44話 モーティー・ギボンズとの対立
こんな時間に来客なんて、まともな用件であるはずがない。
私は書き終えたばかりの買い取り希望の書状を、そっと伏せた。
ユースティスはすでに玄関へ向かっている。私は慌ててその後を追った。
「待って。私も行く」
「無理するな」
「無理じゃないわ。あの人は、私に用があるんでしょう」
そう言うと、ユースティスは一瞬だけ私を見る。
心配そうな目だった。
けれど、彼は私を止めなかった。
玄関の扉を開けると、冷たい夜気が流れ込んできた。
外には、ランタンを持ったモーティー・ギボンズが立っていた。
昼間と同じ、柔らかな笑顔。
けれど夜の闇の中では、その笑みが余計に薄気味悪く見えた。
「夜分に失礼いたします、アンジュ嬢」
「本当に夜分ですね」
思わずそう返すと、モーティーはわずかに眉を動かした。
けれどすぐに、何事もなかったように笑う。
「正式な書類をお持ちしました。バーネット家とギボンズ家の間で進めている縁談についての概要、それから、あなたの王都帰還後の所属についてです」
「私はお断りすると伝えました」
「ええ。ですが、お断りの返事はまだバーネット家で受理されておりません」
受理。
その言葉に、胸の奥が冷えた。
「私の意思は、受理されなければ存在しないんですか?」
「そういう意味ではありません。ただ、貴族の婚姻には手順があるという話です。あなたが感情的に拒否したからといって、すぐに白紙にできるものではない」
「感情的……」
笑いそうになった。
怒っている時ほど、なぜか笑いたくなるのは不思議だ。
「私は、はっきりと意思表示をしました。王都には戻りません。縁談も受けません」
「困りましたね。あなたは昔から、そうやって自分の正しさだけで物事を決めようとする」
モーティーはため息をついた。
「クリストファー殿下も、あなたのそういうところに疲れておられたのでしょう」
その名前を出されて、胃の奥がきゅっと縮む。
けれど、もう昔ほど痛くはなかった。
ユースティスが一歩、私の前に出ようとした。
私はその袖を軽く引く。
大丈夫。
これは、私が言わなきゃいけない。
「クリストファー殿下がどう思っていたかは、もう関係ありません」
「強がりを」
「いいえ。事実です」
私はモーティーをまっすぐ見た。
「私はもう、殿下の婚約者ではありません。王都の王妃候補でもありません。あなたの婚約者でもありません」
モーティーの笑みが、少し薄くなった。
「それで? あなたは一生、この田舎で薬草を煮て暮らすおつもりですか?」
「ええ。その方がずっと幸せです」
自分で言って、驚いた。
でも、嘘ではなかった。
王都の舞踏会より。
王宮の豪華な食卓より。
誰かの評価のために笑う日々より。
雲雀館の台所でユースティスが作る朝食の匂いの方が、ずっと私の胸を満たす。
ココが走って抱きついてくる温もりの方が、ずっと大切だ。
モーティーは、私の言葉を理解できないという顔をした。
「あなたは、自分の才能の価値をわかっていない」
「わかっています」
「いいえ、わかっていない。あなたの作った保湿軟膏、魔法灯、回復薬。聞けば、王都でも十分通用する品質だという。あなたのレシピを僕の研究室で整理し、組合の流通に乗せれば、莫大な利益が出るでしょう」
「やっぱり、レシピが目的なんですね」
「目的、という言い方は不愉快ですね。僕はあなたの才能を正しく使おうとしているだけです」
「正しく?」
「ええ。辺境の雑貨屋や薬屋に卸して終わるなど、あまりにも非効率だ。あなたは感情で動きすぎる。錬金術には体系と管理が必要です」
彼はそこで、雲雀館の奥へ視線を向けた。
「少し、工房を見せていただけますか」
「嫌です」
即答だった。
モーティーは目を細める。
「婚約予定者に対して、ずいぶんな態度ですね」
「婚約予定者ではありません」
「なら、王都錬金術組合の役員として命じます。あなたは王立錬金術学園の準登録錬金術師であり、今も組合記録に名が残っている。あなたの調合作業とレシピの安全確認を行う権限が、こちらにはあります」
安全確認。
また都合のいい言葉だ。
「夜に突然やってきて、私の工房を見せろと?」
「必要があれば」
「お断りします」
「アンジュ嬢」
モーティーの声が、少し低くなった。
「あなたはご自分の立場を悪くしている。ギボンズ家との縁談を拒み、王都帰還も拒み、その上、組合の確認にも応じない。これでは、バーネット家もあなたを庇いきれませんよ」
「庇ってもらった覚えがありません」
言った瞬間、空気が止まった。
モーティーは黙った。
ユースティスも、私を見る気配がした。
でも、もう止まらなかった。
「私は、王都で庇ってもらえませんでした。婚約破棄された時も、追放された時も、誰も私の話を聞いてくれなかった。今さら、家が私を庇うなんて言われても、信じられません」
「……あなたは、本当に愚かだ」
モーティーの笑みが消えた。
「せっかく救い上げてやろうというのに」
その言葉で、私の中の何かが完全に冷えた。
救い上げる。
上から手を伸ばして、私を拾い上げてやるつもりなのだ、この人は。
でも、違う。
私はもう、泥の中で助けを待っているわけじゃない。
自分の足で立っている。
