番外編 ユースティスの午前
ユースティスを主役とした番外編です。三人称になります。
家政夫の朝は早い。
東の空が白みはじめる頃、ユースティスは静かに使用人部屋のベッドを滑り出た。隣のベッドでは娘のココが掛け布団を跳ね除け、豪快な姿勢で眠っている。
そっと掛け布団を掛け直してやると、椅子の上に畳んでおいた普段着に手を伸ばす。黒いハイネックのシャツに、赤茶色の長ズボン。黒い編み上げのロングブーツ。いつもの装いを整えると、ユースティスは静かに使用人部屋を出た。
裏口のそばの洗面台で顔を洗い、歯を磨く。寝静まった雲雀館の女主人を起こさぬよう、極力音を立てない。アンジュが調合したシェービングクリームを付けてヒゲを剃り、髪を整え、キッチンに向かう。
いつも使っているシンプルな麻のエプロンを手に取り、身につけた。
「よし……」
ユースティスは裏口から雲雀館の裏庭に出る。
少し小高い丘の上にある雲雀館からは、スズの村が一望できる。東の山の向こうに、朝日が登ってきている。
しばし眩しげに朝日を眺め――彼は仕事を開始した。
まずは井戸の滑車の点検だ。
そして、井戸水を汲んでその様子を見る。
水質のチェックは重要な仕事だ。
以前、スズ村の井戸水が濁った一件以来、ユースティスは井戸の様子を以前にも増して気にかけるようになっていた。
井戸桶の中で朝の光を受ける水は、今日も澄んでいる。
それを確かめて、ようやく胸の奥のわずかな緊張がほどけた。
何往復かして汲んだ水を裏口の前の<浄水瓶>に移す。雲雀館の生活用水は主にここから採る。後でアンジュの部屋の汲み置きの洗面用水も入れ替えないといけないが、まずは朝の家事だ。
ユースティスは浴室に移り、風呂釜掃除をはじめた。
プリシラの店で買った洗浄剤をタライに張り、そこにスポンジを浸す。泡立つ水を吸ったスポンジで風呂釜を丁寧に磨いていく。
風呂釜の掃除が終わると、スポンジを変えて床のタイル掃除に移った。
雲雀館の風呂の床タイルは、鮮やかなサンドル王国南部の模様が描かれた高級なものだ。汚れが蓄積しないよう、一枚ずつ丁寧に磨いていく。
壁面まで丁寧にこすって水垢を落とすと、手桶で洗浄剤を洗い流していく。
昨夜使った風呂はピカピカになった。
最後に風呂の窓を開けて、換気も忘れない。
そして……朝食の準備だ。
最近はココの幼稚園通いが始まったせいで朝が早い。アンジュも、以前のようにゆっくりした朝を楽しむのではなく、ココの登園前の朝食に合わせて一階に降りてくるようになった。
朝の食卓には、彼女たちが満足するようなメニューを並べたい。
かまどの火を入れて、腕を組んで考える。
「さて――今日は何にするか」
食料庫と、台所に併設された氷室を覗いてしばし考える。
それから、流しの上の棚に置かれた料理本を手に取った。
旅の途中で買ったお気に入りの本だ。もうすっかり汚れてくたびれてしまっているが、ユースティスはそのお気に入りのレシピ本を暗記するほど何度も読み込んでいた。
ページを捲っていく。
ムルシア、サンドル、ルドガンド三国の料理の作り方が並んでいる。
『朝食の質でその日一日の質が決まる』
ユースティスが育った孤児院の院長の口癖だ。
彼はずっとその言葉を信じて、行動してきた。孤児院を出て傭兵になった後も、しっかりと朝食は摂るようにしていた。
もともと、料理をすることも、食べることも好きだった彼だ。
こうして毎日誰かのために三食作る事は、歓びだった。
アンジュは食べることが大好きだ。ユースティスの料理を食べて、嬉しそうに微笑んでくれる。ココもそうだ。ユースティスの料理を喜び、素直に感動を口にしてくれる。
そんな彼女たちのために良い朝食を作りたい。
ユースティスは熱心に料理本をめくり、あるページで手を止めた。
「今日はこれにするか」
作ったことのない料理だが、以前旅の途中で泊まった宿屋の食堂で食べたことがある。
上質な卵とパンとベーコンを使った料理。
ボウルに落とした卵黄へ、レモン汁と塩を加えて手早く混ぜる。
そこへ溶かしバターを少しずつ落としていくと、淡い黄金色の卵黄ソースが、なめらかに艶を帯びた。
ムルシア料理で覚えた、朝食向きの基本のソースだ。
