第016話 世界は一つではない
弟かもしれない。
その一言を証拠にしないまま、俺は記録を閉じた。
直後、湖全体が脈打った。
水位が上がったわけではない。
それでも、湖の底から何かが息をしたように、水面が大きく揺れた。
火山地帯の方角は、赤い。
夜の空の一部だけが、炉の内側みたいにぼんやり光っている。
「三点反応、再確認します」
ミリアムが端末へ向かった。
彼女の声は落ち着いている。
こういう時、彼女が落ち着いているだけで、こちらも少し足場を取り戻せる。
「配信端末。七環錫杖。湖の深層記憶。三つが同時に反応した時だけ、外部像が開いています」
「三つのうち二つでは?」
シャルロッタが聞く。
「今の記録では開いていません。湖だけでは湖底記憶。端末だけでは通常配信。七環だけでは反応音のみ。三つが重なった時、黒い街が出ています」
「つまり、湖が扉になっている?」
クリスティーナが言いかける。
アクアリナが首を横に振った。
「扉ではありません」
白竜が低く鳴く。
アクアリナはその声を聞いてから続けた。
「湖は、遠い水面から届いた光を映す鏡です。鏡の向こうへ、今すぐ渡ることはできません」
「鏡」
俺は湖を見る。
黒い街はもう映っていない。
ただ、赤い空だけが水面に揺れている。
映った。
でも、行けない。
届いた。
でも、届いた意味はわからない。
そのもどかしさが、胸の奥に残る。
「整理します」
シャルロッタが紙を広げた。
「同じ島の遠隔地では説明できません。ミラ様の神官記録と一致しないためです」
ミラがうなずく。
「過去記憶だけでも説明できません。通常配信へ侵入し、端末と七環にも同時反応しています」
シャルロッタは一つずつ線を引いていく。
「別世界と断定はできません。ただし、世界が一つであるという前提は崩れました」
天幕の中が静かになった。
世界が一つではないかもしれない。
その言葉は、夢があるようで、怖い。
世界が一つでなければ、どこかに弟がいるかもしれない。
同時に、俺の知らない場所で、俺の知らない時間を生きているかもしれない。
あるいは、まったく関係ない誰かの危機かもしれない。
どれもまだ、同じくらい未確認だ。
「報告書を作成します」
ミリアムが言った。
「外部黒月記録の存在。発生条件。開示制限。人物と場所は未確認。黒い街、月蛇紋、銀白の髪、氷青の残光、複数の細い光。以上を事実欄へ」
「推定欄は」
「通常霊脈外の記録反射。湖、端末、七環の三点共鳴。強い選択または契約反応の可能性」
「未確認欄は」
「人物、時刻、場所、目的、弟さんとの関係」
その言葉に、俺はうなずいた。
消さない。
でも、事実欄には入れない。
それが今の正しい扱いだ。
「神官団への報告は必要です」
ミラが言った。
表情は重い。
「ただし、映像原本を中央へ無制限に送付するのは避けるべきです」
「神官団なのに?」
クリスティーナが首を傾げる。
ミラは少しだけ苦い顔をした。
「神官団だからこそ、です。記録対象の安全と、組織内でどう利用されるかを考えなければなりません」
風の渓域での報告書の矛盾。
湖底の欠落記録。
俺たちはもう、組織の記録が必ず正しいとも、必ず善意に使われるとも言えないことを知っている。
「要約報告と発生条件。原本は保全。閲覧には水神官区、ミリアム、俺の承認」
俺が言うと、シャルロッタがすぐに整える。
「さらに、当事者不明記録の保護規則に準じる、と明記しましょう」
「頼む」
俺は配信を再開する準備をした。
今度は逃げるためではない。
説明するためだ。
ただし、全部を見せるためではない。
画面に、夜の湖が映る。
コメント欄が流れ始める。
《コメント:火山の方赤くない?》
《コメント:黒い街の続きは?》
《コメント:別世界ってこと?》
《コメント:まだ断定してないぞ》
《コメント:原本いつか見せてくれ》
《コメント:記録だけは消すなよ》
俺は深呼吸した。
「水神官の湖での調査結果を報告する」
コメントの流れが少し落ち着く。
「湖は、遠い記録を反射することがある。今回、未確認の街が映った。原本は保全している。ただし、人物、場所、時刻、目的は未確認だ」
《コメント:やっぱ街あったんだ》
《コメント:見せて》
《コメント:未確認多すぎ》
《コメント:だからこそ見たい》
当然そうなる。
