第七話 私が欲しかったのは婚約者の座ではなく、自分の机でした
北部公爵夫人からの欠席予告は、思ったより扱いやすい火種だった。
やっかいではある。
けれど、あの方は感情だけで暴れる人ではない。
《《自分の格が軽んじられた》》と感じたときにだけ、わざわざ騒ぎを起こす。
ならば必要なのは謝罪ではなく、序列の《《意味》》を作り直すことだった。
「席そのものを上げる必要はありません」
私は長机に並べた札の一つを指で押さえた。
「上げれば、今度は外務卿が面子を潰されたと受け取ります。問題は席の高さではなく、公爵夫人が《《軽く扱われた》》と思っていることです」
マルタ女官が腕を組む。
「では?」
「役目を先に置きます」
私は北部公爵夫人の札の横へ、小さな補助札を一枚置いた。
そこへ書くのは、《《王妃殿下より冬季支援目録の説明を受ける役》》。
晩餐前の短い控えの時間、王妃殿下が東方使節へ北部の冬支援の実績を紹介する。
その際に、形式上だけでも北部公爵夫人へ一言口を開かせる。
つまり、席ではなく《《役割》》で立てる。
「役を与えれば、納得するか」
レオンハルト殿下が問う。
「ええ」
私は頷いた。
「北部公爵夫人がほしいのは、外務卿の上席ではありません。《《自分が軽く扱われていない証拠》》です。なら、口を開く順番を一つ増やすほうが早いです」
エミル書記官が、小さく感嘆の息を漏らした。
「席を上げるより、敵が少ない……」
「ええ」
私は言う。
「社交は、真正面から押すより逃がしたほうが収まることが多いの」
そのあとすぐ、私は北部公爵夫人宛ての書状を起草した。
欠席されると困るので来てください、ではない。
《《王妃殿下が北部の支援体制を高く評価しており、晩餐前に一言ご説明を賜りたい》》。
言い換えれば、機嫌を取るための招待状だ。
でも、社交とはそういうものだ。
相手が欲しいのが敬意なら、敬意の形で返すのが一番早い。
「これでよいか」
レオンハルト殿下が、私の下書きを読みながら問う。
私は少しだけ覗き込み、最後の一行を指した。
「ここだけ」
彼へペンを返す。
「《《賜りたい》》では少し低いです。《《ご教示いただければ幸いです》》のほうが、北部公爵夫人はお好きかと」
彼がほんのわずかに眉を上げる。
「好みまで分かるのか」
「嫌というほど見てきましたから」
私がそう答えると、レオンハルト殿下の口元が少しだけ動いた。
また、あの見えにくい笑い方だ。
それだけで、なぜか肩の力が抜ける。
東方使節歓迎晩餐会の当日は、園遊会のときと違って最初から空気が引き締まっていた。
王宮の大広間は昼過ぎから封鎖され、女官、給仕、書記官、近衛がそれぞれの位置につく。
香を焚く順番。
楽団の入場位置。
通訳官の立ち位置。
贈答箱の運び込みの間。
どれも小さい。
でも、そのどれか一つがずれるだけで、人の顔はすぐ曇る。
それを私は知っている。
今日の私は、知っているだけではなく、直せる場所にいる。
「第一列、問題なし」
マルタ女官が低く言う。
「北部公爵夫人、予定どおり控えの間へ」
「贈答箱、順番どおりです」
エミルの声も、園遊会の時よりずっと落ち着いていた。
昨日まで慌てていた人たちが、自分の位置を得るとちゃんと働けるようになる。
それが少し嬉しい。
やがて、王妃殿下が入場される。
楽団は第一曲を過不足なく奏で、東方使節団は予定通りの角度で礼を取った。
北部公爵夫人は控えの間で王妃殿下から直々に声をかけられ、晩餐前の短い時間、自ら北部支援について一言述べる役を得た。
それだけで、もう表情が違う。
人というのは案外単純だ。
欲しいのが席なのか、顔なのか、敬意なのかさえ見誤らなければ、たいていは機嫌よく動く。
私は壁際から全体を見ていた。
これは本来、婚約者の席ではなく、仕事をする人の場所だ。
そう思うと、今ここにいることが少し誇らしかった。
「第二幕へ」
私の小さな指示で、楽団が曲を変える。
通訳官が半歩前へ出る。
給仕が主菜を運ぶ。
大使夫人の前に置かれる皿には、当然、胡桃はない。
そして西方商会の会頭夫人の名札は、今夜だけ妙に整った字で書かれていた。
それを見た彼女が、ほんの少しだけ満足そうに顎を引いたのを、私は見逃さなかった。
上手くいっている。
静かに。
でも、確実に。
園遊会で崩れたものが、今夜はちゃんと立っている。
