46話 女主人と護衛
翌朝。
目を覚ますと、部屋の空気がいつもより少し柔らかく感じた。
雲雀館は、昨日までと何も変わっていない。
古い床板も、少し歪んだ窓枠も、壁の中を通る熱巡りの導管が小さく鳴る音も、そのままだ。
けれど、私の中では、すべてが違っていた。
ここはもう、バーネット家から与えられた追放先ではない。
私が買った家。
私が守ると決めた家。
そして、ユースティスとココがいる家。
その事実だけで、胸の奥に小さな灯りがともるようだった。
階下へ降りると、台所からいい匂いがしていた。
今日は焼いた黒パンと、ふわふわの卵、それから昨日の白豆スープに細かく刻んだ塩漬け豚を足したもの。
「アンジュー!」
ココが椅子から半分落ちそうな勢いで手を振る。
「おはよう、ココ」
「おはよう! きょうもココのおうちだよ!」
あまりにも嬉しそうに言うものだから、私は思わず笑ってしまった。
「ええ。今日も、これからも、ココのおうちよ」
「パパのおうちで、アンジュのおうちで、ココのおうち!」
「そうね」
ココの無邪気な声が、朝のダイニングに明るく響く。
ユースティスは台所からスープ皿を運んできた。
いつも通りの落ち着いた顔。
でも、私と目が合うと、ほんの少しだけ表情が和らいだ。
「おはよう、アンジュ」
「おはよう。ユースティス」
何気ない挨拶。
でも、その一言が昨日より少し近く聞こえる。
雲雀館を私たちで守る。
その言葉の余韻が、まだ二人の間に残っているようだった。
「今日は、プリシラの店に温石袋と湯冷め防止軟膏を納品しに行くわ」
「無理はするな」
「大丈夫。むしろ、手を動かしていた方が落ち着くの」
「なら、俺も一緒に行く」
「護衛?」
「ああ。護衛で、荷物持ちだ」
ユースティスが真顔で言うものだから、私は少し笑ってしまった。
「頼もしい荷物持ちね」
「力仕事なら任せろ」
そんな会話さえ、今は嬉しかった。
◇◇◇◇◇
朝食の後、私は工房で温石袋の仕上げをした。
小さな蓄熱石を柔らかな布袋に入れ、火根草と乾燥生姜草の抽出液で魔法付与を整える。
熱くなりすぎないように、調温札を重ねて縫い込むのが大事だ。
錬金棒を振るうと、蓄熱石が淡く橙色に光った。
[保温+4]
[低温維持+3]
[安全調温+2]
「よし」
これなら、畑仕事の後に冷えた手を温めるのにも、眠る前に布団へ入れておくのにも使える。
子どもやお年寄りにも安全だ。
私は完成した温石袋を、籠に並べていく。
王都で求められていた錬金術とは、きっと違う。
派手な魔道具でも、宮廷の研究でもない。
でも、これが私の錬金術だ。
誰かの暮らしを少し温める。
誰かの不便を、少しだけ軽くする。
それが、私は好きなのだ。
「完成したか」
入口からユースティスが声をかけてきた。
「ええ。なかなか良い出来よ」
「見せてくれ」
ユースティスが近づき、温石袋を一つ手に取る。
大きな手の中に、布袋がすっぽり収まる。
「温かいな。だが、熱すぎない」
「でしょう? ココが使っても大丈夫な温度にしてあるの」
「これは売れる」
「ふふ。商売人みたいなことを言うのね」
「アンジュの品はよく売れるからな」
何でもない褒め言葉なのに、胸がふわりと温かくなる。
その時、外から騒がしい声が聞こえた。
馬のいななき。
車輪の音。
そして、聞き覚えのある、嫌に通る声。
「アンジュ嬢!いらっしゃいますか!」
私は思わず目を閉じた。
「……朝から来るのね」
「昨日の今日だ。焦っているんだろう」
ユースティスの声は冷静だった。
けれど、表情は少し険しい。
私たちは工房を出て、玄関へ向かった。
扉を開けると、そこにはモーティー・ギボンズが立っていた。
今日は一人ではない。
王都風の服を着た代理人らしい男と、書記らしき若い男を連れている。
モーティーは、昨夜よりもさらに取り繕った笑みを浮かべていた。
けれど、その目は笑っていない。
「おはようございます、アンジュ嬢。昨夜は少々行き違いがありましたので、改めて正式に伺いました」
