルフェリアの視線が、ソフィアの耳から顔へ移った。
俺はそれを見逃さなかった。
たぶん、配信にも残っている。
初めてだった。
彼女が、獣人という分類ではなく、ソフィアの顔を見たのは。
「守りたい、ですか」
「はい」
「この渓域を?」
「渓域も、飛竜も、みんなも」
ソフィアは一度言葉を切った。
そして、そっと付け足す。
「わたし自身も、です」
シルフェリアの目が、わずかに揺れた。
それは謝罪ではない。
受け入れでもない。
でも、壁にひびが入る音に似ていた。
風の橋が、白く光る。
谷の向こうで、飛竜の鳴き声が細く響いた。
シルフェリアは橋へ視線を向け、それからもう一度ソフィアを見た。
「……ならば」
風神官の声は、まだ硬い。
けれど、さっきまでとは少し違っていた。
「ならば、風に示しなさい」
シルフェリアの視線は、初めてソフィア個人を見ていた。
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