24話 井戸の異変 その2
泉の周囲の泥はぐちゃぐちゃ、咲いていた白い花も無惨に踏み荒らされている。
その白い花は、清水花――。
清らかな泉のぬかるみに咲く可憐な花だ。清水花は水源の泥や砂を浄化すると言われている。鼻が踏み荒らされたことで、浄化作用が作用しなくなったのだろう。
それだけじゃない。
魔物が水辺の泥を踏み荒らし、水を汚しているようだ。
「アンジュ。気をつけろ……左手だ。近づいてくる」
パキ。パキパキ。がさがさ。
いつの間にか辺りには獣臭が漂い、ナニモノかが低木を不自然に揺らしている。
それはゆっくり姿を現した。
爛々と光る2つの眼を持った獣。
大きな猪に似た姿だけど、下顎から生えた凶悪な牙が巨大だ。
泥喰い猪。
私でも知っている、下等な魔物。
下等とはいえ、凶暴で凶悪な獣だ。武器は尖った大きな牙と、巨大な体躯で繰り出してくる突進。
ブルッブルブルッ!
それは鼻息荒く首を振り、前足で地面を何度も蹴った。
「アンジュ、俺の後ろにいろ。離れるなよ……」
ユースティスの低い声が響く。
私は静かに息を呑んだ。
獣が地面を蹴って突進してきた。
ユースティスが腰を低く剣を構え……彼の剣の切っ先は突進してきた猪の口元をまっすぐ貫き、獣の口から血が溢れた。
衝突の衝撃で彼の足元の土にめりこんだが、彼は踏ん張った。
喉まで貫かれた猪は暴れたけれど、すぐにその生命の火は尽きた。
猪は動かなくなり、目の光が消えていった。
ユースティスは猪から剣を引き抜き、濡れた刃を血と油を布で拭った。
「こいつが水源を荒らしていたらしいな。油断するな。まだ他にいるかも知れない」
「ええ……ありがとう、ユースティス。とりあえず、泉の近くで採取したいものがあるのよね。この泉の泥を浄化するアイテムの材料を……」
私は恐る恐る泉に近づいて、清水花を1本だけ根っこから頂いてかごに入れる。
これが必要なのだ。
あと、数種類必要なものがあるんだけど……あたりを見回す。
ユースティスが油断なく私のそばで剣を構えていてくれる。
がさり。
不意に茂みが揺れた。
そして、すぐに現れた黒い影が私に向かって突進してきた。
「ひあ!」
私は反射で体を縮めた。
「アンジュ!」
ユースティスが剣を振るった。
それはユースティスの剣に薙がれて吹っ飛び……地面に転がった。
血を流すそれは、小さめの泥喰い猪だった。
「さっきの魔物の子供……?」
「だろうな。親が殺されて敵を打ちに出てきたのか。気の毒だが、生かしておいてもまた水源を荒らしてしまうだろう。仕方ない」
ユースティスは冷酷に言った。
「もう気配はないな。アンジュ、こいつらの毛皮や牙は錬金術の材料になるんだろう?」
「ええ……肉は料理になるし、皮や牙は錬金術で薬とかアイテムの材料になるわ」
「いいな。今夜は猪肉料理だ」
それを聞いてユースティスは手際よく2体の獣を捌きはじめた。
切り開かれた獣を見るのは怖くて目をそらす。
そして私は私で鉱砂石を探すことにした。
清らかな泉の底にあると言われている石。
泥で濁った泉に手を浸し、掴んだ石を順番に見ていく。
「あった!鉱砂石……これがあれば浄化石を作れるわ」
喜んだ私だったけど……!
