第017話 火山地帯、竜の呼吸
火山地帯へ近づくほど、空の色は変わった。
青が薄くなるのではない。
赤が、下から透けてくる。
山肌の裂け目から噴き上がる白い蒸気が、雲の影を押し返していた。飛竜の背から見下ろす集落は、黒い岩を削って作られている。屋根は低く、道は細く、あちこちに避難用の石柱が立っていた。
水の土地で見た静けさとは、何もかもが違う。
けれど、端末の記録層に出ている波形だけは、妙に似ていた。
「完全一致じゃありません」
ミリアムが、風除けの布を片手で押さえながら言った。
「湖の記録は水面反射を含んでいます。こちらは熱と音です。媒体が違うので、同じ原因とはまだ言えません」
「でも、欠け方が同じだ」
俺は画面を拡大した。
低い周期音が、七つ目の拍だけ細く消えている。
湖で黒い街を映した時、七環錫杖が拾った共鳴にも、同じ欠落があった。
同じだ、と言いたくなる。
そこに何かがある、と言いたくなる。
弟へ近づいているのだと、言ってしまいたくなる。
俺は舌を噛む代わりに、記録欄へ短く入力した。
七拍ごとの熱欠落。
湖記録との類似あり。
原因未確定。
「師匠」
クリスティーナが横から覗き込む。
「今、ちゃんと未確定って書きましたね」
「そこを監視されるの、だいぶ情けないな」
「情けなくありません。大事です」
弟子の声は真面目だった。
俺は頷いた。
七環錫杖が鳴る。
高い音ではない。
遠くから届いた低い呼吸へ、一環ずつ返事をするような音だった。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七つ目だけ、鳴らなかった。
代わりに、地面の奥で何かが詰まるような振動が来た。
飛竜が翼を傾ける。
「下ろします」
操竜士の声が硬い。
俺たちは外周集落の広場へ降りた。
降りた瞬間、熱が肌へまとわりつく。暑い、というより、息の中に細かい灰が混じっている感じだった。鼻の奥がざらつく。
ソフィアがすぐ顔を上げた。
「こっち、硫黄が薄いです。人が通れる道があります」
「わかるのか」
「匂いが重いところは、たぶん下から戻ってきています。薄いところは風が抜けています」
ソフィアは自分の言葉を確かめるように、もう一度鼻を動かした。
「避難なら、あっちです」
その先で、火竜が倒れていた。
小さくはない。
馬車ほどの胴を持つ竜が三頭、広場の端で地面へ腹をつけている。翼を広げる力もないらしく、赤い膜が黒い石へ張りついていた。
吠えない。
暴れない。
ただ、浅く息をしている。
胸が上がる。
止まる。
少しだけ下がる。
また、止まる。
ティアナが一歩前へ出た。
俺は、歌うのかと思った。
けれど彼女は口を開かず、火竜の傍らに膝をついた。
「怒っている音じゃない」
ティアナは耳を澄ませる。
「苦しい音です。歌を返す前に、拍を聞かないと」
その言葉に、広場の向こうから走ってきた少女が反応した。
灰色の外套を翻し、短く切った赤髪を火の粉のように揺らしている。年はティアナと大きく変わらないように見えたが、集落の火神官たちが道を空ける速さで、ただの見習いではないとわかった。
「その通り」
少女は火竜の首筋へ手を当てた。
「怒ってるんじゃない。苦しい。噴気孔が逆に吸ってる」
「あなたは?」
シャルロッタが問う。
「フレア。火神官。説明は後」
フレアは顔も上げずに答えた。
「英雄一行なら、人を動かせる? 北の避難路を開けて。子どもと年寄りを先。荷物を取りに戻る人を止めて。南の道は使わないで、熱が戻る」
命令の形をしているが、見栄はない。
必要なことだけを並べている。
俺は端末を開いた。
配信画面には、火竜を見た視聴者の反応が流れ始めている。
『火山攻略きた』
『ボス戦?』
『竜、でか』
『これ戦うやつ?』
胸の奥が冷える。
見えるものは、すぐ物語に変わる。
俺自身が、その流れをずっと使ってきた。
「ミリアム、周辺地図を公開用に切れるか」
「できます。熱源と避難路だけ表示します。火竜の映像は落としますか」
「落とす。救助情報だけ前面へ」
俺はコメント欄を畳んだ。
完全に切るのではない。
だが、今この場で必要なのは、見物の熱ではなく、逃げるための情報だった。
「配信を避難誘導に切り替える。北の石柱沿いに進んでください。南の道は使わないでください。荷物を取りに戻らない。火竜には近づかない。神官の指示に従ってください」
