47話 二人の婚約
その日の夜。
雲雀館は、いつもより静かだった。
昼間の騒ぎが嘘のように、暖炉の火は穏やかに燃えている。
壁の奥では、熱巡りの導管が小さく鳴り、二階の部屋までじんわりと温もりを運んでいた。
ココは夕飯の途中から眠そうにしていて、食後すぐにユースティスに抱き上げられた。
「アンジュ、あしたもココのおうち?」
「ええ。明日も、明後日も、ココのおうちよ」
「ずっと?」
「ずっと」
そう答えると、ココは安心したように笑った。
「じゃあ、おやすみ……」
小さな手が私の袖をぎゅっと掴み、それから力が抜けた。
ユースティスの腕の中で、ココはすぐに寝息を立て始める。
「寝かせてくる」
「ええ」
ユースティスはココを抱いたまま、二階へ上がっていった。
私は一人、居間に残った。
暖炉の前の椅子に腰掛ける。
火がぱちりと音を立てるたびに、今日一日の出来事が、ゆっくりと胸の中でほどけていった。
モーティーに言えた。
私のレシピは渡さない。
私の工房に入るな。
私の人生を噂で決めさせない。
怖かった。
手も震えていた。
でも、言えた。
そして、気づいてしまった。
私はユースティスが好きだ。
あまりにもはっきりと、その気持ちが胸の中にあった。
守ってくれるから、ではない。
優しいから、でもない。
料理が上手いから、でも、ココと一緒にいて温かいから、だけでもない。
彼は、私の言葉を奪わない。
私が決めるのを待ってくれる。
私が震えながら立つ時、隣に立ってくれる。
それが、どれほど私を救ってきたか。
「……好き、なのよね」
小さく呟いて、顔が熱くなった。
誰に聞かれたわけでもないのに、胸がどきどきする。
こんなに自分の気持ちを認めるのが怖いなんて、思わなかった。
その時、階段を下りてくる足音がした。
私は慌てて背筋を伸ばす。
まるで悪いことでもしていたみたいに。
ユースティスが居間に戻ってきた。
「ココは?」
「眠った。今日は少し興奮していたな」
「雲雀館が本当に自分の家になったって、嬉しかったんだと思う」
「ああ」
ユースティスは暖炉の前に立ち、火の様子を見た。
薪を一本足し、火かき棒で軽く整える。
いつもの動作。
けれど、私はその背中を、いつも通りには見られなかった。
大きな背中。
静かな横顔。
剣を持てば、誰よりも強い人。
でも、今は暖炉の火を整えて、私とココのために家を温めてくれている人。
その全部が、胸に痛いほど愛おしかった。
「アンジュ」
「な、なに?」
声が少し上ずった。
ユースティスは振り返り、私を見た。
真剣な顔だった。
「少し、話がしたい」
「……ええ」
私は膝の上で己の手を握った。
ユースティスは向かいの椅子には座らなかった。
少し迷ったようにしてから、私の斜め前に立つ。
その距離が、近いような、遠いような。
「今日、お前は自分で立っていた」
「……そう見えた?」
「ああ」
「本当は、足が震えていたわ」
「それでも立っていた」
ユースティスの声は静かだった。
「モーティーに対しても、バーネット家に対しても。お前は、自分の工房と、自分の錬金術と、自分の家を守った」
「一人じゃ無理だったわ。ユースティスが隣にいてくれたから」
「俺は、隣にいただけだ」
「それが、どれだけ心強かったか……あなたは分かってない」
そう言うと、ユースティスは少しだけ目を伏せた。
「分かっていないのは、俺の方かもしれない」
「え?」
「俺は、ずっとお前を守ると言ってきた」
「うん」
「だが、今日のお前を見て思った。お前は、俺が守るだけの人間じゃない」
ユースティスはゆっくり言葉を選んでいるようだった。
「お前は、自分で決められる。怖くても動ける。大切なものを、自分の手で守ろうとする」
「そんな立派なものじゃ……」
「立派だ」
遮るように言われて、私は息を呑んだ。
「俺は勇者だった頃、多くのものを守った。町も、人も、国境も。だが、守るものが大きくなるほど、自分の足元にある小さな暮らしを見失っていた」
ユースティスの声が、少し低くなる。
「ココの不調に気づくのも遅れた。あの子が安心して眠れる場所を探していたのに、俺は父親として何もできていないと思っていた」
「そんなこと……」
「あるんだ。俺にも、失敗した過去が」
ユースティスは苦笑した。
「俺は剣を振るうことはできる。だが、暮らしを作ることは下手だった。アンジュ、お前が雲雀館に来るまで、この家はただの古い屋敷だった。俺とココにとっても、一時的に雨をしのぐ場所に過ぎなかった」
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
「だが、お前が来てから変わった。工房に灯りがつき、台所に笑い声が増え、ココが朝を楽しみにするようになった。俺も……食事を作る相手がいることが、こんなに満たされるものだとは知らなかった」
胸が、いっぱいになる。
ユースティスは私を見た。
「俺とココは、お前に救われた。これは監査団に対する証言ではない。俺の本心だ」
「ユースティス……」
「そして、今日思った」
彼は一度、深く息を吸った。
「俺は、もうお前を守るだけでは足りない」
心臓が、大きく鳴った。
「足りない……?」
「ああ」
ユースティスは、私の前に膝をついた。
私は驚いて立ち上がりかけた。
「ま、待って、ユースティス」
「聞いてほしい」
その声があまりにも真剣で、私は動けなくなった。
ユースティスは私を見上げる。
琥珀色の瞳に、暖炉の火が映っていた。