「あっ……」
「アンジュ!」
私は泥に足を取られて滑ってしまった。
体が斜めになって、ゆっくりと地面が近づいてくる。
完全に転んだ……と思ったけど。
ユースティスが素早く私を受け止めてくれた。
彼に力強く抱きとめられて、私の心臓は高鳴った。
「……大丈夫か?」
「ええ……ありがとう。ユースティス。泥まみれになるところだったわ」
「まったく。お前も結構そそっかしいな」
ユースティスはうっすら微笑んだ。
彼の深い翠玉の瞳は美しい。
思わず見とれてしまう……。
「おっと……お前の服を汚してないといいが」
「大丈夫、大丈夫よ。ありがとう」
私は慌てて彼から体を離した。
彼は獣を裁いてる途中だったから、私の服に獣の血を付けていないか気にしてくれたようだけど、幸い汚れはつかなかった。
「後少しで牙と肉、皮を持っていける。少し待ってくれ」
「ええ。私は他の材料がなにかないかこの辺を見ているわ」
「俺が見える範囲でだけだぞ」
「はあい」
私は周囲を見て回り、錬金術の材料になりそうなものをいくつか採取した。
泉についてから1刻程で、魔物退治と採取は終わった。
私たちは日が暮れる前に山を降りることにした。
帰りは下り道。
登るのも疲れるけど、下りも疲れるのよね。明日は絶対筋肉痛だ。
いやいや、ボヤいてる場合じゃない。明日は今日採取した材料で錬金術の調合だ。
村に戻り、雲雀館に付く頃。
紅の夕陽が村を染め始めていた。
ユースティスは、ダイナの元へココを迎えに行った。
私は採取した材料を工房へと置きに行った。
清水花と鉱砂石。
初めての調合だけど大丈夫。きっとうまくいく。
着替えて泥まみれの靴を持って下に降りると、ユースティスがココと帰ってきたところだった。
「汚れた靴は裏庭に出しておいてくれ。俺が明日洗う」
「ありがとう、悪いわね」
「すぐ夕飯を作る。アンジュは休んでいてくれ」
「ココもおてつだいするー!」
「ああ、助かるな。今日は猪のソテーだ」
あの獣を食べるのね。どんな味なのかしら?
◇◇◇◇◇
夕方、台所に立ったユースティスは、持ち帰った泥喰い猪の肉をまな板の上にのせた。
すでに血抜きと下処理は済ませてあるらしく、肉は深い紅色をしている。見るからにしっかりした肉質で、普通の豚肉よりも色が濃い。
「ああ。泥喰い猪は少し癖があるが、きちんと煮込めばうまい。こういう肉は、焼くより煮た方がいい」
言いながら、筋の多いところを避けて手際よく肉を切り分けていく。
ごろりと大きめに揃えられた肉の塊は、煮込んだらきっと食べごたえがありそうだ。
その横で、ココが背伸びをしながら鍋の中をのぞき込もうとしていた。
「ココもみたいー!なにしてるの?」
「シチューを作るんだ。ほら、危ないからこっちへ」
ユースティスはそう言って、空いた手でココをひょいと持ち上げた。
片腕で軽々と抱えたまま、もう片方の手で肉に塩をすり込んでいくのだから、本当に器用だ。
「しちゅー!」
「そう。香草をたっぷり入れたやつだ」
鍋にはすでに、刻んだ玉ねぎと人参が入っていた。
ユースティスは、そこに泥喰い猪の肉を入れて焼きつけていく。じゅう、と音を立てて肉の表面が色づき、香ばしい匂いが一気に立ちのぼった。
思わず私は鼻をひくつかせる。
「……もうおいしそう」
「まだ早い」
そう返しながらも、ユースティスの口元はわずかに緩んでいた。
肉の表面にしっかり焼き色がつくと、彼は木べらで鍋底をこそげながら、さらににんにくと刻んだ香草を加えた。
ローズマリーに似た針葉の香草と、やわらかな葉の香草。名前まではわからないけれど、鼻に抜ける匂いはすっきりとしていて、肉の濃い香りをうまく整えてくれそうだ。
そこへ水と出汁を注ぐと、鍋の中でごぽりと音がして、湯気がふわりと広がった。
