43話 館の主は誰だ
翌日。
私は朝食の席で、ココに昨日のことをなるべく簡単に説明した。
「雲雀館をね、ちゃんと私たちの家にするために、お金を払って買い取ろうと思うの」
ココはベーコン入りのオムレツを口いっぱいに頬張ったまま、ぱちぱちと瞬きをした。
「いまもアンジュのおうちじゃないの?」
「うーん……そうなんだけど。王都の人たちが、まだ口を出してくるのよ。だから、もう口出しできないように、ちゃんとするの」
「ふーん……」
わかったような、わかっていないような顔。
それからココは、にぱっと笑った。
「じゃあ、ココのおうちにもなる?」
その言葉に、胸の奥がぎゅっとなった。
「……そうね。ココのおうちにもなるわ」
「パパのおうちにも?」
私はユースティスを見た。
彼は無言でスープ皿を置き、少しだけ困ったような顔をしていた。
「……ああ。そうなるといい」
ココは嬉しそうに足を揺らした。
「じゃあ、がんばってかう!」
「ココは幼稚園に行くんだ」
「えー!」
いつも通りの朝。
けれど、いつもより少しだけ、未来の話をしている朝だった。
食事を終えると、私は書類鞄を用意した。
これまで受け取った依頼料の記録、プリシラの店への納品控え、薬屋の卸し表、村長からの光芯の礼金、行商人からの支払い記録。
王都にいた頃なら、こういう小さな収支表を自分で管理することなんてなかった。
でも今は違う。
私が作ったもので、私が稼いだお金だ。
そして、それで雲雀館を守る。
「まずは村長に相談しましょう。雲雀館の正式な評価額とか、土地台帳のことを聞きたいの」
「ああ。俺も行く」
「ユースティスも?」
「当然だ。俺にも関係がある」
さらりと言われて、私はまた少しだけ照れた。
昨日の「俺たちで守ろう」という言葉が、まだ胸の奥で温かく残っている。
ココを幼稚園に送った後、私たちは村長宅へ向かった。
冬の気配が濃くなったスズ村は、朝の空気がぴんと張っている。
桃畑の木々は葉を落とし、黒い枝を空へ伸ばしていた。農家の人たちは厚手の上着を着て、剪定鋏を手に枝を整えている。
夏の甘い桃の香りはもうない。
でも、この静かな畑も、来年の実りのために生きている。
村長宅に着くと、村長はすぐに応接間へ通してくれた。
「雲雀館を買い取りたい、とな」
「はい。私はバーネット家から除籍されることになると思います。その前に、雲雀館の権利関係をはっきりさせておきたいんです」
私がそう言うと、村長は白い眉を下げた。
「アンジュお嬢様……」
「お嬢様、はもうやめてください。家から離れたら、ただのアンジュになりますから」
「何をおっしゃる。家名があろうとなかろうと、あなたはあなたですぞ」
あまりにも自然にそう言われて、私は一瞬言葉を失った。
王都では、私はバーネット家の娘だった。
王妃候補だった。
クリストファーの婚約者だった。
悪役令嬢だった。
でも、この村では。
私は私。
ただのアンジュでもいいのだろうか。
「……ありがとうございます」
私が頭を下げると、村長はゆっくり頷いた。
「雲雀館の件ですがな。あの館は、元々バーネット家の地方別邸として登録されております。所有権は今もバーネット家にありますが、長く使われていなかったため、村長である私がバーネット家から管理を任されておりました」
「村長が、管理を……」
「はい。とはいえ、最低限の風通しや雨漏りの確認をする程度でした。人が住まねば、屋敷は傷みますからな。アンジュさんがこちらに来てからは、実際の日々の手入れや修繕は、アンジュさんとユースティス殿が担っている状態です」
「では、まだ所有権はバーネット家に?」
「書類上はそうなります。ただし、あちらが売却に応じるのであれば、村としてはアンジュさんの所有登録に切り替えられます。私も、管理を任されている者として、雲雀館の現状と評価額を証明しましょう」
私は息をついた。
やはり、完全に私のものではなかった。
「評価額はどのくらいになるでしょうか」
村長はしばらく考え込んだ後、机の引き出しから古い台帳を取り出した。
