11話 風呂
雲雀館に戻ったのは翌日の夕方だった。
私は疲れ果てていて、即リビングのソファに倒れ込んだ。
「風呂を沸かそう。アンジュの後に、俺とココも使っていいか?」
「もちろんよ。というか、あなたも少し休んだら?」
ユースティスは荷物を下ろすと、テキパキと裏庭で湯を沸かす準備を始めた様子。
ココは戦利品の蜜の入った瓶をしげしげとながめ、不思議そうにその白銀の蜜を揺らしている。
二人とも、体力無限……?
いや違う、私が体力なさすぎるんだ。
王都でも、体育の授業でしか体動かさなかったもんな……。この村に来てからも、ほぼ引きこもりみたいな状態だったし。
「そろそろ湯が湧くぞ。浴室を使え」
「はあい……今着替え持ってくる」
私は重い足を引きずって二階の自室から着替えを持ってきて、一階の浴室に入る。
雲雀館の風呂は、屋敷の裏手に据えられた外釜で湯を沸かし、壁を通した管で浴室の風呂釜へ流し込む造りになっている。先に浴槽へ井戸水をいくらか張っておいて、頃合いを見て熱い湯を注ぎ足し、ちょうどよい湯加減にするのだ。
浴室の小窓は、すでに薄く曇っていた。裏手では、薪のはぜる音が控えめに響いている。
ユースティスが外釜を見てくれているのだろう。
「アンジュ。今、ちょうど湯が沸いた。送るぞ」
壁越しに、くぐもった低い声が届く。
私は浴槽の縁に手を置き、少しだけ声を張った。
「ええ、お願い。……熱すぎないようにしてね」
「善処する」
短い返事に、私は思わずふっと笑ってしまった。
善処、だなんて。そこは「任せろ」でいいのに。妙に真面目なのが、いかにもユースティスらしい。
しばらくして、壁を抜けた銅管がじんわりと熱を帯びはじめた。
やがて湯口から、白い湯気を立てながら湯がとくとくと落ちてくる。先に張っておいた井戸水の表面が揺れ、浴室はたちまちやわらかな湯気に包まれた。
私は木の柄杓でそっと湯をかき混ぜ、指先をひたした。
「……あつっ」
「熱かったか?」
間髪入れずに返ってくる声に、私は目を丸くした。
壁一枚隔てただけの距離だから当然なのだろうけれど、思った以上によく聞こえていたらしい。
「だ、大丈夫。ちょっとだけよ。少しお水を足せばちょうどよくなりそう」
「無理はするな。熱ければ、湯を止める。そちらの水で加減してくれ」
「平気よ。……ありがとう」
そう答えると、壁の向こうで薪を動かす小さな音がした。
きっとまだ、きちんと釜の様子を見ていてくれているのだろう。
私は一枚ずつ服を脱ぎ、そっと湯の中に身を沈めた。
肩まで浸かると、はぁ……と自然に息が漏れる。井戸水のひやりとした名残の向こうから、外釜で温められた湯のぬくもりがじわじわと肌に広がっていく。王都の屋敷の豪奢な湯殿とは比べものにならない、素朴なお風呂だ。けれど、薪の匂いをほんのり含んだ湯気も、静かな夜気も、この家にはよく似合っている。
「どうだ、湯加減は」
また、壁越しの声。
「……すごくいいわ」
「そうか」
それだけのやり取りなのに、なぜだか胸の奥がくすぐったい。
自分のために誰かが湯を沸かしてくれて、熱すぎないかと気にかけてくれる。それは侯爵令嬢だった頃にもあったはずのことなのに、あの頃とはまるで違って感じられた。義務ではなく、ただ自然に差し出された気遣いだからかもしれない。
湯船の縁に頬をのせたまま、私は小さく口を開いた。
「ねえ、ユースティス」
「なんだ」
「あなた、こういうことまで出来るのね。剣聖で、掃除も料理も庭仕事も完璧で、そのうえお風呂まで……。本当に、何でも出来るのね」
すると、壁の向こうが少しだけ静かになった。
返事が来るまで、ほんの一拍。
「……昔、旅暮らしが長かったからな。自分でやれないと困るだけだ」
「ふうん」
「それに」
「それに?」
「貴族の令嬢であるアンジュは、こういう家での暮らしには慣れていないだろう。なるべく不自由をさせたくない」
その言葉に、私は思わず黙りこんだ。
湯気のせいだけではない熱が、頬にじわりとのぼる。
「……そんなふうに言われると、困るわ」
「困る?」
「ええ。なんだか、私がずいぶん大切にされているみたいじゃない」
自分で口にしてから、しまった、と思った。
軽口のつもりだったのに、思いのほか本音に近かったのだ。
けれど壁の向こうのユースティスは、笑うでもなく、茶化すでもなく、しばらくして静かに言った。
「みたい、じゃない。大切にしている」
私は目を見開いた。
湯の中なのに、肩先がひやりとするほど驚いた。
「……雇い主だから?」
「それもある」
「“も”ってなによ、“も”って」
問い返すと、今度はほんの少しだけ、壁の向こうで息をこぼすような笑い声がした。
「長湯をすると、のぼせるぞ。続きはまた今度だ」
「なっ……ずるいわ、それ」
「そうかもしれん」
からかわれたのか、本気で心配されたのか。
判断のつかないまま、私は湯の中でひとり唇を尖らせた。
そのとき、廊下の方からぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。
「パパー?アンジュー?ココ、ねむくなっちゃったぁ」
救いを求めるような甘えた声に、私は思わず吹き出した。
壁の向こうでも、ユースティスが小さく息をつく気配がする。
「今行く、ココ。アンジュ、湯から上がったら足元に気をつけろ」
「ええ。おやすみなさい、ココにもそう言って」
「ああ」
足音が遠ざかっていく。
浴室には再び静けさが戻り、湯気の向こうで魔法灯の明かりがぼんやり揺れていた。
私は胸元まで湯に沈み、火照った頬を両手でおさえる。
――困る。
こんな風に優しくされたら、この家が、この夜が、ここでの暮らしが、もっともっと好きになってしまうに決まっている。
(続く)
※明日からGW期間は1日2話更新。明日から5/6まで、1日2話更新です。12時10分と20時10分の2回更新になります。GW終了後は1日1回に戻ります。よろしくお願いします※
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