第023話 ミリアム、予言の欠落を見る
削られた文字は、沈黙していない。
ミリアムは旧巡礼路の礼拝窟で、石板の前に膝をついた。
読めない。
けれど、読めない形が残っている。
それは、何もないこととは違う。
石板には、読める部分と読めない部分があった。
竜皇は大地の底へ。
そこから先が、横一列に削られている。
削られた跡の後に、火を閉ざした、という文字が続く。
現行伝承では、この欠落に別の言葉が入る。
神々に封じられ。
ミリアムはその言葉を、まだ石板へ戻さなかった。
戻した瞬間、欠落が欠落ではなくなってしまう。
「まず、分けます」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。
「石板の設置時期。煤の付着年代。削り跡の新旧。現行伝承の成立時期。これらは同じではありません」
フレアが後ろで腕を組んでいる。
「つまり、誰かが後から消した」
「その可能性が高いです」
「一族が消したんでしょ。都合の悪い言葉を」
フレアの声には、すぐ火がつく。
それも当然だとミリアムは思った。
彼女はずっと、聞こえる苦痛を止められてきた。
封鎖という言葉に、救えなかった記憶が重なっている。
けれど、怒りが正しくても、証拠の範囲は広がらない。
「誰が消したかは、まだ証明できません」
ミリアムは言った。
フレアの目が鋭くなる。
「かばうの」
「かばいません。決めないだけです」
言い方を間違えれば、ただの冷たさになる。
ミリアムは石板から目を離し、フレアを見た。
「消されたことと、消した者の名前は別の証拠です。今ここで一つにすると、後で本当に消した者を逃がします」
フレアは唇を噛んだ。
反論は来なかった。
ヴォルケンが礼拝窟の入口に立っていた。
彼はここへ入ってから、ずっと石板を見ないようにしている。
「家に残る写しにも、同じ空白がある」
その声は、礼拝窟の壁に低く響いた。
フレアが振り向く。
「聞いてない」
「見せるものではなかった」
「それが嫌なんだよ」
ヴォルケンは反論しない。
ただ、懐から小さな耐熱紙を出した。
古い写しだった。
紙の中央に、同じような空白がある。石板と違い、削られているのではない。写した者が、空白のまま写していた。
その横に、小さな警告が添えられている。
読むな、起こすな。
ティアナが息を呑んだ。
「起こすな」
「何を、とは書かれていない」
ヴォルケンが言う。
「だから読ませない。読んだ者が、自分の恐れをそこへ入れる」
ミリアムは写しを受け取らず、距離を保って眺めた。
触れれば、借りたことになる。
借りれば、管理の責任が動く。
今はまず、見える範囲で足りる。
「石板の文字間隔と、古代炉の記録列を比較します」
秀直が端末を差し出す。
非公開原記録。
公開しない記録。
それでも、検証のためには残されているもの。
ミリアムは古代炉の熱列を、石板の文字幅へ重ねた。
端末が欠落部分を自動補完しようとする。
神々に封じられ。
眠りにつき。
火を内に。
候補が勝手に並びかけた瞬間、ミリアムは補完欄を隔離した。
「候補表示。本文ではありません」
彼女は強く言った。
誰に対してというより、自分の手に対してだった。
読みたい。
埋めたい。
欠けた言葉を戻したい。
でも、戻すのが早すぎれば、また上書きになる。
「語数だけなら」
ミリアムは慎重に続けた。
「現行伝承の『神々に封じられ』より、少し短い可能性があります。古代炉の記録列に近い構成を当てるなら、『眠り』、または『内に留める』に近い語数が入る余地があります」
フレアが身を乗り出す。
「じゃあ、封じられたんじゃない?」
「可能性です」
「竜皇が自分で眠った?」
「そこまでは復元できません」
ミリアムは即座に止めた。
「主語がありません。自ら、という語も見えません。竜皇の意思だったのか、誰かに命じられたのか、結果としてそう記録されたのか、まだわかりません」
フレアは苛立ったように息を吐いた。
「いつも、まだ、まだって」
「はい」
ミリアムは頷いた。
「まだです」