「原本公開は保留する。理由は、記録対象の安全と同意が確認できないからだ。紋章など、調査に必要な範囲だけを後日加工して出す可能性はある」
《コメント:隠蔽じゃん》
《コメント:慎重でいい》
《コメント:数字落ちるぞ》
《コメント:それでも原本消さないなら待つ》
割れる。
昨日と同じだ。
いや、昨日より割れている。
俺は全員を納得させようとしない。
それは無理だ。
代わりに、理由を残す。
「見たいという声はわかる。俺も見たい。だが、記録することと公開することは別だ。原本は消さない。検証も続ける。今は公開しない」
言い切った。
怖さはある。
それでも、言い切った。
アクアリナが配信を横から見ていた。
それから、俺へ問いかける。
「見たいものが映らなかったのに、記録を続けるのですか」
「続ける」
「どうしてですか」
「見たいものだけを映すなら、記録じゃない」
俺は湖面を見た。
「わからないものを、自分に都合よく弟へ変えない。違う誰かの記憶なら、その誰かの記憶として扱う」
「でも、次に映るかもしれません」
「だから続ける。次に映った時、今度こそ自分の願望で壊さないために」
アクアリナは水に触れた。
「水も意味を決めません」
「ああ」
「秀直さんも、像の意味を奪わずに残す」
「できるだけな」
アクアリナは少し考え込んでから、うなずいた。
「少し似ています」
それは褒め言葉なのか、ただの観察なのか。
たぶん、アクアリナにとっては同じだ。
シャルロッタが彼女の隣へ立つ。
「アクアリナ様。湖の報告書を一緒に作りませんか」
「わたし、言葉が迷子になります」
「知っています」
シャルロッタは微笑んだ。
「ですから、わたくしが問い方を手伝います。あなたは、水が何を映したかを教えてください。答えを奪うつもりはありません」
アクアリナは白竜を見る。
白竜は静かに瞬きをした。
「では、問い方を教えてください」
「喜んで」
前章で生まれた役割が、ここで別の形に繋がる。
シャルロッタは、相手の言葉を奪わない。
アクアリナは、言葉を持たない自分を恥じすぎない。
その二人が並んでいるのを見て、俺は少しだけ安心した。
湖面がまた揺れた。
白竜が火山方向へ鳴く。
低い、長い声。
湖底の熱記憶が、その声に応えるように脈打つ。
水面の奥に、翼状の白い影が一瞬だけ浮かんだ。
そして消える。
「火山地帯」
ミラが言った。
「次の調査地は、そこです。古代炉の封鎖記録を確認します。炎神官ヴォルケンへ事前連絡を送ります」
「弟探しじゃない」
俺は自分に言うように確認した。
「古代炉と竜の異常調査だ」
「はい」
ミラが頷く。
ティアナが湖へ耳を澄ませた。
「……低い音が返ってきます」
「火山から?」
「たぶん。竜の呼吸みたいです」
竜の中枢に近い何かなのか。
そう言いかけて、俺は止めた。
断定しない。
呼吸に似た音。
今はそれでいい。
七環錫杖が一度だけ鳴った。
昨日のような揺れではない。
進む方向を示すような、短い応答。
クリスティーナが記録媒体を確認している。
「原本はここ。複製はミリアムさん。公開候補は別。師匠が衝動で持ち出さないように、手順表も作りました」
「信用がない」
「あります。だから手順を作ります」
最近の弟子は強い。
俺は苦笑した。
ソフィアが隣に来る。
「黒い街、もう見なくていいんですか」
「見ないわけじゃない」
俺は湖面を見る。
そこにはもう、黒い街はない。
赤い火山の反射だけがある。
「次に見えた時、見たいものへ変えずに受け取れるように進む」
「はい」
ソフィアはそれ以上聞かなかった。
俺たちは湖を離れる準備をした。
アクアリナと白竜は湖へ残る。
黒い街の原本も、湖底祈りの原本も、ここで保全される。
第五章で再接続することになるだろう。
その時、俺が今よりまともな記録者でいられるかはわからない。
でも、そのための手順は残した。
仲間もいる。
世界は一つではないかもしれない。
それは、弟がどこかにいる証明ではない。
それでも、届くはずのないものが届いた事実は残った。
俺はそれを、希望にも断定にも変えずに持っていく。
火山地帯の空へ、黒い煙が上がっていた。
配信画面と七環へ、熱いノイズが走る。
水の次は、火だった。
配信画面の奥で、何かが息をするように赤く明滅していた。
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