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第001話 シルフェリア渓域、風神官の試し

 ゼル=イスラの端から伸びた光の道は、足を乗せると固かった。




 見た目は薄い。




 雲海の上にかかった、淡い光の帯にしか見えない。




 けれど、一歩踏み出してみれば石畳みたいな感触が返ってくる。




 問題は、その下が全部空だということだった。




「……これ、落ちたらどうなるんですかね」




 俺が聞くと、ミラ=カリスは平然と答えた。




「落ちないように歩いてください」




「回答が一番怖い」




 《コメント:草》


 《コメント:安全説明が雑》


 《コメント:ししょー、足元見て》


 《コメント:高所恐怖症には無理》




 コメント欄は楽しそうだった。




 こっちは割と真剣である。




 足元には雲。




 横からは風。




 前方には、巨大な断崖と吊り橋がいくつも重なった、見たことのない土地が広がっていた。




 シルフェリア渓域。




 風の神官が守る、アルケディア大陸の第一の探索地。




 その名の通り、そこは風の土地だった。




 断崖と断崖の間を、白い風が川のように流れている。




 吊り橋はただ架かっているのではなく、風そのものに支えられているように揺れていた。




 崖の側面には、風車にも似た神具がいくつも埋め込まれている。巨大な羽根が音もなく回り、見えない力を渓谷全体へ送っているようだった。




 さらに奥。




 陽を受けて白く光る岩棚に、飛竜の巣が点在していた。




 翼をたたんだ成竜。




 首を伸ばす幼竜。




 その周りを、竜騎士らしい者たちが慎重に歩いている。




「おお……」




 口から勝手に声が漏れた。




 悔しいが、これは映える。




 配信者として、カメラを向けない選択肢がない。




「皆さん、見えてますか。ここがシルフェリア渓域です。風の橋、断崖、飛竜の巣。たぶん俺の語彙より映像のほうが強いので、しばらく景色を見てください」




 《コメント:強すぎる》


 《コメント:ファンタジー濃度が高い》


 《コメント:飛竜でかっ》


 《コメント:吊り橋こわ》


 《コメント:これゲームなら絶対落下死ある》




「ゲームじゃなくても落下死はあると思うぞ」




 言った瞬間、横からソフィアの手が伸びた。




 俺の袖を、軽くつかむ。




「ご主人さま、足元」




「はい」




 素直に返事をした。




 この高さで見栄を張るのは、あまりにも割に合わない。




 ソフィアは少しだけ耳を伏せながらも、まっすぐ前を見ていた。




 風が強いせいで、銀白の髪が揺れている。




 昨日までなら、俺は反射的に「大丈夫か」と聞いていたかもしれない。




 でも今は、少し待つ。




 彼女が自分で言うかどうかを、待つ。




「風の匂いが、濃いです」




 ソフィアが言った。




「濃い?」




「はい。土と、竜と、古い石の匂いがします。それから……少し、鋭い匂いも」




「鋭い匂い?」




 ソフィアは答えを探すように、風上を見た。




「刃物みたいな匂いです」




 詩的なのか物騒なのか、判断に困る表現だった。




 ただ、ソフィアの耳は警戒していた。




 俺はカメラを少し下げ、コメント欄から視線を外す。




 浮かれすぎるな。




 この場所はきれいだ。




 でも、きれいな場所が安全とは限らない。




「きゃっ」




 小さな声がした。




 ティアナが、風に押されて半歩よろめいている。




 シャルロッタがすぐに腕を支えた。




「大丈夫ですの?」




「う、うん。ありがとう。風の音が、思ったより近くて」




 ティアナは胸に手を当て、渓谷の奥を見た。




「怖いけど……すごいです。歌みたいに、風が重なって聞こえます」




「歌?」




「はい。低い音と、高い音が、ずっと返し合っているみたいで」




 その目には、怯えだけではない光があった。




 ティアナは怖がりながらも、耳を澄ませている。




 歌姫として、この土地の音を聞こうとしている。




 《コメント:ティアナちゃん感性が歌姫》


 《コメント:風の歌か》


 《コメント:BGMありそう》




「風の歌ですか。いいですわね」




 シャルロッタが言う。




 ただし彼女の視線は、風景ではなく橋の先に向いていた。




 吊り橋のたもとに、数人の神官らしき者が立っている。




 その姿勢。




 距離。




 こちらを見る目。




 シャルロッタは、もうそれを読んでいた。




「歓迎だけではなさそうですわ」




「だろうな」




 ミリアムも手帳を開いている。




 風でページがめくれそうになるのを押さえながら、彼女は周囲を見回した。




「神具の回転数、場所によってばらつきがあります。風向も一定ではありません。自然風だけではなく、何かで調整されていますね」




「着いて早々、よくそこまで見るな」




「記録係ですから」




 ミリアムは真面目に答えた。




 その横で、クリスティーナが吊り橋を見て目を輝かせていた。




「ししょー! あの橋、渡っていいんですか? 風で浮いてます! すごいです!」




「待て。走るな。絶対に走るな」




「走りません! ちょっとだけ速く歩きます!」




「それを世間では走ると言う」




 《コメント:クリス、落ち着け》


 《コメント:師匠の胃が削れる》


 《コメント:弟子、橋に負けるな》




