第027話 竜皇の夢の入口
ミラ=カリスは、祭壇の前で膝をついた。
白い谷の奥にある祭壇は、思っていたより小さかった。
巨大な竜皇へ祈る場所なら、もっと高く、もっと荘厳であるべきだと、どこかで思っていたのかもしれない。けれど実際には、石を平らに削った低い台と、風化した碑文があるだけだった。
それでも、ミラにはわかる。
ここは、声を大きくする場所ではない。
声を低くして、耳を近づける場所だ。
「現行儀礼では、ここは封印へ祈る祭壇とされています」
彼女は碑文を指でなぞらず、少し離して読んだ。
「ですが、原文は違います。封印へ祈る、ではない。眠りへ証を置く、に近い」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
自分が信じてきた祈りが、完全な嘘だったとは思わない。
けれど、祈ってきた相手を、違う名前で呼んでいたかもしれない。
眠りを閉じ込めるものとしてではなく、眠りへ証を置くものとして。
ミリアムが背後で記録する。
「翼状地形の祭壇でも、伝承が後世に書き換えられた可能性あり。現行儀礼の『封印へ祈る』と、碑文原文の『眠りへ証を置く』は一致しない」
ミラは頷いた。
それでいい。
今、自分に必要なのは、信じてきた言葉を守ることではなく、読める言葉を読める範囲で残すことだ。
祭壇の周囲で、現実側の役割分担が決められていく。
秀直、ミラ、ティアナ、ミリアムが浅い夢へ入る。
シャルロッタ、クリスティーナ、ソフィアは現実側へ残る。
神官団護衛は外縁を守る。
「全員で入る方が安全じゃないのか」
秀直が言った。
その言葉に、シャルロッタがすぐ首を横へ振った。
「退路のない調査は、交渉ではなく賭けです」
「でも」
「現実側で帰還線を守る者が必要です。夢の中で何かが起きた時、全員が同じものを見てしまえば、誰も止められません」
クリスティーナが端末の同期線を確認している。
「師匠を戻す係、こちらに残ります」
「その言い方」
「必要な言い方です」
ソフィアは白い谷の出口を見ていた。
「地面の呼吸が速くなったら、北側へ抜けます。戻る道は二つ確保しました」
シャルロッタは二人の言葉を、自分の補助としてではなく、別の判断として扱っている。
ミラはそれを見て、少しだけ羨ましいと思った。
信仰にも、こういう役割分担が必要だったのかもしれない。
誰か一人が全部を信じるのではなく。
誰か一人が全部を疑うのでもなく。
違う位置に立つ者が、互いの退路を守る。
ティアナが祭壇の前へ座った。
歌わない。
彼女はただ、短い呼吸を置く。
一。
二。
三。
七環錫杖が、少し遅れて応答する。
音ではない。
骨に触れるような、低い震えだった。
ミラは祈りの言葉を思い出す。
封印へ祈る言葉ではない。
眠りへ証を置く言葉。
現行儀礼から削られた古い節を、彼女は慎重に戻した。
「眠りを乱さず、証を置く」
白い谷の温度が下がった。
霧が足元から流れ、空と地面の境目がゆっくりほどける。
秀直の配信端末は、現実側の祭壇脇に置かれている。
公開レイヤーは切られている。
非公開原記録だけが動いている。
それなのに、画面には夢の水面が映り込んでいた。
現実の足元。
白い石。
誰かが眠る暗い水面。
その三つが、同じ画角に重なる。
「端末を持ち込んでいないのに」
クリスティーナの声が遠くから聞こえた。
現実側の声だ。
ミリアムがすぐに言う。
「公開ではありません。原記録層への干渉。夢内記録と現実記録が重なっています」
ミラの足元が沈む。
石の上に立っているはずなのに、水面へ膝まで入った感覚があった。
冷たくはない。
むしろ、体温を奪わない水だ。
秀直が息を呑む。
画面の端に、コメント欄のようなものが流れ始めた。
『助かった』
『怖かった』
『英雄すごい』
『違う、痛かった』
『見ないで』
『ありがとう』
『その名前じゃない』
秀直の顔色が変わった。
反射的に端末へ手を伸ばそうとする。
だが、端末は現実側にある。
夢の中の手は、画面に届かない。
「コメント欄じゃない」
彼は低く言った。
「これ、今の視聴者じゃない」
「仮説です」
ミリアムの声が、夢の水面に細く立つ。
「秀直さんが記録してきた声が、夢層で再分類されています。過去コメント、当事者の声、竜の息、救助者の記録が混ざっている。通常コメントとして扱ってはいけません」
「切る」
秀直は言った。
「公開は切ってる」
「なら、分類を切ってください」
ミリアムの声は鋭い。
「反応として読まないでください。声として隔離してください」
ミラはそのやり取りを聞きながら、夢の水面を見た。
水面の奥に、火竜の白い吐息が沈んでいる。
どこかの村人の祈りが沈んでいる。
配信の光に照らされた誰かの笑顔と、切り取られた後の沈黙が、同じ深さに沈んでいる。
これは幻覚ではない。
けれど、このまま事実として持ち帰ってはいけない。
夢は、記録と感情と圧力を同じ水面に浮かべている。
ミラは祈りの言葉を続けた。
「眠りを乱さず、証を置く」
その時、夢の奥から声が届いた。
……来たか。
短い。
それだけだった。
けれど、その声は耳からではなく、骨へ響いた。
秀直だけに届いたのではない。
ミラの骨にも、ティアナの呼吸にも、ミリアムの記録板にも、現実側に残る者たちの帰還線にも、同じ重さで触れた。
姿は見えない。
顔もない。
水面の奥に巨大な影があるようにも見えるが、それを形にしてはいけないと本能でわかった。
ミラは震えた。
祈りの相手は、封じられているだけの存在ではなかった。
眠りながら、応答した。
それでも、説明してはくれない。
救ってもくれない。
ただ、来たことを確認した。
秀直は画面を見ていた。
「ここは、俺の配信画面じゃない」
彼は呟いた。
「俺の記録だけど、俺の所有物じゃない」
夢の水面に、さらに声が沈んでいく。
救えた声。
救えなかった声。
見られた声。
見られたくなかった声。
竜皇の声が、もう一度だけ届いた。
記録を見よ。
水面の底で、秀直がこれまで配信で記録してきた人々の声が、ゆっくりと明滅した。
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