45話 雲雀館の新女主人
それから数日が過ぎた。
村長の名義で買い取り希望の書状を送り、プリシラにも契約書の控えを預けた。
返事を待つ間、私はなるべく普段通りに工房仕事を続けていた。
最近の眠りは浅かった。
何度も夜中に目が覚め、そのたびに、モーティーの声が耳の奥に蘇った。
『あなたのレシピを、僕の研究室で管理すれば――』
管理。
保護。
救い上げる。
どれも、私のための言葉のような顔をして、私から何かを奪おうとしていた。
私は寝台の上で体を起こし、窓の外を見た。
冬の朝の光は薄く、庭の草には白い霜が降りている。
雲雀館の煙突からは、もう細い煙が上がっていた。
ユースティスが、暖炉に火を入れてくれているのだろう。
ここは暖かい。
王都のどんな立派な屋敷よりも、ずっと。
身支度を整えて階下へ降りると、台所から香ばしい匂いがした。
焼いた黒パンと、ベーコン。
それから、じゃがいもと玉ねぎのスープの匂い。
「おはよう、アンジュ!」
ココが椅子の上で元気に手を振った。
「おはよう、ココ」
「アンジュ、ねむれた?」
「うん。少しね」
「すこしなの?」
ココが心配そうに眉を寄せる。
その顔が可愛くて、私は思わず笑った。
「大丈夫。朝ごはんを食べたら元気になるわ」
「パパのごはんはげんきになるよ!」
「本当にそうね」
ユースティスが、スープ皿を私の前に置いてくれる。
「アンジュ、無理はするなよ」
「してないわ」
「している顔だ」
「……ユースティスって、そういうところ鋭いわよね」
「毎日見ていればわかる」
何気ない言葉だったのに、胸の奥が跳ねた。
毎日見ている。
そう言われただけで、昨日の夜の心細さが少しずつほどけていく。
私はスープを一口飲んだ。
じゃがいもと玉ねぎが柔らかく煮込まれていて、ベーコンの塩気がじんわり染みる。
派手な料理ではない。
でも、体の内側から温まる味だった。
食後、私は工房へ向かった。
昨夜のうちに調合ノートは鍵付きの箱に移し、写しを別に作る準備もしていた。
今日は、プリシラに頼まれている冬用の温石袋と、湯冷め防止軟膏を仕上げる予定だ。
王都の手紙を待つだけで一日を過ごしたら、きっと不安に押し潰される。
だから、手を動かす。
私には、できる仕事がある。
錬金釜に、火根草の粉、雪蜜蜂の蜜蝋、桃香油を入れる。
そこへ、乾燥生姜草の抽出液を数滴。
錬金棒を回すと、釜の中に淡い橙色の光が灯った。
[保温+4]
[湯冷め防止+3]
「よし……」
ちゃんとできている。
私の手は震えていない。
この軟膏は、冬のスズ村で使われる。
畑仕事の後、冷えた手足に塗る人がいる。
湯浴みの後、子どもに塗ってあげる母親がいる。
プリシラの店で、誰かが「これ、よく効くのよ」と言って買っていく。
私の錬金術は、そういう場所にある。
王都の研究室で、誰かの名前の下に並べられるためのものではない。
私は次に、温石袋の調整を始めた。
小さな蓄熱石を布袋に入れ、低温でじんわり温かさが続くように魔法付与をかける。
危なくないように、熱くなりすぎない調温札も一緒に縫い込む予定だ。
作業を進めていると、外から馬車の音が聞こえた。
手が止まる。
また、王都から?
