第015話 聖夜という名前の影
弟を探したわけじゃない。
それでも、黒い街の影は、俺を待つようにもう一度揺れた。
その夜、観測天幕の灯りは落とさなかった。
湖の上は暗い。
遠くの水面だけが、月のない空をぼんやり映している。
黒い街の非公開原本は、誰も触れていないのに一度だけ再生された。
ミリアムはすぐに操作ログを固定し、俺たちは天幕の中へ集まった。
配信は切っている。
通常コメントもない。
視聴者の声がないだけで、こんなに静かになるのかと思った。
「再生時刻を確認します」
ミリアムが言った。
声は落ち着いている。
けれど、指の動きは速い。
「手動操作なし。端末故障ログなし。湖面観測水晶、七環錫杖、手元端末の三つに同時反応があります」
「三つ同時」
俺は七環錫杖を見る。
輪は静かに垂れている。
だが、記録には残っているのだろう。
さっき、一度だけ鳴った反応が。
「外部反応、と記録します」
ミリアムは言った。
「外部?」
「現時点では、それ以上の名をつけません」
「わかった」
名前をつけると、そこへ引っ張られる。
俺はもう、それを嫌というほど知っている。
黒い街の映像を、低速で再生する。
月蛇紋。
黒い石畳。
銀白の髪の一部。
黒い影。
複数の細い光。
何度見ても、人物の形は結ばない。
顔はない。
声もない。
ただ、あちら側で何かが起きているという圧だけがある。
「音声波形に一箇所、反応があります」
ミリアムが画面を切り替えた。
細い線が、ほんの少しだけ跳ねている。
「人声か、環境音か」
「判別不能です。言葉には復元できません」
俺はその波形を見つめた。
ただの線だ。
音として聞いても、たぶん意味はない。
それでも、脳が勝手に言葉を探そうとする。
呼びたい名前を、そこへ当てはめようとする。
聖夜。
喉まで出かけて、止めた。
音声へ名前を当てはめれば、そう聞こえる可能性がある。
願望で証拠を変える。
それだけは、してはいけない。
俺は拳を握った。
「ご主人さま」
ソフィアが静かに呼んだ。
彼女は画面ではなく、俺を見ている。
「呼びたいなら、呼んでもいいと思います」
「証拠になるだろ」
「証拠としてではなく」
ソフィアは首を横に振った。
「兄の気持ちとして」
その言葉で、俺は息を止めた。
証拠としてではなく。
兄の気持ちとして。
それなら、名前を呼んでもいいのか。
いや、呼んだからといって、何かが返ってくるわけではない。
返ってきたと思い込んではいけない。
でも、名前を押し殺し続けることも、たぶん正しくない。
俺は端末から目を外した。
湖面を見る。
黒い街ではなく、今ここにある湖を見る。
「聖夜」
小さく口にした。
湖や映像の人物名としてではない。
俺の弟の名として。
仲間の前で、初めてはっきり呼んだ。
湖面が、かすかに揺れた。
七環錫杖の輪も、ほんの少しだけ鳴る。
俺の心臓が跳ねた。
返事か。
そう思いかけた。
「違います」
アクアリナが言った。
やわらかいが、速い声だった。
「水は、呼んだ人の記憶も映します」
俺は彼女を見る。
「弟の名を呼べば、あなたの中の弟の記憶に反応します。だから、今の揺れは証拠になりません」
期待が、静かに落ちる。
恥ずかしさも一緒に来た。
俺は、今の反応を証拠にしたかった。
ほんの一瞬でも、返事だと思いたかった。
その自分が情けない。
「……そうか」
「はい」
アクアリナは申し訳なさそうにしない。
そこがありがたかった。
彼女は水のことを言っただけだ。
慰めも、否定もしていない。
「期待したことまで、責めなくていいと思います」
クリスティーナが言った。
前より少しだけ慎重な声だ。
「期待したくなるのは、たぶん普通です」
「普通か」
