35話 その後
雲雀館に戻った頃には、日はとっぷりと暮れていた。
玄関の扉を閉めた瞬間、私はようやく、息を吸い込めた気がした。
礼拝堂からここまでの道中ずっと、心臓は鳴りっぱなしだったのだ。
ココを取り戻せた。こうしてちゃんと雲雀館へ帰ってきた。頭ではわかっていたのに、屋敷の中へ足を踏み入れて初めて、その事実が少しだけ現実味を持った。
ユースティスは黙ったまま、ココを抱いて使用人部屋に入っていく。
私はその後ろをついていった。
ココはもう泣いてはいなかった。けれど、ユースティスの肩に顔を押しつけたまま、片時も離れようとしない。
礼拝堂を出てからずっとそうだった。
使用人部屋に入ると、ユースティスはベッドの縁に腰を下ろし、ようやくそっとココを下ろした。
けれど、ココはすぐに彼の服をきゅっと掴む。
「……パパ」
「いる。ここにいるぞ」
その声は驚くほどやわらかかった。
あんなに冷たい怒りをまとっていた男と、同じ人とは思えないくらいに。
私は洗面器にぬるま湯を汲んで持ってきて、濡らした布をココの手にそっと当てた。
少し汗ばんでいる。緊張していたんだろう。小さな手が、まだかすかに冷たい。
「ココ、お顔も拭こうね」
「……うん」
いつもよりずっとおとなしい返事だった。
私は胸の奥がじくりと痛むのを感じながら、額や頬をやさしく拭ってやる。
「怖かった?」
そっと尋ねると、ココは少しだけ唇を震わせた。
「……こわかった。ママ、パパがくるよって。アンジュとはお別れだって。いやだよ。アンジュとお別れしたくない」
私は一瞬、言葉を失った。
ずっと一緒だった父親と引き離されて、一緒に暮らしていた私とはもうお別れだと言われる。
それがどれだけ怖いかなんて、大人の私にだって想像できる。まして、ココはまだ幼いのだ。
「そっか……怖かったよね」
私はベッドの縁に腰を下ろし、ココをそっと抱き寄せた。
するとココは、躊躇なく私の胸に顔を埋めてくる。
「アンジュ……」
「うん」
「パパ、くるっておもってた」
その一言に、思わず目の奥が熱くなった。
「……うん。来たでしょう?」
「うん……アンジュもきた」
ユースティスが小さく息を吐く気配がした。
見ると、彼はベッドの傍らで膝に肘をつき、指先を組んだまま俯いている。
さっきまで一瞬たりとも隙を見せなかったのに、今はその肩から、ようやく少し力が抜けていた。
「ココ」
彼が低く呼ぶ。
「もう大丈夫だ。お前を勝手に連れて行かせたりしない」
「うん……」
「約束する」
ココはこくりと頷いて、ようやく少しだけ表情をゆるめた。
私は胸を撫で下ろしながら、ベッド脇の小卓に置いてあった水差しからコップへ水を注いだ。
ココに渡すと、小さな手で大事そうに持って、こくこくと飲む。
「えらい」
「……えらい?」
「ええ。ちゃんと待っててくれたもの」
ココは少し考えるような顔をしたあと、ようやくほんの小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、緊張が少しだけほどける。
「おなか、すいてる?」
私が聞くと、ココはまた少し考えてから頷いた。
「ちょっとだけ」
「じゃあ、軽いスープを温めてくるわ」
「俺がやる」
すぐにユースティスが言った。
でも、私は首を振る。
「いい。あなたはココのそばにいて」
ユースティスは何か言いたげだったけれど、結局何も言わなかった。
ただ、ありがとうとも違う、どうしようもなく疲れたような目で私を見る。
その視線を受け止めるだけで、胸がきゅっと苦しくなる。
この人、どれだけ怖かったんだろう。どれだけ自分を責めているんだろう。
でも今は、責めるより先に、少しずつ落ち着かせていくしかない。
◇◇◇◇◇
台所で薄い野菜のスープを温め、柔らかくちぎった白パンを添えて部屋へ戻ると、ココはベッドの上で眠そうにしていた。
でもユースティスの袖はしっかり掴んだままだ。
「ほら、少しだけ食べましょう」
私は盆を置き、スプーンでスープをすくって口元へ運ぶ。
ココは素直に飲んだ。温かなスープが喉を通っていくたび、ようやくこの子が家に戻ってきたのだという実感が、じわじわと満ちてくる。
「おいしい……」
「よかった」
「アンジュがつくったの?」
「温めただけよ」
「じゃあ、パパがつくったの?」
私は吹き出しそうになる。
こんな時でも、ココはちゃんとわかってる。
「そうね。たぶん、昨日の残りをね」
ココは少しだけ得意そうに頷くと、パンも一口かじった。
それだけ食べると、さすがに疲れが勝ったらしく、瞼がとろんと重くなっていく。
「ねむい……」
「眠っていいわよ」
「……ふたりとも、いる?」
「いる」
ユースティスが即答する。
「いるわ」
私も続けると、ココはようやく安心したように目を閉じた。
少しして、寝息が聞こえ始める。
部屋の中に静けさが落ちた。
窓の外では、夜の虫の声がかすかに響いている。
私はベッドの縁からそっと立ち上がった。
けれどユースティスは動かない。椅子に座ったまま、眠ったココを見つめ続けていた。
「……何か飲まない?」
小声で言うと、彼はしばらくしてからようやく頷いた。
私たちは足音を忍ばせて部屋を出た。
◇◇◇◇◇
ダイニングの魔法灯は、いつもより少しだけ明るく感じた。
私は湯を沸かし、東方の緑茶を二人分淹れる。
香ばしい香りが立ちのぼると、張りつめていた神経がようやく少しずつほどけていく気がした。
カップを差し出すと、ユースティスは受け取ったまましばらく口をつけなかった。