「行き違いではありません。私ははっきりお断りしました」
「その件ですが」
モーティーは書記に合図した。
書記が書類を取り出す。
「バーネット家から、あなたが除籍されたという話を聞きました。まことに残念です。貴族令嬢としての後ろ盾を失ったあなたが、今後どのように暮らしていくのか、心配でなりません」
「ご心配なく。雲雀館は正式に買い取りました。私は今後も、ここで暮らします」
そう言うと、モーティーの表情がわずかに歪んだ。
「そのようですね。ずいぶん早い手続きで驚きましたよ」
「村長とプリシラが協力してくれましたから」
「田舎者の知恵も、時には侮れませんね」
その言葉に、ユースティスが一歩前に出る。
「言葉を選べと言ったはずだ」
モーティーの肩がぴくりと動いた。
けれど今日は、彼も引くつもりはないらしい。
笑みを貼りつけたまま、書類をこちらへ差し出した。
「ですが、アンジュ嬢。除籍された今、あなたはバーネット家の庇護も、王都錬金術組合における家名の信用も失いました。つまり、あなたの調合品については、安全性と流通責任の確認が必要になります」
「安全性?」
「ええ。あなたは現在、個人の錬金術師として薬品、化粧品、魔道具に類する品を販売している。王都錬金術組合としては、そのレシピと調合記録を確認する義務がある」
「昨日は婚約のため。今日は安全性のため。ずいぶん理由が変わるんですね」
「目的は同じです。あなたの才能を、正しく管理することですよ」
また管理。
私はもう、その言葉を聞くだけで吐き気がしそうだった。
「お断りします」
「拒否する権利はありません」
「あります。私は王都錬金術組合の正規錬金術師ではありません。王立錬金術学園在籍時の準登録が残っているだけです。現在の調合品は、スズ村と近隣地域で、村長立ち会いのもと販売しています」
プリシラに言われた通り、私は用意していた控えを取り出した。
「こちらが販売契約書。こちらが村長の許可証。こちらが薬屋での取り扱い記録です」
モーティーの顔から、少しずつ笑みが消えていく。
「……随分と準備がよろしいですね」
「昨日の夜、あなたが来ましたから」
私はまっすぐに言った。
「私の工房とレシピを守るために、準備しました」
モーティーの目が冷たくなる。
「守る、ですか。まるで僕が盗人のようだ」
「違うんですか?」
言った瞬間、モーティーの顔が強張った。
ユースティスが、隣で小さく息を吸った気配がした。
たぶん、少し驚いたのだろう。
私だって驚いている。
でも、言葉は止まらなかった。
「あなたは私に結婚を申し込みに来たのではありません。私のレシピを、私の実績を、あなたの研究室へ持ち帰りに来た。違いますか?」
「……あなたは、ずいぶん失礼なことを言うようになりましたね」
「王都にいた頃、黙っていただけです」
胸が震える。
怖い。
でも、言わなきゃ。
「私はもう、黙って差し出しません」
「アンジュ嬢」
モーティーの声が低くなった。
「後悔しますよ。除籍され、家名もなく、村の小さな契約書だけを頼りに生きるなど、あまりに惨めだ」
「惨めかどうかは、私が決めます」
「あなたには、ギボンズ家に入る道が残されている。僕の妻になれば、王都での名誉も、研究の場も、生活の保証も得られる」
「その代わりに、私のレシピを差し出せと?」
「夫婦になるのですから、共有財産でしょう」
「結婚前の研究成果まで?」
「細かいことを」
「細かくありません」
私は一歩前に出た。
「それは、私がこの村で作ってきたものです。ダイナの肌荒れを見て作った軟膏。井戸水で困っている村のために作った浄化石。冬の畑仕事のために作った温石袋。プリシラの店で、薬屋で、村の人たちが使ってくれているものです」
言葉にするほど、胸が熱くなる。
「あなたの研究室の棚に、並べるために作ったんじゃありません」
モーティーは唇を引き結んだ。
「……ならば、力ずくで確認するしかありませんね」