「雲雀館は広さだけはありますが、王都の屋敷とは違います。辺境の古い館で、修繕費もかかる。買い手もまずつかない。土地つきで……そうですな。金貨八枚から十枚ほどが妥当かと」
金貨八枚から十枚。
大金だ。
でも、届かない額ではない。
私は鞄から収支の記録を取り出した。
「私の手元に、今すぐ動かせるお金が金貨六枚分ほどあります。銀貨も合わせれば、もう少し」
村長は目を丸くした。
「それほど稼いでおられたのですか」
「少しずつです。薬や化粧品、光芯、日用品……。村の皆さんが買ってくださったおかげです」
言いながら、胸が熱くなった。
私一人の力ではない。
この村で、私の作ったものを必要としてくれた人たちがいたから、ここまで来られた。
「足りない分は、俺が出します」
隣に座っていたユースティスが静かに言った。
「ユースティス」
「昨日も言っただろう。俺とココも、この家に救われた。雲雀館を守るなら、俺にも負担させてくれ」
「でも、それはココのために残しておいたお金でしょう?」
「だからだ」
彼は迷いなく言った。
「ココが安心して眠れる場所を守るためなら、これ以上の使い道はない」
村長は、私たちを見比べて、少しだけ目を細めた。
「……なるほど。雲雀館は、もうアンジュさんお一人の家ではないのですな」
私は何も言えなかった。
否定できなかったからだ。
雲雀館は、私だけの逃げ場所ではなくなっていた。
ユースティスがいて。
ココがいて。
朝食の匂いがして。
暖炉が燃えて。
工房に錬金釜の光が灯る。
そこは、もう私たちの家だった。
「わかりました。村としても協力しましょう。まずは、バーネット家側へ正式な買い取り希望の書状を出します。村長である私が、雲雀館の評価額と現状を証明しましょう」
「ありがとうございます、村長」
「それと、プリシラにも相談なさるとよい。あの人は商売の契約書に強い。王都の代理人が妙な条件をつけてきた時、役に立つでしょう」
プリシラ。
確かに、彼女なら頼りになる。
「行ってみます」
「アンジュさん」
立ち上がろうとした私に、村長が声をかけた。
「あなたがこの村に来てから、スズ村は少し変わりました。井戸水も、薬も、灯りも、若い娘たちの化粧品も。小さなことかもしれませんが、暮らしは確かに良くなった」
「……」
「ですから、今度は村があなたの暮らしを守る番です」
その言葉に、私は目の奥が熱くなった。
「……はい」
声が震えた。
でも、泣かなかった。
泣くのは、全部終わってからにしよう。
◇◇◇◇◇
村長宅を出て、私たちはプリシラの店へ向かった。
店先には、私が作った保湿軟膏や桃香油、安眠薄荷の香袋が並んでいる。
冬が近いせいか、湯冷め防止の軟膏や温石袋がよく売れているようだった。
プリシラは私たちの顔を見るなり、眉を吊り上げた。
「来たね。王都の連中のことでしょう」
「まだ何も言ってないんだけど」
「顔に書いてあるよ。アンジュ、あんたは隠し事が下手だね」
そう言われて、私は少しだけ笑ってしまった。
奥の小部屋に通され、事情を説明する。
実家から押し付けられた縁談のこと。
バーネット家からの除籍希望のこと。
雲雀館を買い取りたいこと。
プリシラは最後まで黙って聞いていた。
そして、机を指でとんと叩いた。
「なるほどね。なら、急いだ方がいい」
「急いだ方が?」
「バーネット家が本気であんたを縛りたいなら、雲雀館の売却に妙な条件をつけてくる可能性がある。例えば、買い取りを認める代わりに王都へ一度出頭しろ、とか。あるいは、縁談相手との面会を条件にする、とかね」
「……ありそう」
嫌すぎるほど、ありそうだった。
「だから、先にこっちで書面を作る。雲雀館の現状評価、修繕実績、管理費、村への貢献、それから買い取り希望額。全部まとめて、村長の証明つきで送るんだ。向こうに主導権を渡す前にね」
「プリシラ、すごい……」
「商売ってのは、相手に値札を貼られる前に、自分で値段を決めるものさ」
プリシラはにやりと笑った。
