34話 異国の勇者達 その6
礼拝堂の中は、息が詰まりそうなほど静かだった。
私の手の中で、小瓶の黒青色の液体が鈍く光っている。
再生阻害の刃油。腐蝕塩。傷の閉じを遅らせる煙玉。
昨夜ほとんど眠らずに作ったそれらは、本来なら竜級魔物に使うためのものだった。けれど今は、そんなことどうでもよかった。ココを取り戻せるなら、全部くれてやってもいい。
エイドリアナは動かない。
長い金髪を揺らしもしないまま、ただこちらを見つめていた。
その青い瞳はまずユースティスに向けられ、次に私へ滑った。
美しい顔立ちのままなのに、その視線にははっきりとした棘があった。
「……そこまでするのね」
低い声。
私が答える前に、エイドリアナはゆっくりと唇を歪めた。
「なんのため?」
その言葉が、まっすぐ私ではなくユースティスへ向けられているのがわかった。
まるで確かめるみたいに。
この女はどこまで本気なのか。あなたはどこまで受け入れているのか。そう問い詰めるみたいに。
私は布包みを握り直した。
「ココのためよ」
「本当に?」
エイドリアナは、そこでようやく一歩動いた。
ココの前に立つでもなく、かばうでもなく、ただ私を見下ろす。
「そうやって、まるで母親みたいな顔をして」
胸の奥で、何かが冷たく硬くなるのを感じた。
ココが不安そうに私を見ている。
その視線だけで十分だった。私は目を逸らさない。
「母親みたいな顔、ですって?」
「ええ」
エイドリアナの声は静かだった。
静かなぶん、嫌悪がよく見えた。
「ほんの少し一緒に暮らしただけで、ずいぶん馴染んだものね。あの子も、あなたを頼って。ユースティスも……」
最後の言葉は、少しだけ掠れていた。
そこに滲んだ感情は、怒りだけじゃない。嫉妬と、後悔と、諦めきれない執着。全部が濁って混ざっていた。
私はようやく、はっきりと理解する。
この人は、ココを見ているようで見ていない。
見ているのは、ユースティスの隣にいるはずだった自分自身だ。
「あなたが見てるのは、ココじゃない」
気づけば、そう口にしていた。
エイドリアナの目がすっと細くなる。
「……何ですって?」
「ココを連れてきたのだって、あの子のためじゃないでしょう。ユースティスを動かすため。自分がまだ繋がってるって、確かめたかっただけ」
「黙りなさい」
ぴしゃりと落ちた声。
礼拝堂の空気がびりっと震えた気がした。
シドが眉をひそめ、クリストフが険しい顔で口を開きかける。
でも私は止まらなかった。
「あなたは母親だから会う権利があるって言った。だったら、どうしてココが怯えてるのを見ないの? どうして“帰りたい”って顔をしてるのに、その手を放さないの?」
エイドリアナの頬がわずかに引きつる。
その表情を見て、私は確信した。図星なのだ。
「母親なら、怖がる子どもを攫ったりしないわ」
「違う!」
今度ははっきり、エイドリアナの声が揺れた。
「私は傷つけるつもりなんてなかった!少し連れてくるだけよ。少しだけ、あの人が来るまで――」
「来るまで?それで何をするつもりだったの?」
「……っ」
「ユースティスが戻れば満足?ココが怖がっても、泣いても、それであなたは平気なの?」
言いながら、私自身の声も震えていた。
怒りなのか、恐怖なのか、それともココを目の前にしているのにすぐ抱きしめられないもどかしさなのか、自分でもわからない。
ただひとつだけはっきりしている。
あの子を、今すぐここから連れ出したい。
その時だった。
「もうやめろ、エイドリアナ」
シドの声が、これまでよりずっと低く響いた。
彼は一歩前に出て、真っ直ぐエイドリアナを見る。
さっきまでの焦りや苛立ちじゃない。もっと冷えた、怒りに近い顔だった。
「これ以上は駄目だ。俺たちはユースティスに助力を求めに来たのであって、子どもを人質にするために来たんじゃない」
「シド……」
「俺が未熟なのは認める。今の俺たちだけじゃ勝てないのもわかってる。でも、だからってこれは違う」
クリストフも法衣の裾を揺らして前に出る。
「ココ殿をお返ししてください。これは、明らかに誤った行いです」
リゼットは腕を組んだまま、壁から背を離した。
「最初から言ってるだろ。こういうやり方は禍根しか残さない」
その言葉に、エイドリアナの目が揺れる。
ようやく、四方から責められていることを理解したようだった。
けれどそれでも、彼女はすぐにはココから離れない。
青い瞳が、またユースティスへ向く。
「あなたは……」
その声は、初めて少し弱かった。
「あなたは、本当にこの子のためだけに来たの?」
ユースティスは答えない。
いや、答えなんてとっくに出ているのだ。彼の視線は一度もエイドリアナに留まっていなかった。ずっとココだけを見ていた。
「当たり前だ」
低く、揺るがない声。
「ココを返せ」
「……私じゃなくて、この子だけ?」
その問いに、礼拝堂の空気がまた変わる。
ああ、この人は本当に、そこを聞くんだ。
私は思わず息を呑んだ。
エイドリアナはココを攫ってまで、まだそんなことを確かめたいのか。
自分が選ばれるかどうか。自分に未練があるかどうか。そんなことを。
ユースティスの表情は一切変わらない。
「お前が何を望んでいるのかは知らん。だが、ココを利用した時点で、お前に話すことは何もない」
