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第002話 風の橋、亜人を拒む声

「その獣人は、橋を渡れません」




 風の音が、一瞬だけ消えた気がした。




 実際には、消えていない。




 渓谷を吹き抜ける風は、さっきまでと同じように俺たちの髪を揺らし、足元の白い橋を低く鳴らしている。




 けれど、俺の耳には何も届かなかった。




 シルフェリアの声だけが、やけに澄んだまま残っていた。




「……今、何て言った」




 自分の声が低くなったのがわかった。




 隣でシャルロッタが、ほんの少しだけ俺を見る。




 止める目だ。




 怒るな、ではない。




 今ここで怒鳴るな、という目だった。




 その意味を理解するまでに、少し時間がかかった。




 俺が怒鳴れば、話は俺とシルフェリアの喧嘩になる。




 ソフィアが何を感じたのか。




 ソフィアが何を言いたいのか。




 そこへ行く前に、俺が全部を奪ってしまう。




 そうわかっていても、喉の奥に熱いものが上がってきた。




 ソフィアは一歩、後ろへ下がっていた。




 大きな獣耳が、ぴくりとも動かない。




 尻尾も、いつものように感情を先にしゃべってくれなかった。




 ただ、ぎゅっと身体の近くに寄せられている。




「シルフェリア様」




 ミラが硬い声で呼んだ。




「その言い方は、あまりに」




「言い方の問題ではありません」




 シルフェリアは俺たちを見渡した。




 冷たくはない。




 少なくとも、本人は冷たくしているつもりではないのだろう。




 姿勢はまっすぐで、声は静かで、表情には怒りも蔑みもない。




 だから余計に、たちが悪い。




 当然の規則を読み上げている顔だった。




「風の橋は、渓域の聖域に連なる道です。風を乱す血を持つ者は、渡橋を認められていません」




「風を乱す血?」




 クリスティーナがぽつりと繰り返した。




 それから、眉を寄せる。




「それは、何か測定した結果ですか。それとも伝承ですか」




「古くから守られてきた規律です」




「質問への答えになっていません」




 クリスティーナの声が、いつもの軽さをなくしていた。




 ティアナがそっと彼女の袖を引く。




 ここで前に出すぎるな、という合図だろう。




 ミリアムは端末を見ている。




 配信の状態。




 記録の状態。




 コメント欄の流れ。




 彼女はそれらを一つずつ確認し、俺に短くうなずいた。




 映っている。




 残っている。




 コメント欄は、もうざわついていた。




 《コメント:え、今の何?》




 《コメント:獣人だからダメってこと?》




 《コメント:シルフェリアさん、さっきまで普通だったのに》




 《コメント:これ差別では》




 《コメント:世界観の規則ってやつ? でも言い方がきつい》




 《コメント:ソフィアちゃん映して。いや映さないで。どっちだこれ》




 俺は画面を一度だけ見て、すぐに視線を上げた。




 コメントを読むと、怒りに燃料が入る。




 それをそのままシルフェリアへ向ければ、簡単に吊し上げになる。




 たぶん、配信ではそれが一番わかりやすい。




 悪者を決めて、怒って、叩いて、すっきりする。




 でも、今ソフィアが立っている場所は、そんなに簡単じゃない。




「シルフェリア」




 俺は呼び捨てにした。




 シルフェリアの眉が、わずかに動く。




「それは、ソフィアが何かしたからか」




「まだ、何も」




「なら、何で止める」




「今申し上げた通りです」




「ソフィア本人を見て判断したのか」




「獣人であることは見ればわかります」




 胸の奥で、何かが強く鳴った。




 怒鳴るな。




 怒鳴るな。




 俺は奥歯を噛んだ。




 シャルロッタが、わずかに息を吐く。




 彼女も怒っている。




 けれど、顔には出していない。




 この場で一番大人なのは、たぶん俺ではない。




「シルフェリア様」




 ミラが一歩前へ出た。




「渓域の古い規律に、その文言があることは知っています。ですが、現在の王都法では、亜人の血統のみを理由に通行を拒むことは」




「ここは王都ではありません」




 シルフェリアは即座に返した。




「ここは風の渓域です。風神官には、風の道を守る責務があります」




「責務と偏見は、同じではありません」




 ミラの声もまた、硬い。




 シルフェリアは目を伏せない。