「……悪かった」
ぽつりと落ちた声に、私は顔を上げる。
「またそれ?」
「またでも何でもない。俺が迷ったからだ。最初からあいつらを村に入れなければ、宿に泊まらせなければ、ココは――」
「ユースティス」
私は少し強めに遮った。
「それ以上は駄目」
彼が目を上げる。
驚いたようでもあり、叱られたようでもある顔だった。
「あなた、今日だけで何回自分を責めるの」
「だが」
「だが、じゃない」
私は湯気の立つカップを両手で包んだ。
「あなたは迷った。でも、見捨てたわけじゃない。ちゃんと追いかけたし、ちゃんと取り戻した。ココだって、あなたが来てくれるって信じてた」
ユースティスは黙っている。
私は少し息を吸った。
「それに……私もいた」
「アンジュ」
「あなた一人で取り戻したんじゃないわ。私も一緒に行った。一緒に取り返した。だから、全部一人で背負わないで」
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くくらい、胸の奥が真っ直ぐだった。
怖かった。今もまだ、少し震えが残ってる。
でも、それでも私はあの子を取り戻しに行った。ユースティスと一緒に。
彼はしばらく何も言わなかった。
やがて、ようやくカップを口元へ運ぶ。緑茶の香りがふっと広がる。
「……お前がいてくれてよかった」
低い声。
ぽつりと落ちただけなのに、心臓がどくんと鳴った。
「何度も、そう思った」
私は返事ができなかった。
できるわけがない。そんな声でそんなことを言われたら、胸の奥が全部熱くなってしまう。
だから代わりに、カップを持つ手に少しだけ力を込めた。
「……私もよ」
ようやくそれだけ言うと、ユースティスの目がわずかに揺れる。
「あなたがいたから、怖くても行けたの」
「アンジュ……」
「だから、おあいこ」
無理やり笑ってみせると、ユースティスはようやく、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
口元に浮かんだのは、疲れ切った夜にしか見せない、小さな笑みだった。
しばらく二人で黙ってお茶を飲んだ。
緑茶の香ばしさが、夜の静けさにゆっくり溶けていく。
「……北方の件は、本当にまずいんだろうな」
やがて、ユースティスが言った。
「たぶん、そうなんでしょうね」
「だが、あいつらとはもう無理だ」
「ええ」
私は頷いた。
そこに迷いはない。ココを利用した時点で、もう何かが決定的に壊れてしまったのだ。
でも同時に、あのリゼットの言葉も頭に残っていた。
被害は本当に出ている。放っておけば広がる、と。
「……戻る気はない」
ユースティスは、はっきり言った。
「でも、見捨てるのも違う気がしてる」
私はその横顔を見つめる。
苦しいのだろうと思う。昔の仲間たちへの怒りと、今なお捨てきれない責任感の間で。
けれど、彼がそう言ったことに、少しだけ安心もした。
この人はやっぱり優しい。そして、その優しさを私は嫌いじゃない。
「じゃあ、別のやり方を考えましょう」
ユースティスがこちらを見る。
「別のやり方?」
「勇者パーティーに戻るんじゃなくて、あなたと私で出来ることを」
私は少し身を乗り出した。
「竜級魔物への補助アイテムは、役に立つはず。あれで討伐できないなら、もっと別のアイテムを錬金してあの人達に渡せばいいわ」
「……お前は、本当に懲りないな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
そう返すと、ユースティスはふっと息を漏らした。笑ったのだ。ほんの少しだけれど、たしかに。
その時、小さな足音がした。
私たちは同時に顔を上げる。
廊下に、眠たそうな顔をしたココが立っていた。片手には、いつも抱いて寝ている布兎を抱えている。
「……アンジュ、パパ」
私は思わず立ち上がった。
「どうしたの、ココ」
「……いっしょにいて」
その一言で、胸がきゅっとなる。
ユースティスもすぐに椅子を引いた。
「もちろんだ」
ココはほっとしたように目を細めて、それからとことこと階段を下りてきた。
私はその小さな体を抱き上げる。あたたかい。ちゃんとここにいる。
ユースティスがそばへ来て、ココの頭を撫でた。
「今日は三人で、居間で寝ましょうか」
私がそう言うと、ココはうとうとしたまま嬉しそうに頷いた。
ユースティスは少しだけ目を丸くして、それから静かに頷く。
「ああ。それがいい」
こうして私たちは、居間へ毛布を運び込むことになった。
晩夏の夜はまだ少し蒸すけれど、寄り添っていると不思議とちょうどよかった。
ココを真ん中にして横になり、その小さな寝息を聞きながら、私は薄暗い天井を見上げる。
今日、私たちは大切なものを取り戻した。
そしてたぶん、もう後戻りもできなくなった。
新勇者パーティーとの縁は切れた。
でも、北方の脅威はまだ消えていない。どうなるか見守らないといけない。
明日から、また考えなくてはいけないことがたくさんある。
それでも今は、ココの温かさと、すぐ傍で静かに呼吸するユースティスの気配があるだけで十分だった。
「……ユースティス」
小さく呼ぶと、闇の中で低い声が返る。
「なんだ」
「おやすみなさい」
少し間があって、それから。
「……ああ。おやすみ、アンジュ」
その声を聞いた瞬間、ようやく私は目を閉じることができた。
(続く)
次回で一部が最終話になります。
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