エイドリアナの顔から、最後の色が抜けた。
その言葉はたぶん、剣で斬るよりよほど深く彼女を傷つけた。
けれど、私は同情できなかった。
しばらくして、エイドリアナはようやく、ココの肩から手を離した。
ココはびくっと身をすくめ、それからためらいながらこちらを見る。
「アンジュ……」
細い声。
「おいで、ココ」
私は手を伸ばした。
その瞬間、ココは毛布を蹴るようにして走り出した。
小さな体が私の胸に飛び込んでくる。私は夢中で抱きしめた。体温がある。軽い。少し震えている。
「よかった……!」
「アンジュ……っ、こわかった……」
「うん、うん、大丈夫。もう大丈夫だから」
私はココの頭を何度も撫でた。
後ろからユースティスが近づいてくる気配がして、次の瞬間、私ごとココを包み込むように大きな手が伸びてきた。
「ココ」
「パパ……!」
ココは泣き声を上げて、今度はユースティスにしがみつく。
その顔を見た瞬間、私は胸がいっぱいになってしまった。
よかった。本当によかった。
ユースティスはココを片腕で抱き上げると、もう一方の腕を私の背に添えた。ほんの一瞬だけ、三人の距離がなくなる。
それだけで、ああ、取り戻せたんだと実感した。
けれど、安堵は長く続かなかった。
ユースティスが顔を上げる。
そこにあるのは、私が今まで見たことのないほど冷えきった怒りだった。
「……もう一度だけ言う」
礼拝堂の中に、その声が落ちる。
「俺は戻らない」
シドが何か言おうと口を開く。
でもユースティスは、それを許さなかった。
「世界がどうとか、被害がどうとか、そんな話をする資格は、お前たちにはない」
「ユースティス――」
「ココを使った」
一言一言が、石みたいに重かった。
「子どもを攫って、俺を動かそうとした。その時点で終わりだ。二度と俺の前で、仲間を名乗るな」
シドの顔が強張る。
若い勇者の目に、悔しさと、はっきりした後悔が浮かぶ。
「……俺は」
「言い訳は聞かん」
クリストフも俯いたまま、何も言えない。
リゼットだけが、小さく舌打ちして目を逸らした。彼女だけは、最初からこの結果が見えていたのかもしれない。
そしてエイドリアナ。
彼女は立ち尽くしたまま、ただユースティスを見ていた。
さっきまでの高慢さはもうない。代わりにあるのは、ひどく深い喪失の顔だった。
「……そんな顔で、私を見るのね」
掠れた声。
ユースティスは答えない。
「私だって、苦しかったのよ」
「だからココを使ったのか」
「違う、私は……」
「お前が何を感じていたかなんて、もうどうでもいい」
その言葉に、エイドリアナが完全に黙り込む。
青い目が震え、長い睫毛が影を落とした。
でも私は、その顔を見てもなお思った。
この人はまだ、自分が失ったものを惜しんでいるだけだ。ココの恐怖も、ユースティスの怒りも、本当の意味では見ていない。
ユースティスはココを抱いたまま、私の方へ少し身を寄せた。
「行くぞ、アンジュ」
「ええ」
私は頷く。
もうここに用はない。
けれど、礼拝堂を出る直前、リゼットが低い声で言った。
「……一つだけ」
私たちは足を止めた。
リゼットは壁にもたれていた姿勢を正し、ユースティスを見る。
「北方の件は、本当にまずい。あたしたちを信用しなくていい。でも、あの魔物は放っておくと広がる」
ユースティスは振り向かない。
「知るか」
「気にする性質だろ、あんたは」
その返しは静かだった。
責めるでもなく、媚びるでもなく、ただ現実だけを置くみたいに。
ユースティスは答えなかった。
その沈黙を、リゼットはそれ以上追わなかった。
私たちは礼拝堂をあとにした。
◇◇◇◇◇
外に出ると、晩夏の風がひどくやさしく感じられた。
ついさっきまで、あの礼拝堂の中にいたなんて信じられないくらいだ。
ココはユースティスの肩に顔を埋めたまま、まだ少ししゃくりあげている。私はその背をさすりながら、何度も大丈夫よ、と囁いた。
「アンジュ」
「なに?」
「……すまなかった」
ユースティスが言う。
「俺が迷ったせいで、ココを危険に晒した」
私はすぐに首を振った。
「違う。悪いのは攫った人たちでしょう」
「それでも」
「それでも、あなたはちゃんと取り戻した」
ユースティスは少し黙り込んだ。
それから、抱いているココの髪に唇を寄せるようにして、低く言う。
「もう二度と、あんな目には遭わせない」
私はその横顔を見上げて、胸が締めつけられるのを感じた。
ああ、この人は本当に、ここにあるものを守ろうとしている。
勇者としてではなく、父親として。
そしてきっと――今はまだ言葉にできないけれど、この暮らしそのものを。
礼拝堂の中に置いてきたものは大きい。
新勇者パーティーとの縁は、たぶんもう戻らない。
けれど、私たちはココを取り戻した。今はそれでいい。今はそれだけで、十分だった。
私はそっと、ユースティスの空いた手に自分の手を重ねた。
「帰りましょう。雲雀館に」
ユースティスは一瞬だけ目を見開き、それから静かに頷いた。
「ああ。帰ろう」
その言葉が、胸の奥に深く沈んでいった。
(続く)
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