 クリスティーナはむっとした顔をしたが、ちゃんと足を止めた。




 成長している。




 たぶん。




 きっと。




 そう思いたい。




 俺たちが橋の入口へ近づくと、神官の一人が前へ出た。




 薄い緑の衣。




 肩にかかる短い外套。




 腰には細い笛のような神具。




 神官というより、風を測る観測者のような印象だった。




「ここより先は、シルフェリア渓域の管理区域です」




 声は丁寧だった。




 だが、橋を塞ぐ位置は動かない。




 ミラが一歩前に出る。




「神官長ミラ=カリスです。ゼル=イスラより、光の英雄一行を案内して参りました」




 神官たちの視線が、一斉にこちらへ向いた。




 光の英雄。




 その言葉に反応した者もいる。




 俺を見た者。




 七環錫杖を見た者。




 カメラを見て眉をひそめた者。




 そして。




 ソフィアの耳と尻尾を見た者。




 俺は、その視線を見逃さなかった。




 ソフィアも気づいたのだろう。




 袖をつかむ手に、ほんの少しだけ力が入った。




 でも彼女は、俺の後ろに隠れなかった。




 半歩だけ、俺の隣に立つ。




 その動きが見えたから、俺もまだ口を出さない。




 ここで先に俺が怒れば、ソフィアが立つ場所を奪うことになる。




 そう自分に言い聞かせる。




 神官の一人が、何か言いかけた。




 その時、風が変わった。




 橋の向こうから、白い布が舞う。




 いや、布ではない。




 人影だった。




 長い外套が風を受け、翼のように広がっている。




 細い銀緑の髪。




 澄んだ灰色の目。




 肌は白く、表情は静かすぎるほど静かだった。




 彼女が橋の上に降り立つと、周囲の神官たちが一斉に頭を下げた。




「風神官シルフェリア様」




 名前が、風に乗って届いた。




 風神官シルフェリア。




 この渓域を守る者。




 ミラが小さく会釈する。




「シルフェリア。久しいですね」




「ミラ=カリス様。ゼル=イスラよりの先触れは受け取っています」




 シルフェリアの声は、よく通った。




 冷たいわけではない。




 ただ、温度が低い。




 礼儀はある。




 敵意も、まだない。




 けれど、距離がある。




「光の英雄、神酒秀直殿」




 彼女が俺を見る。




 俺は軽く頭を下げた。




「神酒秀直です。配信者をやっています」




「配信者」




 シルフェリアは、その言葉を一度だけ繰り返した。




「見聞きしたものを、遠くへ届ける者と聞いています」




「だいたい合っています」




「風と似ていますね」




 意外な返しだった。




 少しだけ、コメント欄がざわつく。




 《コメント:風と似てる》


 《コメント:おしゃれな言い方》


 《コメント:でも怖い》




 俺も同じ感想だった。




 言葉だけなら、歓迎のようにも聞こえる。




 けれど、シルフェリアの視線はその後、ゆっくりと俺の隣へ動いた。




 ソフィアの耳。




 尻尾。




 それから、首元。




 まるで、風向きを測るみたいに。




 その視線は長くはなかった。




 だが、短くもなかった。




 ソフィアの背筋が、わずかに強張る。




 俺の手が、無意識に動きかけた。




 止める。




 まだだ。




 まだ、言葉にはなっていない。




「シルフェリア」




 ミラの声が、わずかに硬くなった。




 シルフェリアは視線を戻す。




「失礼しました。風は、乱れを嫌います」




「乱れ?」




 俺が聞き返すと、シルフェリアは表情を変えずに言った。




「この渓域は、風によって保たれています。余分なもの、重いもの、穢れたものが混じれば、橋も巣も乱れます」




 穢れたもの。




 その言葉だけが、やけにはっきり聞こえた。




 《コメント:今の言い方》


 《コメント:ソフィアちゃん見てなかった?》


 《コメント:なんか空気変わった》




 コメント欄も気づいた。




 ソフィアは黙っている。




 けれど、目を伏せてはいない。




 シルフェリアは続けた。




「光の英雄一行を拒むつもりはありません。ただし、渓域へ入る者は、風の試しを受けていただきます」




「試し、ですか」




「はい。風の橋を渡ってください。橋は、渓域に害をなす者を通しません」




 神官たちが橋の両脇へ下がる。




 吊り橋が、目の前に現れた。




 細い。




 長い。




 下は雲。




 横からは、刃物みたいな風。




 どう考えても、朝一番に渡るには向いていない。




「確認ですが、安全装置は」




「風が守ります」




「その回答、今日二回目です」




 コメント欄が少し笑った。




 だが、その笑いは長く続かなかった。




 シルフェリアが一歩、橋の入口へ進む。




 俺たちを順に見た。




 シャルロッタ。




 ミリアム。




 ティアナ。




 クリスティーナ。




 そして、ソフィア。




 そこで、視線が止まる。




 風の音が強くなった。




 いや、強くなったように感じただけかもしれない。




 シルフェリアは静かに告げた。




「その獣人は、橋を渡れません」




 風の音が、一瞬だけ消えた気がした。




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