「わあ……」
ココが感嘆の声をあげる。
私も同じ気持ちだった。
ただ煮るだけじゃない。肉の香りも、野菜の甘みも、香草の匂いも、全部がきちんと順番に重なっていくのがわかる。
「しばらく煮る。その間に付け合わせを頼む」
「私に?」
「ああ。じゃがいもを洗ってくれ。丸ごと焼く」
「任せて」
私は籠からじゃがいもを取り出し、流しでごしごしと洗い始めた。
その横でココは、食卓に出す葉野菜を小さな手でちぎっている。ときどき食べようとして、ユースティスに「それは今じゃない」と止められていた。
煮込み鍋の蓋がことことと鳴る頃には、じゃがいもは皮つきのまま焼かれ、葉野菜の上には角切りの白チーズまで散らされていた。
ユースティスが鍋の蓋を開ける。
湯気と一緒に、濃厚な香りが一気に広がった。
泥喰い猪の肉は、最初の固そうな印象が嘘みたいにやわらかく煮えている。
玉ねぎはほとんど形をなくし、人参はスプーンで崩せそうなくらい柔らかい。少しとろみのついた煮汁は、肉と野菜と香草の旨味がたっぷり染み出して、深い琥珀色になっていた。
「できたぞ」
「すごい……」
「おなかすいたー!」
ココの元気な声に、私は吹き出した。
食卓に並んだ夕飯は、思った以上に立派だった。
深皿にたっぷりよそわれた泥喰い猪の香草シチュー。
ごろりと大きな肉はつやのある煮汁をまとい、ところどころに煮崩れた玉ねぎと人参が絡んでいる。
その脇には、表面にこんがり焼き色のついたじゃがいもが添えられ、湯気を立てていた。
大皿には葉野菜と白チーズのサラダ。
そして、軽く温めた黒パンの籠まで置かれている。
「いただきます」
三人で手を合わせ、まずはシチューを一口。
舌に触れた瞬間、私は思わず目を見開いた。
濃い。けれど重すぎない。泥喰い猪の肉は野趣のある旨味がしっかりしていて、それを香草の爽やかさと玉ねぎの甘みがきれいに包み込んでいる。噛むとほろりと崩れるほどやわらかく煮えていて、想像していたよりずっと食べやすい。
「おいしい……!」
思わずそう漏らすと、向かいのユースティスが静かにこちらを見た。
「口に合ったか」
「合ったどころじゃないわ。すごくいい。少し癖のある肉なのに、全然嫌な感じがしないのね。むしろ味が濃くておいしい」
「香草と野菜で煮れば、だいたいうまくいく」
「だいたい、で済ませる味じゃないと思うけど」
私は黒パンをちぎり、皿に残った煮汁をぬぐって口に運んだ。
これがまたたまらない。黒パンの酸味と香ばしさが、濃厚なシチューによく合うのだ。
「じゃがいももおいしいー!」
ココは頬をふくらませながら、夢中でじゃがいもを食べている。
その様子が可愛くて、私はつい笑ってしまった。
サラダの方もよかった。
葉野菜の瑞々しさに、角切りの白チーズの塩気がきいている。温かなシチューの合間に食べると、口の中がすっと整う感じがした。
「こういうの、なんていうのかしら……」
「なんだ?」
「“狩りのごちそう”って感じ」
私が言うと、ユースティスは一瞬きょとんとした顔をして、それから小さく笑った。
「なるほど。悪くないな」
窓の外では、夕暮れが少しずつ夜に変わっていく。
あたたかな皿、香草の香り、ココの弾む声。
私はスプーンを持ったまま、胸の奥がじんわり満たされていくのを感じていた。
こんなふうに、その日に得たものをその日のうちに料理して、三人で食べる。
それだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
さて、ほっこり時間が終わったら、次は錬金術です。
スズ村の井戸の異変を解決しなくちゃ!
(続く)
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