胸がざわついたが、すぐに玄関の方からユースティスの声がした。
「アンジュ。村長だ」
私はほっと息を吐き、工房を出た。
居間には、村長とプリシラが来ていた。
村長の手には、封蝋のついた書状。
プリシラは腕を組み、難しい顔をしている。
「バーネット家から返答が来ました」
村長の声は慎重だった。
私は無意識に手を握りしめる。
ユースティスが、すぐそばに立った。
「読みますか?」
「……はい」
村長から書状を受け取る。
封蝋はバーネット家のもの。
父の筆跡ではない。たぶん、家令か代理人が書いたものだろう。
私は封を切り、文面を追った。
雲雀館の買い取りについて。
バーネット家は、当該地方別邸を不要資産として処分することに同意する。
評価額は、村長提出の査定を考慮し、金貨八枚とする。
支払い完了をもって、雲雀館および付随する土地の所有権をアンジュ・バーネットへ移す。
そこまでは、予想よりずっとまともだった。
けれど、次の一文で、息が止まった。
――ただし、アンジュ・バーネットはギボンズ家との縁談を拒否し、家命に背いたものと見なし、本契約成立をもってバーネット家の籍より除く。
視界が、少し揺れた。
望んでいた。
自分から、除籍を申し出た。
それなのに、こうして文字で突きつけられると、胸の奥がひどく痛んだ。
家から、いらないと言われた。
正式に。
もう娘ではないと。
私は唇を噛んだ。
「アンジュ」
ユースティスの声がした。
とても近くで。
「大丈夫」
そう答えようとして、声が出なかった。
プリシラがそっと近づき、私の手から書状を取った。
「……売却自体は認めてる。金貨八枚。条件は、除籍」
「ええ」
私はやっと頷いた。
「そう、書いてありますね」
「払えるのかい」
「払います」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
痛い。
悲しい。
でも、それでも。
私はもう戻らない。
「金貨六枚と、銀貨を合わせて少し。私の分はすぐ出せます。残りは……」
「俺が出す」
ユースティスが言った。
迷いのない声だった。
「金貨二枚。用意してある。銀貨はしまえ」
「ユースティス……」
「言っただろう。ここは、俺とココの家でもある」
その言葉に、また泣きそうになる。
村長は静かに頷いた。
「では、村の立ち会いで契約を進めましょう。支払いの証明、所有権移転の記録、すべて村の台帳に残します」
「念のため、うちでも控えを取るよ」
プリシラが書状をぱん、と軽く指で叩いた。
「王都の連中が後から言い逃れできないようにね」
「ありがとうございます」
私は深く息を吸った。
そして、もう一度書状を見た。
アンジュ・バーネットを、バーネット家の籍より除く。
その文字は冷たかった。
残酷だった。
けれど同時に、私を縛っていた鎖が切れる音にも見えた。
「……私、署名します」
誰も、すぐには何も言わなかった。
私は机に向かい、村長が用意してくれた契約書を開いた。
雲雀館の買い取り契約。
金貨八枚。
所有権移転。
村長立ち会い。
そして、バーネット家からの除籍同意。
ペンを持つ手が、少し震える。
ユースティスが、隣に立っていた。
手を取るわけではない。
代わりに署名するわけでもない。
ただ、そこにいてくれる。
それが、どれだけ心強いか。
私はペン先を紙に置いた。
アンジュ・バーネット。
書き慣れた名前。
ずっと私について回った名前。
これが、バーネット家の娘としての最後の署名になるのかもしれない。
胸が痛んだ。
でも、私は最後まで書いた。
インクが紙に染み込んでいく。
村長が確認し、プリシラが控えを取る。
ユースティスは小さな箱を机に置いた。
中には、きっちり数えられた金貨二枚。
私も、革袋から金貨六枚を出した。
金貨八枚。
雲雀館の値段。
私が働いて稼いだお金。
ユースティスが、ココのために残していたお金。
それを合わせて、この家を買う。
支払いの記録が作られ、契約書に村長の署名が入る。
プリシラが証人として名を記す。
ユースティスも、資金提供者兼立会人として署名した。
すべてが終わった時、村長はゆっくりと書類を閉じた。
「これで、雲雀館はアンジュさんのものです」
その瞬間、私は息を忘れた。
雲雀館が、私のものになった。
バーネット家に与えられた追放先ではなく。
誰かに取り上げられるかもしれない仮住まいではなく。
私が買った家。