彼が合図をすると、後ろに控えていた代理人が工房の方へ視線を向けた。
まさか。
「やめなさい」
私が言うより早く、代理人の男が工房へ向かって歩き出した。
その瞬間、ユースティスが動いた。
剣は抜いていない。
でも、気づいた時には、代理人の男の前に立っていた。
速い。
まるで、風が形になったみたいだった。
「そこから先は、アンジュの工房だ」
低い声。
「許可なく入るな」
「ど、どきなさい。これは王都錬金術組合の確認で――」
「王都の権限は、この家の主の許可を超えない」
ユースティスは淡々と言った。
「この家は、昨日からアンジュのものだ」
その言葉に、胸が熱くなる。
この家の主。
私が。
モーティーが苛立ったように言う。
「元勇者ともあろう方が、辺境の女錬金術師の用心棒ですか」
「そうだ」
ユースティスは迷いなく答えた。
「俺は、彼女の家政夫で、護衛だ」
「誇りはないのですか」
「ある」
ユースティスは、そこで初めてモーティーを真正面から見た。
「だから、守る相手を自分で選んでいる」
空気が、静かに張り詰めた。
モーティーが言葉を失う。
代理人も、書記も、動けない。
ユースティスは剣を抜いていない。
けれど、その場にいる誰もがわかったはずだ。
この人が本気で立ちはだかれば、誰も工房には入れない。
私はその背中を見ていた。
台所でスープを煮込む背中。
ココを抱き上げる腕。
私の作業を静かに見守る目。
そして今、私の工房の前に立つ元勇者。
全部、同じ人だ。
私は、彼の隣に立った。
「モーティー・ギボンズ様」
声は震えていなかった。
「私は、あなたとの縁談を正式に拒否します。ギボンズ家の研究室に入るつもりもありません。私のレシピを提出するつもりもありません」
「……」
「そして、今後、私の許可なく雲雀館および工房へ立ち入ることを禁じます」
モーティーの顔が、怒りで赤くなった。
「除籍された女が、ずいぶん偉そうに」
「除籍されても、私はこの家の主です」
はっきりと言った。
「そして、スズ村の錬金術師です」
モーティーは、しばらく私を睨んでいた。
やがて、ぎり、と奥歯を噛む音がした。
「……後悔しますよ」
「昨日も聞きました」
「本当に、後悔することになる」
「そうですか。どうぞ、ご勝手に」
私は、もう一度言った。
「私は、自分で選びましたから」
モーティーはそれ以上何も言わず、乱暴に踵を返した。
代理人と書記も慌てて後を追う。
馬車の扉が閉まり、車輪の音が遠ざかっていく。
その音が完全に消えてから、私はようやく息を吐いた。
「……言えた」
「ああ」
ユースティスが静かに答える。
「よく言った」
その一言に、また胸がじんわりと熱くなった。
「でも、手が震えてる」
「見せてみろ」
「嫌よ、恥ずかしい」
「無理をするな」
彼が少しだけ困ったように言うから、私は笑ってしまった。
怖かった。
今も怖い。
でも、不思議と心は軽かった。
私は守ったのだ。
雲雀館を。
工房を。
私の錬金術を。
そして、私自身を。
ユースティスが工房の扉を確認し、鍵をかけ直した。
「念のため、鍵を増やそう」
「ええ。調合ノートの写しも作るわ」
「俺も手伝う」
「字、綺麗なの?」
「読めればいい」
「それはちょっと不安ね」
思わずそんな軽口が出た。
ユースティスも、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が柔らかくなる。
私はこの人の隣にいたい。
ふいに、そんな思いがはっきりと形を持った。
逃げるためではなく。
守ってもらうためだけでもなく。
この人と、同じ家を守りたい。
同じ食卓を囲みたい。
同じ朝を迎えたい。
そう思った。
まだ、言葉にはできなかった。
でも、もう誤魔化せない。
私はユースティスを好きなのだ。
(続く)
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