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第014話 湖底の声なき祈り

 湖底には、




 見せ物になりたいのではなく、忘れられたくない声が沈んでいた。




 白竜が湖面に尾を触れると、水が丸く開いた。




 穴が空いた、というより、別の膜がこちらへ向いたように見えた。




 水は落ちない。




 波も崩れない。




 ただ、薄い透明な膜が階段のように沈んでいく。




「肉体で潜るわけではありません」




 アクアリナが言った。




「でも、息はしてください。息を忘れると、記憶に引っ張られます」




「それ、先に聞けてよかったやつだな」




 俺は小さく息を吸った。




 湖上の固定カメラは通常配信を続けている。




 視聴者に見えているのは、霧の湖と、白竜の作った水の輪だけだ。




 俺たちがこれから見るものは、非公開記録モードへ入る。




 昨日決めた通りだ。




 見たいという声だけでは、公開しない。




 その判断が、足元の水よりも重く感じる。




「行きましょう」




 アクアリナが先に水の膜へ踏み込んだ。




 白竜が続く。




 俺たちも一人ずつ降りる。




 水の中を歩いているはずなのに、服は濡れない。




 音だけが変わった。




 地上の風が遠くなり、代わりに低い水音が身体の内側へ入ってくる。




 湖底は、暗くなかった。




 水面から差す光が、細い線になって降っている。




 その光の中に、沈んだ建物の影があった。




 壁の一部。




 石段。




 折れた柱。




 かつて湖岸にあったのか、島の一部だったのかはわからない。




 その間を、声を持たない光の粒が漂っていた。




 小さな星みたいに。




 けれど、どれも明るいだけではない。




 触れたら痛みそうな色をしている。




「ここが記憶層です」




 アクアリナの声は、水の中でもはっきり聞こえた。




「触れれば像が開きます。強く呼ぶと、記憶を傷つけます」




「強く呼ぶって」




「見たいものを探しすぎることです」




 俺の胸が小さく鳴った。




 黒い街。




 月蛇紋。




 銀白の光。




 弟の名前。




 探したい。




 今すぐ、湖底のどこかに手がかりがないか探したい。




 そう思った瞬間、近くの光の粒がふらりと寄ってきた。




 アクアリナが俺を見た。




「願望に近い記憶へ引かれます」




「……悪い」




「悪いのではありません。危ないのです」




 その違いは大きかった。




 俺は息を整える。




 今回の目的は黒い街ではない。




 湖底の祈りを記録することだ。




 見せてほしいと願った声を聞くことだ。




 俺の願望で、他の記憶を押しのけるわけにはいかない。




「ティアナ」




 アクアリナが呼んだ。




「歌ってください。起こす歌ではなく、聞く歌を」




 ティアナは緊張した顔でうなずいた。




「命令しない歌、ですね」




「はい。ここに聞く者がいると伝える歌です」




 ティアナは目を閉じた。




 前章で飛竜へ歌った時とは違う。




 あの時は、乱れた呼吸を整える歌だった。




 今は、沈んだ声へ届くための歌。




 とても小さい。




 水の中で消えてしまいそうな音。




 でも、光の粒が少しずつ反応した。




 光がほどける。




 像が開く。




 最初に見えたのは、雨だった。




 いや、水だ。




 空からではなく、地面の裂け目から噴き上がっている。




 島の亀裂。




 崩れる石段。




 逃げ遅れた人々。




 声はない。




 口を開いているのに、音が届かない。




 その代わり、名前だけが水に浮かぶ。




 短い名前。




 家族の名。




 地名。




 助けを求めた場所。




「全文を代弁しません」




 アクアリナが静かに言った。




「水は全部を持っています。でも、全部を言うと、今の人が耐えられません」




「じゃあ、何を拾う」




「名前。場所。助けを求めた事実。意味がわからないところは、わからないまま」




 俺はうなずいた。




「それでいこう」




 非公開記録の表示が点く。




 ミリアムが端末を操作する。




「原本は保全。公開候補には名前と地名の一覧のみ。映像は照合完了まで非公開にします」




 シャルロッタが隣で記録を整える。




「美談に変えません。殉難者、尊い犠牲、そういう言葉で覆わない方がよろしいですね」




「ああ」




 俺は水の中の像を見る。




 彼らは、綺麗な物語になりたいわけではない。




 ただ、いたことを消されたくない。




 助けを求めたことを、なかったことにされたくない。




 たぶん、そういう祈りだ。




「年代照合します」




 ミリアムが言った。




「水害記録と神官史料に欠落があります。ここに出ている地名の一部が、公式の被害記録にありません」