「アンジュ。お前がバーネット家の令嬢でも、そうでなくても、俺の気持ちは変わらない」
息が止まる。
「元王妃候補だからではない。錬金術師として優秀だからでもない。雲雀館を買い取ったからでもない」
彼の声は、少しだけ掠れていた。
「お前だからだ」
胸の奥が、熱く痛んだ。
「俺は、お前とこの家で生きたい。ココと三人で、朝食を食べて、冬支度をして、喧嘩もして、笑って、同じ場所に帰ってきたい」
「……」
「家政夫としてではなく、護衛としてだけでもなく」
ユースティスは、ゆっくりと言った。
「一人の男として、お前の隣に立ちたい」
私は、何も言えなかった。
言葉が胸の中で渋滞して、喉まで上がってこない。
嬉しい。
怖い。
泣きたい。
笑いたい。
全部が一度に押し寄せてくる。
「アンジュ」
ユースティスは、真っ直ぐに私を見つめた。
「俺と婚約してほしい」
暖炉の火が揺れる。
外では、冬の風が窓を軽く叩いている。
私は、自分の手が震えていることに気づいた。
「……それは」
声がうまく出ない。
「私が、バーネット家を除籍されたから?」
「違う」
即答だった。
「私が、ギボンズ家の縁談から逃げたいから?」
「違う」
「私が、雲雀館を一人で守るのが不安そうだから?」
「それも違う」
ユースティスは、少しだけ苦しそうに眉を寄せた。
「俺は、お前を哀れんで申し込んでいるわけではない。守るためだけに婚約を申し込むなら、それはモーティーと同じだ。お前の人生を、俺の都合で決めることになる」
私は息を呑んだ。
「俺は、お前に選んでほしい」
「選ぶ……」
「ああ。お前が自由になった今、誰に命じられるでもなく、誰かから逃げるためでもなく。お前自身の意思で」
その言葉に、涙がにじんだ。
自由になった今。
家を失ったのではなく、家を選び直した私。
その私に、ユースティスは選べと言ってくれている。
王都の縁談から逃げるためじゃない。
除籍されて不安だから縋るんじゃない。
雲雀館を守るための方便でもない。
私が、選ぶ。
「……私」
声が震える。
「怖かったの」
「ああ」
「あなたを好きだって認めたら、今の暮らしが壊れる気がした。ココとの関係も、雲雀館の空気も、全部変わってしまう気がして」
「そうだな。変わるかもしれない」
「うん」
「だが、良い変化かもしれない」
ユースティスは静かに言った。
「俺は、この暮らしを壊したいんじゃない。続けたいんだ。お前と、今よりも少し近い場所で」
その言葉に、胸の奥がほどけた。
続けたい。
今あるものを壊すのではなく、続ける。
その言葉が、私の怖さを優しく包んでくれた。
「……私も」
涙が頬を伝った。
「私も、続けたい。ユースティスと、ココと、雲雀館で。朝ごはんを食べて、錬金術をして、冬支度をして、くだらないことで笑って……そういう毎日を、続けたい」
ユースティスの瞳が揺れた。
「アンジュ」
「王都の縁談から逃げるためじゃない。家を失ったからでもない。私が、あなたを選びたいの」
私は、はっきりと言った。
「ユースティス。私も、あなたの隣にいたい」
ユースティスは一瞬だけ目を閉じた。
それから、深く息を吐く。
まるで、長い旅の終わりにようやく荷を下ろしたような顔だった。
「……ありがとう」
「こちらこそ」
「では、受けてくれるのか」
「ええ」
私は涙を拭い、笑った。
「あなたとの婚約を、お受けします」
その瞬間、ユースティスの表情が崩れた。
普段は静かで、感情をあまり表に出さない彼が、今は本当に安堵したように笑っている。
それを見たら、胸がいっぱいになった。
ユースティスは立ち上がり、そっと私の手を取った。
大きくて温かい手。
「指輪は、まだ用意していない」
「ふふ。急だったもの」
「だが、必ず用意する。お前に似合うものを」
「じゃあ、私も錬金術で何か作ろうかしら」
「婚約指輪を自作するのか」
「だめ?」
「いや。お前らしい」
二人で少し笑った。
その時。
廊下から小さな声がした。
「……アンジュ、パパ?」
振り返ると、寝間着姿のココが立っていた。
眠そうな目をこすりながら、こちらを見ている。
「ココ。起こしてしまったか」
「おみず、のみたくて……」
ココはとてとてと廊下を歩いてきた。
そして、私とユースティスが手を繋いでいるのを見て、ぱちぱちと瞬きをする。
「……なかなおり?」
私は思わず笑ってしまった。
「喧嘩してたわけじゃないわ」
「じゃあ、なに?」
ユースティスが少し困ったように私を見る。
私は小さく頷いた。
伝えていい。
ココには、ちゃんと。
「ココ」
「なあに?」
「私ね、ユースティスと婚約することになったの」
ココは首をかしげた。
「こんやく?」
「ええ。いつか結婚して、ちゃんと家族になる約束」
その瞬間、ココの目がまんまるになった。
「……アンジュ、ほんとうにかぞくになるの?」
「ココが嫌じゃなければ」
「いやじゃない!」
叫ぶように言って、ココは私に飛びついた。
「やったあ!アンジュ、かぞく!アンジュ、ほんとうのママになるんだ!やったあ!」
「ええ。あなたのママになるのよ」
私はココを抱きしめた。
小さな体が温かい。
ユースティスの手が、そっと私とココの背に触れる。
三人で、暖炉の前に立っていた。
暖炉の火が、静かに燃えている。
雲雀館の夜は、いつもよりずっと温かかった。
(続く)
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