「師匠が変なことを言い出したら止めます。でも、期待しただけなら、止めません」
彼女らしい線引きだった。
ソフィアも続ける。
「証拠ではなくても、弟さんを思うことは嘘ではありません」
その言葉は、胸に静かに落ちた。
証拠ではない。
でも、嘘でもない。
俺はその二つを、何度も混ぜそうになる。
混ぜないために、仲間がいる。
「問いを変えましょう」
シャルロッタが言った。
彼女は紙を広げ、月蛇紋の写しの隣に新しい欄を作る。
「個人名を追うのではなく、黒い街の像と同時に発生した外部周期を追うべきです」
「外部周期」
「はい。誰かを特定する前に、どういう条件で像が開くのかを調べます。名前ではなく、回線です」
ミリアムが頷いた。
「賛成です。個人特定より、再現条件の確認を優先します」
彼女は三つの記録を並べた。
湖面。
配信端末。
七環錫杖。
「通常のアルケディア時間と一致しません。湖面、端末、七環の三つが同時反応する時だけ、像が開いています」
「三つのうち一つだけでは?」
「開きません。少なくとも現在の記録では」
つまり、ただ湖が見せたわけではない。
ただ端末が拾ったわけでもない。
七環錫杖だけの反応でもない。
三つが重なった時にだけ、黒い街が顔を出す。
「音声波形」
ティアナが言った。
彼女は波形をじっと見ている。
「言葉ではないと思います。でも、呼吸の間があります」
「呼吸?」
「はい。一人ではなく、複数人が緊張している場所の音に近いです」
俺は黒い影を見る。
画面外にいる気配。
複数の細い光。
誰か一人が孤独に閉じ込められているのではなく。
複数の誰かが、同じ場所で息を詰めている。
アクアリナが湖に触れた。
「一人が閉じ込められている感じではありません」
彼女は目を閉じる。
「複数の誰かが、互いを選んでいます」
互いを選んでいる。
その言葉は、俺の知っている弟とはうまく重ならなかった。
俺の記憶の中の聖夜は、誰かに囲まれて選ぶ人間ではなかった。
少なくとも、俺はそういう姿を知らない。
もし弟なら。
もし本当に、どこかに弟がいるのなら。
それは、俺の知らない時間を生きたということになる。
その可能性に、戸惑った。
嬉しいと言えばいいのか、怖いと言えばいいのかわからない。
俺の知らない弟。
俺がいない場所で、誰かと選ぶ弟。
それは、俺の願望に都合のいい弟ではない。
「記録名を変える」
俺は言った。
ミリアムがこちらを見る。
「今のファイル名は」
「仮名で、黒い街未確認記録です」
「それを、外部黒月記録に」
シャルロッタが少しだけ目を細める。
「黒月、ですか」
「月蛇紋と黒い街からの仮称だ。弟らしき、とか、そういう言葉は入れない」
「よろしいと思います」
ミリアムが入力する。
外部黒月記録。
冷たい名前だ。
でも、それでいい。
俺の願望をファイル名に入れない。
証拠は証拠として扱う。
「ただ」
俺は続けた。
「個人メモには、弟の名前を残す」
ミリアムは手を止めない。
「証拠ではないメモとして」
「ああ。忘れないための、私的な記録として」
「分類します」
ソフィアが小さくうなずいた。
クリスティーナも、何も言わずに見ている。
きっと、今の俺が証拠と感情を分けようとしているのを、彼女なりに見張っているのだろう。
天幕の外が赤く光った。
最初は朝焼けかと思った。
だが、夜はまだ深い。
湖の遠く、火山地帯の方角の空が、ぼんやり赤く揺れていた。
同時に、外部黒月記録の画面が閉じる。
月蛇紋が消える。
黒い影も、銀白の光も、水の奥へ沈む。
残ったのは、赤い空の反射だけだった。
弟かもしれない。
その一言を証拠にしないまま、俺は記録を閉じた。
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