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第000話 ゼル=イスラ、空の上へ

 ゼル=イスラの朝は、地上の朝とは少し違った。




 空が近い。




 いや、正確に言えば、雲が下にある。




 足元のはるか下で、白い海みたいに雲が流れている。石造りの縁に立ってそれを見下ろすと、自分がとんでもない場所まで来てしまったのだと、今さらみたいに実感した。




「……高いな」




 口から出た感想は、あまりにも普通だった。




 もっと感動的なことを言えればよかったのかもしれない。けれど、社畜上がりのおっさんの語彙力なんてこんなものだ。




 《コメント:いや高いってレベルじゃない》


 《コメント:雲海きたああああ》


 《コメント:空島配信、画面映えが強すぎる》


 《コメント:ししょー、落ちないで》




「落ちたら俺の人生じゃなくて配信事故だからな」




 そう返すと、コメント欄が笑いで流れた。




 見てくれる人がいる。




 笑ってくれる声がある。




 地上で目を覚ましたばかりの頃とは、比べものにならない。視聴者三人から始まった配信は、今では三万を超える人間に届いている。




 《視聴者数:35,611人》




 数字を見て、俺は少しだけ息を吐いた。




 嬉しい。




 嬉しくないわけがない。




 けれど、そのぶんだけ、胸の奥に引っかかるものも増えていた。




 《コメント:光の英雄おはよう》


 《コメント:英雄様、今日のご予定は?》


 《コメント:五大国を巡った男》


 《コメント:もうこれ勇者では?》




「……英雄ってのは、まだ慣れないな」




 思わずこぼすと、背後で軽い足音がした。




 振り返る前にわかる。ソフィアだ。




 銀白の髪が朝の光を受けて淡く光っている。左の紅い目と、右の氷緑の目。そのどちらも、まっすぐ俺を見ていた。




「ご主人さまは、英雄です」




「ソフィアがそう言ってくれるのは嬉しいけどな。俺はただ、見たものを配信して、できることをやってきただけだ」




「それを、英雄と言うのではありませんか」




「言い返しづらい正論を朝から投げないでくれ」




 ソフィアは少しだけ首をかしげた。




 たぶん、冗談としては伝わっていない。でも、その表情は柔らかかった。




 あの子が、こんな顔をするようになった。




 それだけで、俺がこの世界でしてきたことには意味があったのだと思える。




 思えるのに、それでも「光の英雄」という言葉は、俺の肩に少し重かった。




「重いのは当然ですわ」




 今度はシャルロッタの声がした。




 漆黒の髪をきれいに整えた彼女は、朝から隙がない。小柄な体で、けれど背筋だけは誰よりも貴族らしく伸びている。




「称号とは、他者があなたをどう扱うかを決めるための札ですもの。便利で、危険です」




「便利で危険、か」




「ええ。利用する側に回れなければ、利用されます」




 《コメント:シャル姫、朝から政治》


 《コメント:札って表現こわ》




「コメント、変なところで茶化すな」




 シャルロッタはコメント欄を見て、ふん、と小さく鼻を鳴らした。




「茶化される程度なら、まだ健全ですわ。問題は、茶化せない場所で同じことをされる時です」




 その言葉に、ミリアムが手帳から顔を上げた。




 赤縁の丸メガネが、朝の光を少しだけ反射する。




「記録しておきます。『光の英雄』という呼称は、ゼル=イスラ到着後、明らかに増加傾向。コメント欄、現地神官、交易関係者、すべてで確認されています」




「ミリアム、朝から仕事が早いな」




「最初の揺れを見逃すと、後で検証できませんから」




 その真面目さが、今はありがたい。




 俺がふわっと違和感で済ませてしまいそうなものを、ミリアムは形にして残してくれる。




 記録。




 そうだ。




 俺は英雄になりたかったわけじゃない。




 誰にも拾われなかった声を。誰かの都合で、なかったことにされそうな出来事を。俺自身が見たものとして、配信に残したかった。




 それがいつの間にか、光だとか、英雄だとか、そういう言葉で呼ばれ始めている。




 たぶん、その呼び名自体が間違いというわけではない。




 ただ、俺がその言葉に飲まれたら、きっと何かを見落とす。




「ししょー!」




 弾む声が、重くなりかけた空気を割った。




 クリスティーナが駆けてくる。ミントグリーンの髪が揺れ、折れ耳がぴこぴこ動いた。




「さすししょです! もう空の英雄です! 地上だけじゃなくて空でも英雄!」




「増やすな。英雄に空属性を足すな」




「では、空の配信英雄ですか?」




「余計にわからん」




 《コメント:空の配信英雄》


 《コメント:称号更新された》


 《コメント:さすししょ!!》




 クリスティーナはコメントを見て、胸を張った。




「ほら、皆さんもそう言っています!」




「視聴者を味方につけるんじゃない」




 頭を抱えかけたところで、今度は歌うような声が降ってきた。




「でも、空に届く声って、少し素敵です」




 ティアナだった。




 ラベンダーパープルの髪が、風にふわりと流れる。彼女はゼル=イスラの縁から雲海を眺め、胸の前で小さく手を組んだ。




「地上で歌った声も、ここまで届いていたのでしょうか」




「どうだろうな」




 雲の下には、俺たちが巡ってきた五大国がある。