そして、買い置きの白パンを半分に切り分け、トレーに乗せていく。焼く前の準備だ。
並行してスープ作りだ。氷室にまとめておいた野菜の皮、鶏ガラを茹でて、灰汁をすくってスープストックを仕込む。丁寧に濾して澄んだスープを小鍋に移し、塩と胡椒で味を整える。
氷室に保存してあったローストチキンのささみをサイコロ状にカットし、スープに入れていく。
これでスープの準備は完了だ。
新鮮な葉物野菜のサラダを用意し、庭のハーブを摘んできて刻んで振りかける。ドレッシングはひまわりオイルと酢、塩コショウ、乾燥ハーブミックスでさっと作った。これは各人にかけてもらえるよう小さなポットに入れておく。
卵を茹でる鍋に水を沸かし、ココを起こしに行く。
そろそろ幼稚園に行く準備をさせないといけない。
「ココ、おはよう」
「パパ……おはよう」
起こされたココはしばらくベッドの上でぼんやり。
兎のぬいぐるみを抱いて掛け布団の上でゴロゴロして目を覚ますのがいつもの朝だ。ココがベッドの上を転げている間に、今日彼女が着る服をタンスから出して、ベッドの上に並べていく。
「一人で着替えられるか?」
「んー……できるぅ」
「ココ、この後はどうするんだ?」
「きがえて、かおあらう。それからアンジュをよびにいくー」
「そうだ。出来るな。何かあったら呼ぶんだぞ。台所にいる」
ココは最近になって一人で朝の準備ができるようになった。
着替えや洗面が、自分で出来るようになったのだ。
子どもの成長は早い。なにもかも手取り足取りしていた頃が懐かしく思うが――いつまでも世話を焼き続けるわけにはいかない。自立した女性に育って欲しい。それがユースティスの願いだ。
台所に戻ると、料理の続きを再開する。
ダイニングにサラダとドレッシングを運び、テーブルに並べる。牛乳、オレンジジュースのポットとコップも運んだ。
カトラリーを並べ、テーブルセッティングは完了。
料理の仕上げに入る。
上の階からアンジュの笑い声が聞こえてきた。ココが起こしに行ったのだろう。二人とも、じきに降りてくるだろう。
フライパンの上でバターを溶かし、スライスしたベーコンとパンの断面を焼いていく。
並行してポーチドエッグ作りだ。煮立った湯に酢を入れて、卵を割り入れていく。スプーンで卵をまとめていく――。
焼いたパンの間にカリッと焼けたベーコンを乗せて、ポーチドエッグを重ねる。そして卵黄ソースをかけて、上半分のパンを脇に添える。そしてサラダを盛り付ければ、エッグ・ベネディクトが完成した。
「おはよう。ユースティス」
雲雀館の女主人、アンジュ・バーネットがキッチンに現れた。
白いブラウス、胸元の赤いボウタイ。青いスカート。いつものシンプルな格好だ。
「おはよう、アンジュ。席につけ。朝食の準備が整った」
「今日の朝ごはんは何?」
「エッグ・ベネディクトとチキンのスープだ」
「ええ!?エッグ・ベネディクト?私大好きよ!ああ、寝坊しなくて良かった!出来立てが食べたいものね――なにか、食卓に運ぶものはある?あ、じゃあスープ、お皿に盛って、持っていくわ」
アンジュはこういう時、いつも自然に手を貸してくれる。
本来なら使用人に任せきりでもおかしくない身分だというのに、そういう気取りが彼女にはまるでない。
アンジュがよそったスープをテーブルに運んでいく。
ユースティスもエッグ・ベネディクトの乗った皿を食卓に並べた。
「さあ。座って、一緒に食べましょう」
アンジュが同席をすすめ、ユースティスは軽く会釈してテーブルについた。ココもいつもの椅子に座る。一応、勧められるまでは席につかないようしているが、アンジュはそれが焦れったいようだった。
「いつになったら自分から席に着くの?」
「俺は家政夫だ。本来は館の主人と同席はしないものだろう」
「まあそうだけど、いいんじゃない?気ままな三人暮らしなんだもの。気さくにやっていきましょうよ」
アンジュはそういい、まっさらなナプキンを膝に広げた。
「さて。いただきます!」
嬉しそうにフォークとナイフを手に取るアンジュ。エッグ・ベネディクトにナイフを入れ、ポーチドエッグからあふれる卵黄をうっとりと見つめた。
「ああ、エッグ・ベネディクト……久々だわ。この館に来てから初めてね」
そう言って大きな口で切り分けた料理を一口。