「記録漏れか」




「意図的かどうかは未確認です」




 その言い方にも、もう慣れてきた。




 未確認。




 わからないものを、わからないまま残す言葉。




 ソフィアが鼻先を少し動かした。




「変な匂いがします」




「水の中で?」




「はい。焦げた石と、金属みたいな匂いです」




 俺たちは顔を見合わせた。




 通常の水害記憶ではない。




 水と亀裂と避難の記憶の中に、焦げた匂い。




 金属。




 それは、風の渓域で神具から感じた異常にも少し似ている。




「あそこ」




 クリスティーナが指差した。




 彼女はすぐに手を伸ばさなかった。




 熱を持つ赤い記憶片が、沈んだ柱の影に引っかかっている。




 小さな欠片なのに、周囲の水が揺れていた。




「師匠、見つけました。でも触りません」




 俺は思わず彼女を見た。




 触れずに呼ぶ。




 昨日、自分で書いた「師匠を見張る」を、もう実行している。




「よく止まった」




「弟子なので」




 クリスティーナは少し得意げに言ったが、目は真剣だった。




 俺たちは赤い記憶片を囲む。




 アクアリナが水を整え、ミリアムが記録を分け、シャルロッタが照合欄を開く。




 ティアナの歌が、ほんの少し音を変えた。




 命令ではない。




 けれど、ここに聞く者がいると伝える音。




 赤い記憶片が開く。




 火山。




 巨大な炉。




 円形の壁。




 赤黒い光。




 竜の呼吸のような周期で、熱が満ちては引く。




 声が断片だけ届く。




 閉じろ。




 見られている。




 また、閉じろ。




 それ以上は言葉にならない。




 俺の背中に汗が浮いた。




 水の中なのに、熱い。




「古代炉」




 ミラが低く言った。




「可能性があります。火山地帯は次の神官管区です。詳細は炎神官の管理下になります」




「ここで開けない方がいいな」




「はい」




 ミリアムが記録を切り分ける。




「熱の記憶片は、湖底祈りとは別資料として封印保存します」




 七環錫杖が鳴った。




 一度だけ。




 輪が軽く触れ合う音。




 暴走ではない。




 呼ばれたというより、遠い何かへ応答したような音だった。




 白竜が低く鳴く。




 アクアリナが目を閉じて聞く。




「湖の底だけを見ていてはいけない、と言っています」




「どういう意味だ」




「翼と火が、同じ記憶につながるそうです」




「翼と火」




「でも、白竜も全部は言えません」




 説明は曖昧だ。




 けれど、今はそれでいい。




 竜皇。




 古代炉。




 火山地帯。




 見られているという断片。




 手がかりは増えた。




 だが、真相ではない。




「湖底祈りの記録をまとめる」




 俺は言った。




「死者の名前。欠落していた場所。助けを求めた事実。熱の記憶は別資料として封印保存」




 ミリアムがうなずく。




「公開候補は、遺族と神官記録の照合後に限定版として作成します」




「頼む」




 ティアナの歌が静かに終わる。




 光の粒は、完全に消えたわけではない。




 でも、少しだけ落ち着いたように見えた。




 浄化ではない。




 救済でもない。




 ただ、聞く者がいた。




 記録する者がいた。




 それだけだ。




 でも、たぶん、それだけでも違う。




 湖上へ戻ると、空気が軽く感じた。




 水面の霧は薄くなっている。




 俺は通常配信へ戻った。




 《コメント:中で何があった?》




 《コメント:公開できる時に頼む》




 《コメント:音だけ一瞬鳴った?》




 コメント欄は、当然気にしている。




 俺は息を整えてから言った。




「湖底で、過去の災害記録を確認した。個別の祈りと名前は、遺族や神官記録と照合してから扱う。今ここで映像は出さない」




 《コメント:了解》




 《コメント:災害記録か》




 《コメント:見たいけど、まあ慎重でいい》




 《コメント:音だけでも怖かった》




 少しずつ、視聴者もこの線引きに慣れ始めている。




 それでも、全員ではない。




 見たいという声は消えない。




 俺の中からも消えない。




 けれど、消えないからこそ、規則がいる。




 その時、ミリアムが顔を上げた。




「秀直さん」




「どうした」




「黒い街の非公開原本が、一度だけ再生されました」




「誰か触ったか」




「いいえ。操作ログはありません」




 背筋が冷える。




 俺は端末を見る。




 停止画面の中で、月蛇紋が淡く光っていた。




 その奥で、黒い影が揺れる。




 弟を探したわけじゃない。




 それでも、黒い街の影は、俺を待つようにもう一度揺れた。




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