自分の声が、いつもの配信用の声より少し低くなっているのがわかった。
クリスティーナがすぐ隣で、同じ内容を現地の掲示板へ転送する。
ソフィアは迷わず走った。
「こっちです! 匂いが薄い道、こっち!」
彼女の声に、数人の子どもが顔を上げた。
ソフィアは手を振り、怯えた子どもに合わせて速度を落とす。英雄に守られる少女ではなく、道を見つける人間として動いている。
その背中を見て、俺は少しだけ息を吐いた。
山が、また鳴った。
今度は広場の石柱が震えた。噴気孔から白い蒸気が逆流するように吸い込まれ、すぐに黒い煙が吐き出される。
「来る」
フレアが火竜の前に立つ。
ティアナが彼女の横へ並んだ。
「歌わないで」
フレアが言う。
「わかっています。まだ、歌いません」
ティアナは怒らなかった。
ただ、火竜の胸の上下を見ている。
歌うためではなく、聞くために。
そこへ、低い声が割って入った。
「フレア。封鎖線から離れろ」
黒い耐熱外套を着た青年が、古代炉の方角から歩いてくる。赤髪はフレアと同じ色だが、表情は対照的に硬い。腰の鍵束には、石札と金属札が何枚も下がっていた。
周囲の火神官が背筋を正す。
フレアが振り向いた。
「ヴォルケン、今それどころじゃない」
「だから言っている。噴気孔の逆流は封鎖区の圧力変動だ。近づくな」
「近づかなきゃ、竜が先に潰れる」
「勝手に開ければ集落側へ熱波が抜ける」
二人の言葉はぶつかっている。
だが、互いを否定している音ではなかった。
片方は今苦しんでいる竜を見ている。
片方は次に焼けるかもしれない集落を見ている。
どちらも、守ろうとしていた。
シャルロッタが一歩前へ出る。
「私たちは、湖で記録した異常を追って来ました。ここで起きている熱周期と、共通する欠落があります。調査への協力を願います」
ヴォルケンの視線が、俺の端末と七環錫杖を順に見た。
その目に警戒が宿る。
「記録を持ち込む者ほど危険だ」
「記録そのものが危険だと?」
「違う。文脈を失った記録が危険だ」
ヴォルケンは即座に言い返した。
「古代炉は封鎖区だ。外部者、記録装置、未登録神器の持込みは禁止している。英雄だろうと例外にはしない」
端末が熱でちらつく。
配信画面の端に、畳んだはずのコメントがわずかに滲んだ。
『封鎖区イベント』
『開けろ開けろ』
『英雄ならいける』
俺は表示をさらに絞った。
そうじゃない。
今ここで開けることが正しいとは限らない。
閉じている理由が、ただの隠蔽とも限らない。
「ヴォルケン」
フレアが火竜の胸に手を置いたまま言う。
「封鎖は守る。でも、この呼吸は待ってくれない」
「わかっている」
ヴォルケンの返事は短かった。
その一言で、二人がずっと同じ現場を見てきたのだとわかった。
ミリアムが俺の横へ来る。
「湖の波形と火山の波形は、同一原因とは断定できません」
「うん」
「ただし、無関係とも断定できません。七拍目の欠落は、偶然として扱うには目立ちます」
「記録して」
「しています」
さすがに早い。
俺は苦笑しそうになって、やめた。
古代炉の方角が赤く明滅した。
一度だけ。
山肌の裂け目の奥で、巨大な心臓が光ったように見えた。
同時に、俺の端末へ熱欠落が入る。
七つ目の拍が、丸ごと消えた。
湖で記録したものと、同じ形で。
七環錫杖は鳴らない。
鳴らないまま、熱だけを帯びた。
ティアナが、無意識に小さく鼻歌を漏らした。
音というより、息に近い。
火竜の胸が、その拍に一度だけ合った。
古代炉の封鎖扉が、遠くで脈打つ。
ヴォルケンの顔色が変わった。
「歌うな」
彼はティアナと扉の間へ立った。
「今のは、扉が聞いた」
ティアナが口を押さえる。
フレアも黙った。
集落のざわめきが遠のき、山の低い呼吸だけが残る。
俺は端末を握り直した。
これは弟の証拠ではない。
竜皇が目覚めた証拠でもない。
火山が、ただの火山ではないという記録だ。
今は、それ以上にしない。
けれど、水の底で拾った欠落は、火の奥でもう一度、同じ形をした。
ヴォルケンは封鎖扉を背にしたまま言った。
「管理所へ来い。話はそこで聞く」
許可ではない。
拒絶でもない。
火山の呼吸が、また七つ目だけ欠けた。
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