「んっ美味しい!酸味のある卵黄ソースが……ッ幸せの味がする!」
アンジュは頬を抑え、とろけそうな顔で言った。
素直に感動を伝えられ、ユースティスは自分の口元がほころぶのを感じていた。
ココを見ると、彼女も上手に料理を切り分け、もぐもぐと咀嚼していた。
「おいしい……パパ、これおいしいね!」
ココがエッグ・ベネディクトを食べるのはこれが初めてかもしれない。
「じょうずにきれないねー」
「あら、少し食べるのが難しいかしらね。卵が崩れるものね。ココ、こういう時はパンをちぎってソースと卵をつけて食べるのよ、見てて。こうよ。こう」
アンジュはちぎったパンで皿にこぼれた卵黄ソースとポーチドエッグをすくい、食べてみせた。
「パンでやるのー?」
「そう、ソースたっぷりのパン、美味しいわね」
「んっ。おいひい!」
「ココ、口にものを入れて喋るな。飲み込んでからだ」
たっぷりの卵を使ったエッグ・ベネディクトは、作り手のユースティスが味わっても合格点の味だった。
卵黄ソースに隠し味として酸味のある香草入ソースを混ぜたのが良かったのだろうか。深い味わいのソースが他の素材をまとめ上げ、濃厚でリッチな味わいが楽しめる朝食になった。口の中の脂をさっぱりしたサラダとスープが洗い流してくれるのも良かった。
バターと卵の脂質が少々気になるものの、活発に活動するココと、錬金術で大量のエネルギーを消費する女主人には、問題ない栄養量だろう。
料理が終わると、アンジュは食器を下げるのを手伝ってから、ココを幼稚園へ送るのに付いていくと申し出てきた。
少しの食休みの後、三人は連れ立って雲雀館を出た。
そして門の外の道をスズの村の中央広場に向かって下っていく。
「とんぼ!とんぼとんでる!」
ココが道の脇の杭にとまった虫に気を取られ、足を止めた。秋の虫達が、風の中をゆらゆらと飛んでいく。
「すっかり秋ね。肌寒くなってきたわ――あっという間の夏だった」
ぽつり、とアンジュが言った。
「ああ――あっという間だった」
ユースティスは頷いた。
色々な事があった。
去年の晩秋、ココを連れてこの村へ流れ着いた時には、こんな日々が待っているとは思わなかった。
王都から来た銀髪の令嬢は、最初こそひどく疲れた顔をしていたが、すぐにわかった。彼女は、これまで出会ってきたどの貴族とも違っていた。
偉ぶらず、飾らず、ユースティスとココにも、当たり前のように温かい。
そのうえ錬金術で暮らしを整え、食卓では彼の料理を心から喜んでくれる。
気づけばユースティスにとって雲雀館は、雇われ先ではなく、守りたい場所になっていた。
口に出して伝えることはできなかった。
けれどその代わりに、ユースティスは行動で示してきた。
その想いは、きっとアンジュにも届いている。
彼女が雲雀館に来て、もう半年になる。
あっという間に過ぎていった日々だった。
けれどそのどれもが、ユースティスには愛おしかった。
秋の風がスズ村を吹き抜けていく。
ココを幼稚園まで送ると、アンジュとユースティスはゆっくり雲雀館へと戻る道を並んで歩きはじめた。
ユースティスは少し照れたように口元を緩め、優しくアンジュに言った。
「少し、遠回りしていかないか」
「いいわよ。なにか買うものでもあるの?」
「いや……そういうわけではない」
いったん言葉を切ってから、ユースティスは小さく息をついた。
「少し、お前と並んで歩きたい。……ダメか?」
女主人は、紅玉の瞳を大きく見開いて驚いた様子を見せたが、すぐに目線を逸らして頷いた。
「いいわよ――。歩きましょう……」
無言で、並んで歩いた。
村の広場を南に抜けて、南門の向こうに収穫を終えた桃の木が並ぶ景色を眺め、民家の並ぶ通りを抜ける。
長い遠回りの末に、二人は雲雀館へ戻った。
二人は目も合わさず、言葉も交わさず、静かに並んで歩いた。
ひんやりした風が何度も二人の髪をなびかせた。
それでも足取りは、どちらもゆるやかだった。
(続く)
ユースティスを主役とした番外編です。お楽しみいただけましたでしょうか。
お次の番外編は、この日のアンジュの午後です。
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