第022話 ソフィア、守られる名を拒む
その名前で、私を守ったことにしないで。
言った後で、ソフィアは自分の膝が震えていることに気づいた。
怖くないわけではない。
配信端末の向こうに誰がいるのか、全部は見えない。外部掲示に流れた言葉も、悪意ばかりではなかった。
かわいい。
守られてよかった。
保護されているなら安心。
どれも、たぶん傷つけるための言葉ではない。
だから、拒むのが難しい。
敵意なら、身を引けばいい。
石を投げられるなら、避ければいい。
でも、優しい顔をした手が、自分の名前を別の形へ撫でていく時、どう止めればいいのかわからなくなる。
ソフィアは端末を見た。
秀直は隣にいる。
けれど、代わりには話さない。
彼は本当に、黙っていた。
それがありがたくて、少し怖かった。
自分で言わなければ、何も進まないということだから。
「私は、助けられました」
ソフィアは言った。
最初に、そこを消さない。
「秀直さんたちに会わなかったら、私はここにいなかったかもしれません。守ってもらったこともあります。助けてもらったこともあります。それは、なくしません」
喉が熱い。
火山のせいだけではなかった。
「でも、守られたことと、何も選べないことは同じじゃありません」
端末の脇で、コメント表示が一瞬揺れた。
秀直が自動切抜きの表示を止める。投げ銭の演出も落とした。画面の上で光るはずの装飾が消え、ソフィアの声だけが残る。
誰かが褒めたかもしれない。
誰かが怒ったかもしれない。
それを今、正解にしてほしくなかった。
「避難路を見つけたのは、私です。匂いを読んだのも、私です。走ったのも、子どもたちを連れていったのも、私です」
言いながら、心臓が速くなる。
自慢しているみたいに聞こえないだろうか。
恩を忘れたと思われないだろうか。
でも、ここで小さくなれば、また誰かが言う。
英雄に救われた少女。
それは嘘ではない。
けれど、それだけではない。
「だから、私のことを記録するなら、助けられた子、だけにしないでください」
火神官代表は困った顔をしていた。
怒ってはいない。
むしろ、どう扱えばいいのかわからない顔だった。
住民の中から、年配の女性が手を合わせる。
「でも、あなたが無事でよかったのよ」
「はい」
ソフィアは頷いた。
「それは、ありがとうございます」
拒まない。
感謝は受け取る。
でも、そこで終わらせない。
「無事でよかった、の次に、私が何をしたかも見てください」
女性は戸惑ったように目を伏せた。
その瞬間だった。
封鎖区外周の見張り台で、人が倒れた。
音は小さかった。
でも、ソフィアの耳には、石床に膝が当たる鈍い響きが届いた。
火神官が振り向く。
「見張りが」
フレアが走り出す。
ソフィアも同時に鼻を上げた。
匂いがしない。
硫黄も、焦げた石も、熱の戻りもない。
それなのに、小さな生き物の足音が一斉に遠ざかっている。
岩の隙間にいた虫。
火山鼠。
小型竜の爪音。
匂いではなく、逃げる方向が揃っている。
「無臭です」
ソフィアは言った。
自分でも声が変わったのがわかった。
さっきまでの震えが消えている。
「匂いではわかりません。でも、小さい生き物が東へ逃げています。西から何か流れています」
秀直が一歩前へ出た。
反射だった。
ソフィアの前に立とうとする動き。
ソフィアは彼を見た。
秀直は止まった。
完璧に理解した顔ではない。
止まらなければいけないと、遅れて気づいた顔だった。
「ソフィア」
「私が先に見ます」
「危険なら」
「フレアさん、確認してください」
ソフィアは秀直ではなく、フレアを呼んだ。
現場の熱と風を読む人。
今、必要な確認を持っている人。
フレアは一瞬ソフィアを見て、それから地面へ手を近づけた。
「風が低い。西から無臭のガスが這ってる。通常の臭気検知じゃ遅れる」
「東の道は駄目です。小さい足跡が途中で戻っています。北の壁沿いに、古い道があります」
ヴォルケンが反応した。
「北は閉鎖された旧巡礼路だ。崩れている」
「全部じゃありません。竜の爪痕が新しいです。小型竜が通っています」
ソフィアは地面を指す。
黒い石の上に、細い傷がいくつも走っている。人の目ではただの割れ目に見えるかもしれない。でも、向きが揃っていた。爪が滑った跡。尻尾が触れた跡。小さな足が急いで通った跡。
「人が通れる幅があるはずです」
秀直はまだ前へ出たそうだった。
でも、出なかった。