「エルシェナ嬢」
低い声に振り向くと、レオンハルト殿下がすぐ後ろに立っていた。
私は慌てて一礼する。
「何か不備が」
「逆だ」
彼は短く言った。
「見事に収まっている」
たったそれだけの言葉が、驚くほど深く胸へ落ちた。
私は今まで、成功したときほど《《当然》》として処理されてきた。
だからこうして、ちゃんと見られて、ちゃんと成功だと言われるのが少し信じがたい。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。
最後まで立ってからにしろ」
「……はい」
返事をすると、彼の目が少しだけやわらいだ気がした。
晩餐会は、結局最後まで大きな綻びを出さずに終わった。
東方使節団は満足げに帰り、王妃殿下のお顔にも疲れはあったけれど不機嫌さはない。
外務卿も、北部公爵夫人も、それぞれが自分の面子を保ったまま散っていった。
こういうときの王宮は、本当に静かだ。
誰も騒がない。
でも、ちゃんと成功したことだけが空気に残る。
夜更け、ようやく片づけが終わり、私は書記室へ戻った。
机の上には、昼間置いていった紙束がきちんと揃えられている。
その机を見た瞬間、ふいに力が抜けた。
疲れたのだと思う。
でも悪い疲れではない。
何かをちゃんとやり遂げたあとの疲れだ。
「お疲れさまでした」
マルタ女官が入ってきて、私の机へ封書を一通置いた。
王妃宮の印。
開けば、中はごく短い文だった。
《《今後も、あなたの机を王宮から失わせるつもりはありません》》
それだけだった。
でも十分だった。
王妃殿下は、いつも少ない言葉で一番欲しいものをくださる。
「……嬉しいですね」
思わず漏れた声に、マルタ女官が小さく笑った。
「そういう顔もなさるのですね」
「どんな顔ですか」
「ようやく自分の席へ座れた人の顔です」
その言い方に、私は少しだけ目を伏せた。
婚約者の座ではなく。
飾りの席でもなく。
自分の席。
それは、たしかに私が欲しかったものの名前だったのかもしれない。
そこへ、今度はフレデリクが顔を出した。
ヴェルナー公爵家の執事であり、いまだに私へは古い礼を崩さない人だ。
彼がここへ来るのは珍しい。
しかも、かなり困った顔をしている。
「エルシェナお嬢様」
「何かありましたか」
「ご実家の皆様が」
その一言で、だいたい分かった。
園遊会の失敗までは、まだ家の中の不手際として片づけられたのだろう。
でも今日の晩餐会まで成功してしまえば、もう誤魔化せない。
私が抜けた穴と、私が別の場所で働いた結果が、あまりにも鮮明だからだ。
「今、どちらに?」
「外の応接間に」
マルタ女官が眉をひそめた。
でも何も言わない。
ここはもう王宮で、ここに来た以上は公私の線引きも自分でやるべきだと、きっと分かっているのだろう。
「参ります」
私は席を立った。
机の引き出しに手を置き、ほんの一瞬だけその感触を確かめる。
この机がある。
それだけで、さっきより少し強くなれた気がした。
応接間へ入ると、父と母、そしてリネットが並んで座っていた。
だが、その並びは前とは違う。
前は中央にカイル様がいて、私は端に控えていた。
今は違う。
三人とも、なぜかこちらを見上げる側にいる。
「エルシェナ」
父が立ち上がる。
珍しく、少しだけ慌てた顔だった。
「今日の晩餐会、見事だったと聞いた」
「ありがとうございます」
私は礼だけ返した。
母が扇を握る指に、わずかに力を込める。
「王妃殿下までお喜びだったとか」
「そうでしたら光栄です」
リネットは、私の顔をまっすぐ見られないらしい。
指先でスカートをつまんだまま、視線だけが落ち着かない。
「それで」
私は静かに促した。
「ご用件は何でしょう」
母と父が、ほんの一瞬だけ顔を見合わせる。
嫌な予感はした。
でも、もう前みたいに先回りして傷つく必要はない。
「戻ってきてほしいの」
先に言ったのは母だった。
「ヴェルナー公爵家へ、ではないわ。
家へよ。
今まで通り、うちを支えてちょうだい」
私はしばらく、その言葉の意味を考えた。
でも考えるまでもなかったのかもしれない。
ただ、あまりにも昔と同じで、逆に理解が遅れただけだ。
「……今まで通り?」
「そうよ」
母は少しだけ早口になる。
「あなたは家の中のことも、寄付も、帳面も、全部ちゃんとできるでしょう?