「あなたは王都の理屈で語っています、ミラ。渓域では、橋が落ちれば村が孤立します。飛竜が乱れれば、谷底へ人が落ちます。風は、祈りと規律で保たれてきました」




「だからソフィアさん一人を止めるのですか」




「一人を例外にすれば、規律は規律ではなくなります」




 そこに、悪意だけがあるわけではない。




 それがまた、苦しい。




 シルフェリアは自分を正義だと思っている。




 渓域を守る者として、当然の線を引いている。




 その線の向こうに、生きている人間がいることを、たぶん見ていない。




 いや。




 人間、という言葉すら、ここでは危うい。




 ソフィアは獣人だ。




 でも、俺にとってはソフィアだ。




 そこに説明はいらないはずだった。




 いらないはずなのに、今この場所では、それが通じていない。




「あの」




 小さな声がした。




 ソフィアだった。




 全員が彼女を見る。




 それだけで、ソフィアの肩がびくりと震えた。




 俺はすぐに視線を少しだけ外した。




 見守ることと、見つめて追い詰めることは違う。




 たぶん。




 まだ俺も、よくわかっていない。




「わたし、待ってます」




 ソフィアは笑おうとした。




 笑顔の形だけを、頬に乗せようとしている。




「みなさんで先に行ってください。わたし、ここで……」




「ソフィア」




 名前を呼んだ瞬間、続きを言いそうになった。




 待たせない。




 そんなことを言いそうになった。




 けれど、言えなかった。




 言えば、俺が決めることになる。




 ソフィアが本当に待ちたいのか。




 待つしかないと思っているのか。




 それを聞かないまま、俺が格好よく否定するだけになる。




 俺は口を閉じた。




 情けない沈黙だった。




 でも、今はそれしかできなかった。




 ソフィアは俺を見て、すぐに目を伏せた。




「大丈夫です。慣れてますから」




 慣れている。




 その言葉が、一番きつかった。




 慣れていいことじゃない。




 慣れさせていいことでもない。




 でも、ソフィアはそれを、場を丸く収めるための言葉として使った。




 自分が傷ついていないふりをするためではなく。




 自分が傷つくことで、周りが困らないようにするために。




 俺は画面の録画表示を見た。




 赤い点が、淡々と光っている。




 この世界の風も、シルフェリアの規律も、ソフィアの声も、全部残っている。




 残ってしまっている。




 配信は時々、暴力になる。




 見世物にもなる。




 でも、消された痛みを、なかったことにさせない力もある。




 どちらにするかは、使う側で決まる。




「ミリアム」




「はい」




「この場の記録、編集せずに保存できるか」




「できます。配信ログ、映像ログ、音声ログ、コメント欄の時系列、すべて分けて保存します」




「コメント欄は公開ログと内部ログで分けてくれ。誰かを煽るための材料にはしない」




「ログを分けます」




 シルフェリアが俺を見る。




「何をしているのです」




「記録している」




「私を糾弾するために?」




「まだ決めてない」




 正直に言った。




 シルフェリアの表情に、初めて明確な不快感が浮かぶ。




「記録というものは、目的なく行われるものではありません」




「そうだな」




 俺はうなずいた。




「だから目的を間違えないようにしてる」




「どういう意味ですか」




「今、俺が一番やりたいのは、あんたを怒鳴ることだ」




 空気が固まった。




 シャルロッタが、今度は止めなかった。




「でも、それをやると、ソフィアの話じゃなくなる。俺が気持ちよく怒った話になる」




 言葉にすると、少しだけ自分の愚かさが見えた。




 俺は怒っている。




 間違いなく怒っている。




 けれど、その怒りはソフィアのためのものなのか。




 ソフィアを傷つけられた俺が許せない、という自分のためのものなのか。




 その境目は、思ったより細い。




「ですから、記録します」




 ミリアムが静かに言った。




「判断を急がないために。消されないように。あとから本人が、自分の言葉を取り戻せるように」




 クリスティーナが小さく息を飲んだ。




 ティアナは胸元で手を握っている。




 シャルロッタは、何も言わずにソフィアの隣へ移動した。




 触れない。




 抱きしめない。




 ただ、隣に立った。