「俺は後方の救助に回る。倒れた見張りを運ぶ。クリスティーナ、記録と人数確認」
「はい」
クリスティーナが即座に動く。
ソフィアの胸の奥で、何かがほどけた。
守られていないわけではない。
任されている。
それは、全然違う。
「こっちです」
ソフィアは走った。
住民の視線が背中に集まる。
さっきまでの、かわいそうな子を見る目ではない。
道を知っている者を見る目。
それも少し怖かった。
期待されるのは、保護されるのと別の怖さがある。
でも、その怖さなら、自分で抱ける。
北の壁沿いに、古い石段があった。
灰に半分埋もれ、赤い苔が隙間を覆っている。入口には古い封鎖札が落ちていた。ヴォルケンが先に札を拾い、刻印を確認する。
「旧巡礼路。記録上は崩落」
「中は風が抜けています」
ソフィアは耳を澄ませた。
奥から、細い空気の音がする。
「人が一列なら通れます。走らないで。壁に触りながら進んでください」
住民が迷う。
ソフィアは先頭に立った。
守られるためではない。
先に危険を受けるためでもない。
道を読む者が先に行く必要があるからだ。
「大丈夫です。私が見ます」
その言葉を、自分で信じる。
旧巡礼路の中は暗かった。
火山の赤い光は届かない。かわりに、壁の奥で細い熱が流れている。ソフィアは爪痕と小動物の毛を追いながら進んだ。
途中で、一人の子どもが泣き出した。
「熱い」
ソフィアは立ち止まり、壁に耳を当てた。
「右は駄目。左へ寄って」
壁の向こうで熱が流れている。
見えない。
匂いもしない。
でも、小さな虫が左の隙間に集まっている。生き物は、まだましな方を選ぶ。
ソフィアはそれを信じた。
ひとつ曲がり角を越えたところで、視界が開けた。
古い礼拝窟だった。
中央に割れた石板があり、壁には削られた文字が残っている。
竜皇は大地の底へ。
その後が、深く削られている。
火を閉ざした。
ソフィアは読める範囲だけを見た。
わからないところを、勝手に埋めない。
それはミリアムが何度も言っていた。
「ここ、後でミリアムさんに見てもらってください」
後ろにいた火神官が頷く。
今は避難が先だ。
ソフィアは礼拝窟の奥へ進み、外へ抜ける狭い割れ目を見つけた。
風がある。
灰ではなく、冷えた石の匂い。
「出られます」
その一言で、住民たちの肩から力が抜けた。
一人ずつ外へ出る。
最後の子どもが出たところで、ソフィアは振り返った。
旧巡礼路の奥に、削られた石板が暗く残っている。
守られてきたもの。
消されたもの。
今はまだ、どちらかわからない。
外へ出ると、秀直が倒れた見張りを運び終えていた。クリスティーナが人数を確認し、ティアナが水を配っている。フレアはガスの流れを見て、ヴォルケンへ弁の指示を出していた。
誰か一人の英雄譚ではない。
それぞれが動いた結果だった。
秀直がソフィアを見る。
「記録、どう残す」
彼はそう聞いた。
よかった、でも、ありがとう、でもなく。
どう残すか。
ソフィアは息を整えた。
「原記録は、そのままでいいです。助けられたことも、私が怖かったことも、消さないでください」
「うん」
「でも、公開説明は直してください」
彼女は外部掲示の文を見た。
英雄に救われた獣人の少女。
その文を、指で示す。
「救われた少女、ではなくて、避難路を選んだソフィア、と書いてください」
秀直は頷いた。
「そのまま載せる」
火神官代表も、疲れた顔で頭を下げた。
「告知を差し替えます。先ほどの文は、誤りでした」
「全部が誤りじゃないです」
ソフィアは言った。
「でも、足りませんでした」
代表は少し驚き、それからもう一度頷いた。
「足りませんでした」
秀直が端末へ訂正文を入力する。
原記録は改変しない。
公開説明の誤りだけを訂正する。
ソフィアは、その違いを見ていた。
守られた過去は、残る。
でも、今の自分の名も、残せる。
その時、旧巡礼路から戻ってきたミリアムが、削られた石板の縁に指を当てた。
「これは風化ではありません」
彼女の声が、礼拝窟の暗さを連れて戻ってきた。
「同じ深さで、人為的に消されています」
ソフィアは自分の名前が上書きされる怖さを思い出した。
石板も、かつて何かを同じように消されたのかもしれない。
そう思っても、まだ言葉にはしなかった。
消えた部分を、勝手に埋めない。
自分の名前にも、竜皇の名にも。
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