リネットもまだ若いし、わたくしたちだけでは王都の家は回らないの」
父がそこで咳払いした。
「ヴェルナー家との婚約はもう難しいだろう。だが、お前が王宮へ近い場所にいれば、うちにとっても」
私はそこで、ようやく本当に理解した。
この人たちは、今日の晩餐会まで見ても、まだ同じことを言うのだ。
私の仕事を見たのではなく、《《役に立つ便利な娘》》が王宮の近くへ行ったとしか見ていないのだ。
「お姉様」
リネットが、ようやく声を出した。
「わたくし、あのときは少し意地になっていたの。
でもやっぱり、お姉様がいないと皆が困るのよ」
その言葉が、思っていた以上に静かに胸へ刺さった。
困る。
必要。
助かる。
似たような言葉でも、誰がどう使うかで、こんなに違って聞こえるものなのかと思う。
「私はもう戻りません」
自分でも驚くほど、声は穏やかだった。
母が目を見開く。
父の眉が寄る。
「どうして」
リネットが、か細く訊く。
「どうして、そんなに冷たく」
「冷たくはないわ」
私は首を振る。
「やっと、普通になっただけよ」
三人が黙る。
だから私は、ずっと言えなかったことを、静かに言葉へした。
「私はずっと、婚約者の座が欲しかったわけじゃない。公爵家の看板が欲しかったわけでもない」
一呼吸。
「欲しかったのは、自分の机だったの」
母が息を呑む。
たぶん、その言葉の意味が分からないのだろう。
でも、今はそれでよかった。
「私が何をして、何を決めて、何の責任を持つのか。それがはっきりした席が欲しかった」
私は続ける。
「誰かの代わりに埋める席ではなく、最初から私のために用意された席が」
応接間は静まり返っていた。
窓の外では夜の王宮が静かに灯っている。
その光を背にして、私はようやく言う。
「私はもう、代役には戻りません」
それは家族に向けた言葉でもあり、少し前までの自分自身に向けた言葉でもあった。
もう誰かの隣を整えるだけの人には戻らない。
私には私の机がある。
そこへ辿り着いたのだから。
父が何か言いかけた。
けれど、結局言葉にはならなかった。
母も、リネットも同じだった。
三人とも、はじめて聞く外国語みたいな顔をしている。
その反応に、もう傷つかない自分が少しだけ不思議だった。
「フレデリク」
私は扉のそばに控えていた執事を呼んだ。
「皆様をお送りして」
「かしこまりました」
三人は何も言えないまま席を立った。
リネットだけが最後に一度振り返ったけれど、私が見返すとすぐに目を逸らした。
それで十分だった。
応接間の扉が閉まる。
私は静かに息を吐いた。
怒鳴り合いにもならず、泣き崩れもせず、それでもはっきりと線を引けたことに、少しだけ安堵する。
「見事でした」
不意に声がして振り向くと、レオンハルト殿下が扉口に立っていた。
いつからいたのだろう。
この人は本当に気配を消すのが上手い。
「聞いていらしたのですか」
「途中から」
隠すつもりもないらしい。
私は少しだけ苦笑した。
「では、だいぶ私的な見苦しい場面をお見せしてしまいましたね」
「いや」
殿下は首を振る。
「むしろ、ようやく本当に終わったのだと思った」
その言葉で、胸の奥の何かがまた少しほどける。
たしかにそうだ。
婚約を失っただけでは終わっていなかった。
家へ戻れと言われて、便利な娘へ戻れと言われて、それを断って初めて終わるものもあったのだ。
「エルシェナ嬢」
「はい」
「今夜、少し時間はあるか」
問い方が、仕事の連絡とは少し違っていた。
私は小さく瞬きをする。
「仕事の話ではない」
殿下は続ける。
「相談したいことがある」
その一言で、なぜか心臓が少しだけ早くなる。
今さら仕事の話ではないと言われると、むしろそちらのほうが落ち着かない。
「……承知いたしました」
私がそう答えると、レオンハルト殿下は短く頷いた。
「では、ひと刻後に。北回廊の書庫前で」
それだけ告げて去っていく。
相変わらず、必要なことしか言わない人だ。
でも今日は、その必要なことの中身がいつもと少し違う。
私は自分の机へ戻った。
引き出しに手をかける。
今日、初めて手に入れた正式な席。
その木の感触を確かめながら、少しだけ笑う。
仕事の話ではない相談。
そんなものを持ちかけられる日が、自分にも来るとは思っていなかった。
机を手に入れた日だからこそ、その先の話を聞いてもいいのかもしれない。
そんなふうに思ってしまう自分が、少しだけくすぐったかった。
次話は明日の19:40投稿予定です。
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