それが冷たく聞こえたのかもしれない。
フレアの顔が歪む。
「私は、聞いたことがある」
礼拝窟の空気が止まった。
「小さい頃、外周で竜が苦しんでた。今みたいに、息が詰まってた。私は聞こえたのに、大人たちは近づくなって言った。封鎖区に関わるなって。歌うなって」
ヴォルケンの表情が変わる。
「フレア」
「その竜は死んだ」
フレアは兄を見なかった。
「だから、私は閉じるだけのやり方が嫌い。聞こえてるのに、何もしないのが嫌い」
ティアナが胸元を押さえた。
同じ歌い手としてではない。
苦しい音を聞いてしまう者として、反応したのだと思う。
ミリアムは、すぐに慰めなかった。
慰めれば、その記憶を過去の痛みにして閉じてしまう。
「当時の保守記録はありますか」
フレアが目を見開く。
「今、それを聞くの」
「はい」
ミリアムは声を落とした。
「あなたが聞いた苦痛を、次の救助に使うために」
ヴォルケンがしばらく黙り、やがて首の鍵札を一つ外した。
「外周弁の故障記録なら、管理所に残っている」
「見せてください」
フレアは何か言いかけて、やめた。
管理所へ戻り、古い記録が出された。
紙ではない。熱に強い薄い石板だ。日付、圧力値、調圧器の交換履歴が刻まれている。
ミリアムは竜の死亡日と照合した。
胸が重くなる。
読みたくない一致ほど、記録は静かにそこへある。
「歌の不足とは断定できません」
フレアが肩を強ばらせる。
「どういう意味」
「死亡日の前後に、外周の古い調圧器が故障しています。排熱経路が詰まった可能性が高い。あなたが歌えなかったから死んだ、とは言えません」
フレアの顔から、怒りが抜けた。
かわりに、もっと痛いものが出てきた。
「じゃあ、私は何を聞いてたの」
「故障で苦しんでいた竜の声です」
「救えたって思ってた」
「救えたかもしれません」
ミリアムは否定しない。
「でも、歌だけで救えたとは限りません。調圧器の故障だと知っていれば、弁を変える、熱を逃がす、歌で拍を支える。複数の手段を取れた可能性があります」
フレアの手が震えた。
「私の後悔を、間違いって言いたいの」
「違います」
ミリアムは、ここだけはすぐに答えた。
「後悔を一人の責任に閉じないために、残します」
言葉が硬い。
自分でもそう思う。
それでも、これしか持っていない。
「だから残す。次は、故障だと知って動ける」
フレアは俯いた。
泣かなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、長く息を吐いた。
「……嫌な慰め」
「慰めではありません」
「うん。だから、少し効いた」
ミリアムは返事に困った。
シャルロッタが静かに記録を閉じる。
「現行伝承の『神々に封じられ』は、原石板の欠落と一致しない可能性がある。欠落部には『眠り』『内に留める』に近い語が入る可能性がある。ただし、竜皇の意思、封じた主体、欠落を作った者は未確定」
「公開は」
秀直が問う。
「今はしません」
ミリアムは答えた。
「公開するなら、『予言は偽りだった』ではなく、『現行文と原石板に差がある』までです」
ヴォルケンが石板を見ている。
伝承を守ってきた人の顔ではない。
守ってきたものの中に、守るべきでない欠落が混じっていたかもしれないと気づいた人の顔だった。
「欠落前の一族記録がある」
彼は言った。
フレアが顔を上げる。
「兄さん」
「記録室の内側だ。外環ではない」
ヴォルケンは全員を見た。
「読むべきではないと教えられてきた。読めば、閉じてきた理由も裁かれる」
秀直は何も言わない。
英雄の名前で迫らない。
ミリアムも、研究者の顔で飛びつかないようにした。
ヴォルケンは鍵札を握る。
「封鎖担当者として、閲覧には反対する」
そこで彼は一度、言葉を切った。
「だが、存在しないことにはしない」
それは許可ではなかった。
拒絶でもなかった。
欠落を、欠落として認める最初の言葉だった。
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