 その距離が、今はありがたかった。




「シルフェリア様」




 ミラが言った。




「このままでは、橋を渡る試しは成立しません」




「試しを拒むのは、そちらです」




「いいえ。あなたが、最初から一人を参加者として認めていません」




 シルフェリアは沈黙した。




 風の橋が、白く光っている。




 向こう側には、切り立った岩壁と、細い道が見えた。




 あの先に、飛竜の巣がある。




 シルフェリアが守っているものも、確かにある。




 この谷で生きる人々の安全。




 風の流れ。




 祈り。




 恐れ。




 でも、守るという言葉は、時々、誰かを外へ押し出す。




 押し出された側にだけ、我慢を求める。




「一行だけ先に渡りなさい」




 シルフェリアが言った。




「獣人は、この入口で待機を。風神官の配下を一名つけます。危険はありません」




「危険がないなら、なおさら一緒に渡ればいいだろ」




「橋に危険があるのではありません。風に危険があるのです」




「その危険を、誰がどう確認した」




「渓域の歴史が確認しています」




「歴史って言えば、目の前の人間を見なくて済むのか」




 言ってしまった。




 声は荒げていない。




 でも、刃は入っていた。




 シルフェリアの目が細くなる。




 それでも彼女は、怒鳴らなかった。




 たぶん、彼女もまた自分を抑えている。




 俺たちはそれぞれ、違うものを守ろうとして、同じ橋の前で止まっている。




 《コメント:秀直、怒ってる》




 《コメント:怒っていいだろこれは》




 《コメント:でもソフィアちゃんが置いてかれるの一番つらい》




 《コメント:記録するって言ったのよかった》




 《コメント:シルフェリアにも守る理由はあるっぽいんだよな》




 《コメント:理由があってもアウトはアウト》




 コメント欄の言葉が、俺の頭の中を散っていく。




 どれもわかる。




 わかるから、今は飲み込む。




 俺は橋の入口を見た。




 足を置けば、たぶん橋は光る。




 俺たちを試すための道として、動き始める。




 でも、今ここで俺だけが渡れば、それはこの規律を受け入れたことになる。




 少なくともソフィアには、そう見えるかもしれない。




 俺は足を動かさなかった。




「渡らないのですか」




 シルフェリアが問う。




「今は」




「試しを放棄しますか」




「試しの前提を確認してる」




「前提?」




「誰が参加者で、誰が排除されるのか。その理由は何か。その理由を、本人の前で言えるのか」




 シルフェリアの視線が、初めてソフィアへ向いた。




 ソフィアは目を伏せたままだった。




 その顔を見て、シルフェリアの表情に一瞬だけ迷いが走った。




 ほんの一瞬だ。




 見間違いかもしれない。




 でも、俺はそこも記録されていると思った。




 悪意だけではないもの。




 けれど、確かに人を傷つけるもの。




 それを残すことにも、意味はある。




「ソフィア」




 俺は、できるだけ静かに呼んだ。




「今すぐ答えなくていい」




 ソフィアの耳が、少しだけ動いた。




「待ちたいなら、それを聞く。渡りたいなら、それも聞く。何も言いたくないなら、それも聞く」




 かっこいい言葉にはならなかった。




 正しい言葉かもわからない。




 ただ、今の俺に言えるのはそこまでだった。




 ソフィアは唇を開いた。




 けれど、声は出ない。




 小さく息だけが漏れた。




 シャルロッタが隣で待っている。




 ミラも、ミリアムも、ティアナも、クリスティーナも、誰も急かさない。




 シルフェリアだけが、風の橋の前でまっすぐに立っていた。




 白い橋は、俺たちの沈黙を笑うように光っている。




 ソフィアが、やっと顔を上げた。




 その目は、泣いてはいなかった。




 泣いていないから、傷ついていないわけではない。




 俺はそれを、もう知っている。




「わたし」




 ソフィアの声は細かった。




「ここにいると、迷惑になりますか」




 誰も、すぐには答えられなかった。




 風が吹く。




 橋の光が、足元で静かに揺れる。




 ソフィアはもう一度、もっと小さな声で言った。




「わたし、ここにいない方がいいですか」




 俺は答えられなかった。




 風の橋だけが、白く光っていた。




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