32話 異国の勇者達 その4
私たちは幼稚園の預かり所を飛び出した。
村の南口までは、早足でもそれなりに距離がある。
けれど今は、ゆっくり歩くなんて考えられなかった。私はスカートの裾をつまみ上げ、息を切らしながらユースティスの後を追う。
昼の村道は明るい。
なのに、目に入る景色のすべてがひどくよそよそしく、遠く感じられた。
「ユースティス……っ」
呼びかけても、彼は振り向かない。
前だけを見て、長い脚でどんどん先へ進んでいく。肩越しに見える横顔は強張っていて、今の彼がどれだけ怒っているのか、どれだけ焦っているのかが痛いほどわかった。
村の広場を抜け、畑の脇道を横切り、南門へ続く道に入る。
途中、顔見知りの村人たちが何事かとこちらを見たけれど、説明している暇なんてない。
ようやく南口の見張り小屋が見えてきた時、ユースティスが先に駆け寄った。
そこにいたのは、荷車の出入りを見ている村の若者二人だった。彼らはただならぬ様子の私たちを見て目を見開く。
「さっき、黒い馬車が出ただろう」
ユースティスの声は低く、押し殺されているぶん余計に鋭かった。
若者の一人が慌てて頷く。
「あ、ああ……出ていったよ。ついさっきだ。若い剣士と、法衣の男と、背の高い女が二人……あんたの知り合いか?小さい子供も乗ってたが――」
その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
「ココ……」
私が掠れた声を漏らすと、もう一人の若者が困ったように顔をしかめた。
「子供はフードを被っていて、誰かわからなかった。それに、抱かれてるのに、やけに静かで……。眠ってたのかと思ったけど」
私はぞっとした。
眠っていた?
違う、たぶんエイドリアナが眠りの魔法か、何か穏やかな幻惑でも使ったんだ。ココが暴れたり泣いたりしないように。
ユースティスの拳が、見えるほど強く握りしめられる。
「どっちへ行った」
「街道のほうだ。南の街道に出て、北東に向かうと言っていた」
北東。
新勇者パーティーが話していた、ムルシアの被害地域の方角だ。
ユースティスは短く礼を言うと、すぐに踵を返した。
私はその後を追いながら、必死に頭を回す。
今から追えば間に合うかもしれない。
でも、ただ走って追いつける距離じゃない。馬車に乗っていたのならなおさらだ。
雲雀館に戻って準備が必要だ。
「ユースティス!」
私が呼ぶと、彼はようやく足を緩めた。振り返ったその目は、冷たい怒りで冴えきっている。
「追う」
「ええ、でもその前に準備しないと」
「準備?」
「相手は勇者パーティーよ。ただ追いかけるだけじゃ駄目。武器も、薬も、追跡用の道具もいるわ」
一気に言うと、ユースティスは一瞬だけ黙った。
たぶん今すぐ一人で飛び出したい気持ちを、無理やり押し留めているんだと思う。
「……わかった」
それだけ言って、彼は再び歩き出した。
今度は村へ戻るために。
◇◇◇◇◇
雲雀館へ戻る道のりは、行きよりもずっと長く感じられた。
庭先の百日紅が、さっきと同じように風に揺れている。
けれど、もうそれをきれいだとは思えなかった。
屋敷に入るなり、ユースティスは鎧や剣を置いた自室へ向かう。
私はまっすぐ地下工房へ駆け下りた。
心臓が早鐘みたいに鳴っている。
落ち着いて、落ち着いて。こんな時こそ手を止めちゃ駄目。
棚から必要なものを引っ張り出す。
蒸留水。蛍光石の粉。月石の欠片。乾燥させた追風草。あとは、ココがいつも身につけているものに残る匂いを辿るための香媒。
私は作業台の上に、今朝ココが使っていた小さな髪飾りを置いた。
幼稚園に行く前、私が結ってあげた髪につけていた花飾りと同じ揃いのものだ。予備をポケットに入れたままにしていたんだった。
「お願い……」
誰にともなく呟きながら、錬金釜に材料を放り込む。
ぐるぐると錬金棒を回し、魔力を流し込むと、釜の縁が淡く光り始めた。
作るのは二つ。
一つは<追跡香>。
ココの持ち物に残る匂いと魔力の痕跡を辿るための薄青い粉だ。風に乗せれば、痕跡が強い方向へ細く流れていく。
もう一つは眠り除けの気付け薬。
もしココが眠りの魔法をかけられているなら、目覚めを助ける必要がある。
釜の中の光が収まり、私は急いで中身を小瓶へ移した。
青い粉。透明な液体。よし、最低限はできた。
その時、上の階から足音が降りてきた。
ユースティスだ。
工房の扉が開く。
振り向くと、彼はすでに旅支度を整えていた。
軽装鎧。長剣。背には小ぶりの荷袋。
その顔には、迷いがひとつもない。いや、迷いはあったはずだ。でも今はもう、ココを取り戻すことだけに心は絞られていた。
「用意はできたか」
「ええ。これを持っていくわ」
私は小瓶と紙包みを掲げてみせた。
「青い粉は<追跡香>。ココの持ち物の匂いと、攫った相手の魔力の痕を拾えるはず。こっちは眠り除けの薬よ」
ユースティスはそれを受け取ろうとしかけて、ふと止まった。
「……アンジュ。お前はここに残れ」
予想していた言葉だった。
でも、だからといって引くつもりはない。
「嫌よ」
「危険だ」
「わかってる。でも私も行く。ココは私にとっても大事な子だもの」
ユースティスの目がわずかに揺れた。
私はそこで言葉を継ぐ。
「それに、<追跡香>は私が使った方がいいわ。途中で別の薬が必要になるかもしれない。あなた一人で行って、もしココが眠ったままだったら?もし相手が結界を張っていたら?」
「……」
「私は邪魔にならない。ちゃんと走るし、ちゃんとついていく。だから、置いていかないで」
最後の一言だけ、少し声が震えた。
自分でもわかるくらい、必死だった。
ユースティスはしばらく私を見つめていた。
やがて深く息を吐き、短く頷く。
「……わかった。だが、俺のそばを離れるな」
「ええ」
胸の奥が少しだけほどける。
けれど安心している暇なんてない。
私は急いで工房の棚からもう一つ、小さな布包みを掴んだ。中には昨夜作ったアイテムが入っている。念のため。使わずに済めばいい。でも、何があるかわからない。
「アンジュ、それは?」
「昨夜作ったものよ。竜級魔物用のつもりだったけど、もしかしたら役に立つかもしれないから」
ユースティスは一瞬だけ目を見開いた。
それから、ほんの少しだけ苦いような、やさしいような表情になる。
「……お前、本当に……」
「なによ」
「いや。ありがとう」
その一言に、胸がきゅっとなる。
でも今はそれに浸っている場合じゃない。
私たちは連れ立って一階へ上がった。
ユースティスは水袋と乾パンを荷袋へ押し込み、私は外套を羽織ってブーツを履く。
玄関の扉を開けると、晩夏の風が頬を打った。
百日紅の花が、赤い花びらをまた一枚落とす。
あの子は今、どんな顔をしているだろう。
怖がっていないだろうか。泣いていないだろうか。
私は唇をきつく結び、追跡香の包みを握りしめた。
「行きましょう、ユースティス」
「ああ。ココを取り戻す」
その声は低く、揺るがなかった。
こうして私たちは、攫われたココを追って、雲雀館を飛び出した。
(続く)
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