私が守る家。
私たちの家。
「……私、もう」
声が震えた。
「バーネット家の娘じゃ、ないんですね」
言った瞬間、涙がこぼれた。
望んでいたはずなのに。
そうなるしかないと思っていたのに。
やっぱり、悲しかった。
幼い頃、父に褒めてもらいたかった。
母に、よくやったと言ってほしかった。
王妃候補としてではなく、家の道具としてではなく、ただ娘として、見てほしかった。
でも、もう終わったのだ。
「アンジュ」
ユースティスが静かに呼んだ。
「……ごめんなさい。泣くつもりじゃ」
「泣いていい」
その一言で、我慢がほどけた。
私は両手で顔を覆った。
涙が止まらなかった。
プリシラが、そっと肩に手を置いてくれる。
村長は何も言わず、ただ静かに待ってくれた。
ユースティスは、私のそばにいた。
ずっと。
しばらく泣いて、やっと顔を上げた時、目の前の契約書が滲んで見えた。
雲雀館。
所有者、アンジュ。
私はもう、バーネット家の娘ではない。
でも、雲雀館の主になった。
失った。
けれど、手に入れた。
「……私、ここで生きます」
私は涙を拭いながら言った。
「この家で。スズ村で。私の錬金術で」
村長が、優しく頷いた。
「ええ。村は、あなたを歓迎します」
プリシラが笑った。
「ようこそ、正式なスズ村の錬金術師さん」
胸の奥に、温かいものが広がる。
その時、玄関の方から、小さな足音が聞こえた。
「アンジュ?」
幼稚園から帰ってきたココだった。
ユースティスが迎えに行く時間を少し過ぎていたらしい。幼稚園の先生が送ってくれたのだろう。
ココは私の泣き顔を見るなり、目を丸くした。
「アンジュ、ないてる!」
「大丈夫よ、ココ」
「だいじょうぶじゃない!」
ココが駆け寄ってきて、私にぎゅっと抱きついた。
「アンジュ、どこかいたい?」
「ううん。痛くないわ」
「じゃあ、なんでないてるの?」
私はココを抱きしめ返した。
「悲しいこともあったけど、嬉しいこともあったから」
「うれしいこと?」
「ええ。雲雀館がね、ちゃんと私たちの家になったの」
ココはぱちぱちと瞬きをした。
そして、ぱあっと顔を輝かせた。
「ほんと!? ココのおうち?」
「ええ。ココのおうち」
「パパのおうち?」
「もちろん」
「アンジュのおうち?」
「うん。私のおうち」
ココは嬉しそうに飛び跳ねた。
「やったー! じゃあ、ずっとここにいていいんだね!」
ずっと。
その言葉に、また涙が出そうになった。
ユースティスが、少しだけ柔らかく笑っていた。
「そうだな。ずっと、ここにいられる」
その声に、胸が静かに震える。
ずっと、ここにいられる。
バーネット家に怯えずに。
王都からの命令に振り回されずに。
まだ、すべてが終わったわけではない。
モーティーが、このまま引き下がるとは思えない。
ギボンズ家も、王都錬金術組合も、きっと何か言ってくるだろう。
でも、私はもう逃げ場を守った。
ここが、私の家だ。
その夜、雲雀館の居間では、ささやかな祝いの食卓が並んだ。
ユースティスが急ごしらえで作ってくれたのは、根菜と白豆のスープ、焼いた黒パン、塩漬けベルモンテ豚の薄切り、そしてプリシラが持ってきてくれた蜂蜜入りの焼き菓子。
豪華な食事ではない。
けれど、私には王宮の晩餐よりずっと温かかった。
ココは何度も繰り返した。
「ここ、ココのおうち!」
と言って笑った。
私はそのたびに頷いた。
ここは、私たちの家。
その夜、眠る前に、私は自室の窓から庭を見下ろした。
霜の降りた庭。
古い井戸。
小さな工房の灯り。
煙突から上がる煙。
もう、この景色を誰にも奪わせない。
そう思った時、廊下で小さな物音がした。
振り返ると、ユースティスが立っていた。
「眠れそうか」
「……たぶん」
「今日は疲れただろう」
「ええ。でも、不思議ね。寂しいのに、少しだけすっきりしてる」
「そうか」
ユースティスは静かに頷いた。
「アンジュ」
「なに?」
「お前は、家を失ったんじゃない」
私は彼を見た。
「家を選び直したんだ」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
私はゆっくり頷いた。
「……うん」
もう、涙は出なかった。
ただ、肩に添えられた彼の手のひらが、温かかった。
(続く)
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