第026話 翼状地形へ
白い輪郭は、一フレームしか残っていなかった。
それだけなら、証拠としては弱い。
端末の非公開層に保存された画像を拡大しても、線は荒く、火山の熱ノイズに半分溶けている。左右へ広がる形は確かに翼に見えるが、見たいものへ寄せれば何にでも見える。
地図。
傷。
尾根。
羽根。
どれも候補で、どれも確定ではない。
「弱い記録ほど、希望で補完されやすいです」
ミリアムが言った。
彼女はいつものように淡々としているが、目は疲れていた。火山帯で読み続けた記録の重さが、まだ肩に残っている。
「特に、見たい相手がいる時は」
俺は端末から目を離せなかった。
見たい相手。
弟。
その単語は、胸の奥で勝手に浮かぶ。
翼状の白い輪郭。
七つ目の欠落。
黒い街。
届くはずのない記録。
全部を一本につなげれば、どこかに聖夜がいる証拠に見えるかもしれない。
でも、それは俺が見たい線だ。
記録が引いた線ではない。
「公開証拠にはしない」
俺は言った。
「調査候補として残す。弟の手掛かりとは書かない」
クリスティーナが、手順表へ小さく丸を付けた。
「今の、いい判断です」
「採点制なのか」
「必要なら」
少しだけ笑いが起きた。
火山帯を出る前の、短い息継ぎだった。
ヴォルケンは古代炉から離れられない。
封鎖扉の調圧値は安定しているが、限定読解の後始末は終わっていない。記録室を開いた事実も、内部で確認された仮説も、火神官の中でまだ整理されていない。
「外縁までは同行する」
彼は言った。
「その先は、フレアが圧力監視を続ける」
「中へ行かないの」
フレアが聞く。
問い詰める声ではなかった。
確認する声だ。
「炉を空けられない」
「うん。わかった」
それだけで通じている。
第三章の最初なら、もっとぶつかっていただろう。
完全に和解したわけではない。
でも、互いの役割を少し信じるようになっていた。
火山帯上層へ向かう竜道で、ミラ=カリスが合流した。
風の神官として最初に出会った時より、彼女の表情は硬い。手には翼状地形への通行許可証があり、護衛の神官団が数名ついている。
「遅くなりました」
ミラはそう言って、俺たちへ許可証を差し出した。
その指先が、わずかに震えている。
シャルロッタが気づかないふりをしない。
「竜皇伝承の欠落について、聞いたのですね」
ミラは唇を結び、頷いた。
「翼状地形は、私たちにとって聖域です。竜皇の翼と呼ばれてきました。けれど、呼んできた言葉そのものが、どこまで正しいのか」
彼女はそこで言葉を止めた。
信じてきたものが揺らぐ時、人は簡単に別の答えへ飛びつきたくなる。
ミラはそれをしなかった。
「案内はします。ただし、信じていた形で説明できるとは限りません」
「それで十分です」
ミリアムが言った。
「説明できないところを、説明できないまま案内してください」
ミラは少しだけ目を伏せた。
「難しいことを言いますね」
「私も苦手です」
その返しに、ミラがほんの少し笑った。
翼状地形の入口で、護衛神官が立ちふさがった。
「聖域内への配信機材の持込みは認められません」
彼の視線は俺の端末と七環錫杖を行き来している。
「未登録神器も同様です。翼状地形は竜皇の眠りに近い場所です。外部記録を持ち込めば、眠りを乱す恐れがあります」
また同じ構図だ。
記録と封鎖。
公開と保護。
ただし、同じ答えを雑に使い回してはいけない。
シャルロッタが前へ出る。
「公開、記録、調査、撤退条件を分けます」
彼女は古代炉の封鎖区域で見せた時と同じように、けれど少しだけ速く条件を並べた。
「外縁までは生配信を継続。聖域内は非公開原記録へ切替。公開版は作成しない。七環錫杖は保持するが、地形や祭具へ接触させない。異常値、地温上昇、呼吸周期の乱れが出た場合はミラ、フレア、ヴォルケン側のいずれかの合図で撤退」
護衛神官は渋い顔をする。
「なぜ記録を残す必要がある」
俺が答えた。
「後で、見たい形へ変えないためです」
それは火山帯で得た答えだった。
「見せるためではありません。残して、検証して、公開しない判断も含めて後から確かめるためです」
護衛神官はミラを見る。
ミラは迷いながらも頷いた。
「外縁まで生配信。聖域内は非公開記録。私が立ち会います」
生配信を外縁までにする告知を出すと、コメントが一気に流れた。
『封印解除イベント?』
『竜皇の翼きた』
『ここでボス起きるやつ』
『配信止めるのかよ』
俺は画面へ向けて言った。
「イベントじゃありません。封印解除もしません。ここから先は聖域で、記録は非公開に切り替えます。見せるためではなく、あとで検証するために残します」
反発も流れた。
でも、コメントは閉じた。
閉じることに、前より迷わなくなっている自分がいた。
翼状地形へ入ると、風の音が変わった。
白い尾根は、遠くから見た時よりずっと複雑だった。
足元では石灰層の道に見える。
少し離れると、古い神殿の柱が倒れた跡に見える。
さらに角度を変えると、巨大な骨の列にも見えた。
そして霧が流れる瞬間だけ、羽根の筋に見える。
「翼そのもの、と言うには早いですね」
ミリアムが呟く。
「でも、翼でないと言い切るにも、似すぎています」
七環錫杖が鳴った。
風で揺れた音ではない。
地面の温度が上がるたび、一環ずつ低く応答している。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七つ目が、また遅れる。
クリスティーナが錫杖から手を離さずに記録する。
「暴走ではありません。地温変化への応答です」
ティアナが唇を開きかけた。
歌うための息だと、俺にもわかった。
けれど、ミラが静かに手を上げる。
「ここでは、起こす歌ではなく、聞く沈黙が先です」
ティアナはすぐに口を閉じた。
「すみません」
「責めていません。私も、祈りを唱えたくなっています」
ミラは白い尾根を見上げる。
「でも、今は私たちの言葉を入れる前に、ここが何をしているか聞かなければいけない」
信仰を捨てたわけではない。
信仰のまま押し通すこともしていない。
その間に立つのは、ひどく疲れるはずだった。
ソフィアがしゃがみ込んだ。
地面へ手を当て、耳を澄ます。
「眠ってる」
小さな声だった。
護衛神官が息を呑む。
ソフィアは慌てて言い直した。
「断定じゃありません。でも、尾根全体が、眠っている生き物みたいに呼吸しています。風じゃなくて、下から。温度が少しずつ変わって、戻っています」
俺は記録欄に書いた。
眠っている生き物のような地温変化。
比喩。
現地感覚。
確定ではない。
その時、端末の非公開層に文字化けが走った。
読めるようで読めない。
夢、層、接、触。
そんな断片に見える。
だが、コメントではない。
公開レイヤーでもない。
ミリアムがすぐに画面を覗く。
「記録層です。現在コメントではありません。文字化けに近い。確定語にしないでください」
「了解」
俺は入力した。
夢層接触に似た文字化け。
意味未確定。
翼の付け根に相当する白い谷へ入った時、空と地面の境界が揺れた。
目の前の足元は白い石の谷だ。
だが、端末には別のものが重なっている。
現実の足元。
そして、誰かが眠る暗い水面。
二つが同時に映っていた。
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