「それに、あんたの作った品の売上記録なら、うちにもある。必要なら証明してあげるよ。アンジュの錬金術は、ちゃんとこの村で商売になってる。家の道具じゃなく、独立した錬金術師の仕事としてね」
独立した錬金術師。
その言葉が、胸にすとんと落ちた。
私はもう、王都で誰かに認めてもらうのを待っているだけの令嬢じゃない。
この村で、仕事をしている。
お金を稼いでいる。
必要とされている。
「ありがとう、プリシラ」
「礼は買い取りが済んでからにしな。で、問題はあの縁談相手だね。ギボンズ家の次男だっけ?」
「モーティー・ギボンズ。王立錬金術学園の同級生だったの」
「嫌な男?」
「すごく」
「なら、用心しな。そういう男は、女の持ち物を自分のものみたいに扱う」
私は昨夕のモーティーの言葉を思い出した。
『あなたのレシピも、僕の研究室で管理すれば、もっと価値あるものになりますよ』
背筋が冷える。
「工房の調合ノート、しまってある?」
「ええ。鍵付きの箱に」
「鍵を増やしな。あと、書類は私のところでも控えを取っておく。王都の貴族様は、都合の悪い紙を消すのが上手いからね」
「……本当に頼もしいわ」
「当たり前だよ。うちの商品を作ってくれる大事な錬金術師を、王都のボンボンに持っていかれてたまるかっての」
プリシラは冗談めかして言った。
でも、その目は真剣だった。
私はまた泣きそうになった。
今日は泣きそうになることばかりだ。
店を出る頃には、買い取りに必要な書類の手順がかなり見えていた。
村長が評価証明を書く。
プリシラが売上証明と契約書の確認をする。
私が買い取り申請書を書く。
ユースティスは資金の一部を出し、王都側の使者が来た時の立会人になる。
思っていたより、私は一人ではなかった。
雲雀館への帰り道、ユースティスが静かに言った。
「少し顔色が戻った」
「そう?」
「ああ」
「村長とプリシラが頼もしいからね」
「お前もだ」
「私?」
「昨日、あの男が来た時は震えていた。だが今日は、自分で動いている」
ユースティスの言葉に、私は足を止めそうになった。
「……怖いのは変わらないわよ」
「怖くても動けるなら、それはお前が強いということだ」
彼は当たり前のように言った。
「俺は剣を振るうことしかできない。だが、お前は錬金術で自分の場所を作っている」
「そんな大げさなことじゃないわ」
「大げさじゃない」
ユースティスは私を見た。
「雲雀館を買い取ると決めたお前は、昨日よりずっと強い顔をしている」
胸が熱くなった。
どうしてこの人は、こんなふうに私を見てくれるんだろう。
王都では、私はいつも足りないものとして見られていた。
もっと淑やかに。
もっと王妃らしく。
もっと家の役に立つように。
でもユースティスは、私が震えながら決めたことを、強いと言ってくれる。
「……ユースティス」
「なんだ」
「私、この家を守るわ」
「ああ」
「王都にも、実家にも、モーティーにも渡さない」
「ああ」
「私の錬金術も、私の人生も」
そう言うと、ユースティスはほんの少しだけ目を細めた。
「そのためなら、俺の剣も使え」
風が冷たく吹いた。
でも、不思議と寒くはなかった。
雲雀館の煙突から、薄く煙が上がっている。
あそこには帰る場所がある。
守りたいものがある。
だから、私はもう逃げない。
その夜、私は村長宛の確認書と、バーネット家へ送る買い取り希望の書状を書いた。
書き終えた頃、窓の外では冬の月が白く光っていた。
――雲雀館を、正式に買い取ります。
最後にそう書いて、私はペンを置いた。
その時、玄関の方で馬車の音がした。
こんな時間に?
嫌な予感に、胸がざわつく。
ユースティスがすぐに立ち上がり、私の前に出た。
「俺が見る」
やがて、玄関の扉が叩かれる音がした。
低く、遠慮のない音。
私は息を呑んだ。
扉の向こうから、聞き覚えのある声がする。
「アンジュ嬢。ギボンズです。正式な書類を持って参りました」
私は、握っていたペンを強く握りしめた。
早すぎる。
向こうも、動き出したのだ。
(続く)
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