震えていても、ちゃんと立っている。
「私は、あなたに救われる必要はありません」
はっきりと言った。
「私の錬金術は、あなたの研究室のためのものではありません。私のレシピも、私の工房も、私の暮らしも、私自身のものです」
モーティーの顔が歪む。
「きれいごとを。あなた一人で、どこまでやれると?」
「一人じゃありません」
そう言った瞬間、ユースティスが私の隣に立った。
肩が触れるほど近い。
けれど、彼は私の言葉を奪わなかった。
ただ、そこに立ってくれた。
それだけで、私は息ができた。
「この家には、私を信じてくれる人がいます。村にも、私の作ったものを必要としてくれる人がいます」
「田舎者の慰めに、ずいぶん勇気づけられているようですね」
モーティーは吐き捨てるように言った。
その瞬間、ユースティスの空気が変わった。
「言葉を選べ」
静かな声だった。
剣は抜いていない。
けれど、モーティーの喉がひくりと動いた。
「ここはアンジュの家だ。彼女を侮辱するために来たなら、帰れ」
「使用人風情が」
「俺は雲雀館の家政夫だ」
ユースティスは淡々と言った。
「そして、彼女の護衛だ」
短い沈黙。
モーティーは悔しげに口元を歪めた。
けれど、その目には明らかに迷いがあった。
彼はユースティスの正体を知っている。
先代ムルシア勇者。
その名の重さを、王都の人間なら知らないはずがない。
「……よろしい。今夜は引き下がりましょう」
モーティーは外套を整えた。
「ですが、アンジュ嬢。あなたの返答は、バーネット家とギボンズ家に正式に報告します。除籍を望むなら、それもよろしいでしょう。ただし、バーネット家の庇護を失えば、この館に住み続ける権利も失うことになるかもしれませんよ」
「雲雀館は、買い取ります」
私が言うと、モーティーは一瞬だけ目を見開いた。
「……買い取る?」
「ええ。正式な評価額を確認し、村長立ち会いのもとで買い取ります。もう書状の準備もしています」
「あなたにそんな資金が?」
「あります」
本当は、少し足りないかもしれない。
でも、私は言い切った。
すると、ユースティスが低く続けた。
「足りない分は俺が出す」
モーティーの視線が、ユースティスへ向いた。
「使用人が?」
「この家は、俺と娘の家でもある」
その言葉に、胸が熱くなった。
私だけではない。
私たちの家。
モーティーは、その言葉が気に入らなかったらしい。
美しい顔を歪め、冷たく笑った。
「なるほど。ずいぶんと仲睦まじいことで。これでは、王都で噂になるのも当然ですね」
「噂にしたければどうぞ」
今度は、私が言った。
「でも、私の人生を噂で決めさせるつもりはありません」
モーティーはしばらく私を睨んだ。
やがて、乱暴に踵を返す。
「後悔しますよ、アンジュ嬢」
「しません」
「その言葉、よく覚えておきましょう」
馬車の扉が閉まる。
御者が手綱を引き、馬車が闇の中へ走り出した。
車輪の音が遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなってから、私はようやく息を吐いた。
膝から力が抜けそうになる。
「アンジュ」
ユースティスがすぐに支えてくれた。
腕が背中に回る。
温かい。
でも、私はその胸に倒れ込むのを、ぎりぎりでこらえた。
「……怖かった」
「ああ」
「でも、言えたわ」
「ああ」
「私の錬金術は、私のものだって」
「ああ。言えていた」
ユースティスの声が、少しだけ柔らかくなる。
「よく言った」
その一言で、私は泣きそうになった。
褒められたかったのかもしれない。
王都でずっと、正しくあろうとして、誰にも見てもらえなかった私を。
震えながらでも立っていた私を。
「……ねえ、ユースティス」
「なんだ」
「雲雀館、本当に買えると思う?」
「買う」
迷いのない答えだった。
「言い切るのね」
「お前が買うと決めたことだ。俺も一緒に戦う」
また、胸が熱くなる。
ユースティスは、私を守ると言う。
でもそれは、私の代わりに決めるという意味ではない。
私が決めたことを、隣で支えてくれるという意味だ。
私は、それがたまらなく嬉しかった。
「明日、村長に書状を出すわ。プリシラにも、契約書の確認をお願いする」
「ああ」
「工房の鍵も増やさないと。調合ノートも、写しを作って別の場所に保管する」
「手伝う」
「ありがとう」
玄関の扉を閉める。
冷えた夜気が遮られ、雲雀館の中の温かさが戻ってきた。
居間の暖炉では、火が静かに燃えている。
壁の奥で、熱巡りの導管が小さく鳴った。
私はその音を聞きながら、そっと胸に手を当てた。
怖い。
これからもっと面倒なことになるかもしれない。
バーネット家も、ギボンズ家も、そう簡単には引き下がらないだろう。
でも、私はもうわかっている。
私は一人じゃない。
ここには、帰る場所がある。
私の錬金術を必要としてくれる人たちがいる。
そして、隣に立ってくれる人がいる。
だから、逃げない。
雲雀館を守る。
私の錬金術を守る。
私の人生を、私の手に取り戻す。
そう決めた夜だった。
(続く)
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