 そこで出会った人たちがいる。




 助けられた人も、助けられなかった人も。名前を知っている人も、配信の向こうで一瞬だけ交わった人も。




 今は見えない。




 でも、なかったことにはならない。




「届いてたらいいな」




 そう言うと、ティアナは小さく笑った。




 その時だった。




 腰に提げた七環錫杖が、ちり、と鳴った。




 強い音ではない。けれど、その場にいた全員が気づくくらいには、空気が変わった。




 ソフィアの耳が立つ。




 シャルロッタが表情を締める。




 ミリアムが手帳を押さえる。




 ティアナが息を呑む。




 クリスティーナが俺の半歩前に出ようとして、ソフィアにそっと止められる。




 《コメント:今鳴った?》


 《コメント:七環さん?》


 《コメント:なんか画面揺れた》




「……来ましたか」




 背後から、静かな声がした。




 ミラ=カリスが、回廊の影から歩いてくる。




 この人はいつも、気づいた時には必要な場所に立っている。




「今のは?」




「竜皇の眠りが、浅くなっています」




 ミラは、雲海の向こうを見た。




 視線の先に何があるのか、俺にはまだわからない。




「ゼル=イスラは、アルケディア大陸の外縁に触れました。これより先は、地上の五大国とは違います。神官たちの土地であり、古い約束の土地です」




「古い約束」




「はい。そして、古い偏見の土地でもあります」




 ソフィアの肩が、わずかに動いた。




 ミラはそれを見逃さなかった。けれど、視線をそらしもしなかった。




「最初に向かうのは、シルフェリア渓域。風の神官が守る場所です。風の橋、飛竜の巣、そして上層へ続く古い道があります」




「観光案内なら最高なんだけどな」




「観光だけで済めば、私も楽です」




 ミラの声は淡々としていた。




「シルフェリア渓域の神官は、外来者に厳しい。そして、亜人に対してはさらに厳しい傾向があります」




 空気が止まった。




 コメントも、一瞬だけ流れが鈍った。




 《コメント:え》


 《コメント:ソフィアちゃん……》


 《コメント:またか》


 《コメント:上層でもそういうのあるのか》




 俺は、ソフィアを見た。




 ソフィアはまっすぐ立っていた。




 でも、尻尾の先がわずかに揺れている。




 怖がっているのか。




 怒っているのか。




 それとも、昔の記憶が少しだけ戻ってきたのか。




 俺には全部はわからない。




 わからないから、勝手に決めつけるのは違う。




「ソフィア」




「はい」




「無理はしなくていい」




 俺がそう言うと、ソフィアは少しだけ目を伏せた。




 そして、すぐに上げた。




「無理かどうかは、私が決めます」




 その声は小さかった。




 でも、はっきりしていた。




 俺は返事を探して、一拍遅れた。




「ご主人さまが隣にいてくださるなら、私は歩けます」




 守る。




 その言葉を、俺はずっと大事にしてきた。




 この世界で最初に俺ができたことは、誰かを守ろうとすることだったからだ。




 でも、守るというのは、前に立って全部の矢を受けることだけじゃないのかもしれない。




 隣で待つこと。




 相手が自分の足で立つ瞬間を、勝手に奪わないこと。




 それも、たぶん守ることの一つだ。




「わかった」




 俺はうなずいた。




「一緒に行こう」




 ソフィアの耳が、ほんの少しだけ揺れた。




 《コメント:ソフィアちゃん強くなったな》


 《コメント:ししょー、隣にいろ》


 《コメント:守るだけじゃないんだな》




 俺はカメラの位置を直した。




 雲海。ゼル=イスラの縁。集まった仲間たち。そして、これから向かう見えない渓域。




 画面の中に、全部を入れる。




「さて」




 俺は息を吸った。




「今日の配信は、ゼル=イスラからお送りします。これから俺たちは、アルケディア大陸の第一の探索地、シルフェリア渓域へ向かいます」




 《コメント:きた》


 《コメント:第二幕開始感》


 《コメント:風の神官か》


 《コメント:飛竜見たい》


 《コメント:無事に帰ってこいよ》




「英雄かどうかは知らん。俺は、俺が見るものを記録する」




 言いながら、胸の奥にあった重さが少しだけ形を変えた。




 光の英雄。




 そう呼ばれることから、逃げるつもりはない。




 でも、その言葉に俺自身を預けるつもりもない。




 俺は配信者だ。




 記録者だ。




 誰かの声が奪われそうになるなら、その場にカメラを向ける。




 誰かが自分の足で立とうとするなら、その瞬間を勝手に飾らず、勝手に奪わず、ただ残す。




 それが、俺のやり方だ。




 ミラが手をかざす。




 ゼル=イスラの端に、淡い光の道が浮かび上がった。




 雲海へ向かって伸びる、細い橋。




 その先で、風が鳴っている。




 竜皇の眠りが浅くなっている。




 神官たちの土地が待っている。




 古い約束と、古い偏見が待っている。




 俺はカメラを起動したまま、一歩を踏み出した。




 空は、地上より自由に見えた。




 けれど、風の先に待っていたのは、自由とは別のものだった。




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