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妹が「お姉様の代わりは務まります」と言うので、婚約者も役目も譲りました。ですが務まらなかったようです【連載版】  作者: 本城オブリゲータ


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第八話 代わりではなく、最初から私を選んでください

 北回廊の書庫前は、夜になるとひどく静かだった。



 王宮の中でも人通りが少なく、灯りも控えめで、遠くの広間から届く音楽さえここまではほとんど届かない。


 その静けさが、今日の私にはありがたかった。


 家族と向き合い、過去の自分と向き合い、ようやく自分の机へ辿り着いた一日の最後に、これ以上騒がしい場所へ行く気力は残っていなかったからだ。



 指定された時刻より少し早く着くと、レオンハルト殿下はすでに書庫前に立っていた。


 灰色の外套を肩へ掛け、片手には薄い封筒を持っている。

 その立ち姿はいつも通り無駄がなく、けれど今夜はいつもよりわずかに柔らかく見えた。


 書庫前の灯りが暗いせいかもしれないし、私の気のせいかもしれない。



「早いな」


「待たせるのは好きではありませんので」



 私がそう答えると、殿下の口元がほんの少しだけ動いた。


 また、あの見えにくい笑い方だ。

 今では、あれがこの人なりの機嫌の良さだと分かっている。



「中へ」



 短く促され、私は書庫へ入った。


 長い机が一つ。

 壁いっぱいの書架。

 古い革表紙の匂い。


 記録と規則と歴代の儀礼書が眠る場所らしく、空気まで少し乾いている。


 不思議と落ち着く部屋だった。

 書類に囲まれているほうが息をしやすい、というのも我ながらどうかと思うけれど。



 殿下は机の上に封筒を置いた。



「まずは仕事の話だ」



 私は少しだけ肩の力を抜いた。


 やはり最初はそこかららしい。

 この人らしいと思う。



「王家儀礼局補佐官の正式辞令だ」



 封を切って中を見る。


 厚手の紙に、王家儀礼局補佐官任命の文言。


 期間は《《当面のあいだ》》。

 俸給額。

 執務室の使用許可。

 補助書記一名の選定権。


 そして最後に、私の名前。


 誰かの婚約者としてではなく、私個人の名が記されている。



 紙を持つ指が、わずかに震えた。

 婚約指輪を受け取ったときより、ずっと強く心が揺れていることに自分でも驚く。



「……本当に」



 思わず、小さく呟く。



「本当に、私の席なのですね」


「そうだ」



 レオンハルト殿下は即答した。



「飾りではない。補佐官の席だ。不要になれば外すし、必要なら残す」



 それは冷たい言葉にも聞こえるはずなのに、私には少しも冷たくなかった。


 むしろ、ちゃんと仕事として扱われているという安心感のほうが大きい。


 慰めの席ではない。

 埋め合わせでもない。

 だからこそ、信じられる。



「お受けします」



 私は辞令を胸の前で揃え、一礼した。



「正式に」


「よかった」



 短い返事だった。

 でも、その一言に確かな安堵が混じっているのを私は聞き逃さなかった。



「これで仕事の話は終わりだ」



 彼はそう言って、机の縁へ軽く手を置く。


 私はそこで初めて、少しだけ息を詰めた。

 仕事ではない相談がある、と言っていたことを思い出したからだ。



「では」



 私が慎重に言葉を選ぶ。



「ここからは、仕事の話ではないのですね」


「そうだ」



 やはり短い。


 でもその短さが、今は少しだけ意地悪く感じる。

 こちらばかり緊張している気がしてならない。



 殿下はしばらく黙っていた。


 書庫の灯りが、灰色の瞳の輪郭をやわらかく照らしている。

 私はその沈黙を急かさなかった。


 この人は必要なことしか言わないが、言うと決めたことからは逃げない。

 それを、ここ数日で嫌というほど学んだ。



「私は」



 やがて彼は静かに口を開いた。



「あなたが婚約破棄されてから、急に価値を見出したわけではない」



 私は思わず顔を上げた。

 その出だしは予想していなかった。



「前から、気づいていた」


「何に、でしょうか」


「ヴェルナー家の行事が、あなた一人で回っていることに」



 胸の奥が、少しだけ強く鳴る。


 前から。

 その言葉だけで、昔の記憶がいくつか浮かんだ。


 王妃殿下の茶会。

 王都祭の寄付式典。


 新年の大広間で、遠くからこちらを見ていた灰色の目。



「行事ごとに帳面の札の色が違うことも知っていた」



 彼は続ける。



「寄付と席次と贈答で、整理の仕方が別になっていることも。王妃付きの女官たちが、ヴェルナー家の催しは《《帳面がきれいだから安心だ》》と言っていたのも聞いている」



 私の帳面の話が、そんなふうに外へ出ていたとは知らなかった。

 知らなかったし、誰かがそこを《《安心》》として見ていたことも、初めて知った。



「なら、なぜ」



 問いが、思ったより早く口をついて出る。



「なぜ今まで何も仰らなかったのですか」



 少しだけ沈黙が落ちる。


 逃げるための沈黙ではない。

 言葉を選ぶための沈黙だと分かる。



「二つある」



 彼は言った。



「一つは、あなたが婚約者という立場にいたからだ」



 私は黙って頷く。


 それは理解できる。

 婚約中の令嬢へ、王弟が手を伸ばすのは軽率だ。


 少なくとも、この人はそういう越え方をしない人だろう。



「もう一つは、あなた自身がまだ《《そこから出る気がなかった》》からだ」



 私は息を止めた。

 図星だった。


 ずっと苦しかったくせに、私は自分からその席を降りようとはしていなかった。

 未来の公爵夫人として必要だと思い込み、便利な婚約者であることを受け入れ続けていた。


 それが崩れたのは、婚約者と妹があまりにもはっきりと私を軽んじたからだ。

 つまり私は、追い出されるまで、自分からは出なかった。



「……そうですね」



 ようやく認める。

 喉が少し苦い。



「私は、自分の役目だと思っておりましたから」


「知っている」



 殿下は静かに言った。



「だから待った」



 待った。

 その言葉が、妙に胸に残る。



「私が手を出すより先に、あなた自身が《《そこは自分の席ではない》》と決める必要があった」



 やはり、この人は残酷なほど正確だと思う。


 でもその正確さに救われてもいる。

 同情や優しさで曖昧に慰められるより、ずっと楽だ。



「そして今は違う」



 彼は続ける。



「あなたは自分で線を引いた。だから私は、ようやく手を伸ばせる」



 その言葉に、心臓が少しだけ速くなる。


 手を伸ばす。

 仕事のためだけの比喩ならいい。


 でも、きっとそれだけではないのだろうと思ってしまう。



「……殿下」


「レオンハルトでいい」



 さらりと言われて、私はしばらく言葉を失った。


 こういうところで急に距離を縮めてくるのはずるいと思う。

 しかも本人にその自覚が薄そうなところが、なお悪い。



「では、レオンハルト様」



 言い直すだけで、妙に頬が熱い。



「それは、補佐官としての話ですか」


「半分は」


「もう半分は?」



 彼は書庫の窓へ一度だけ視線を流し、すぐに私へ戻した。



「個人的な話だ」



 とうとう来た、と思う。


 私は息を整えた。

 逃げたくはない。


 でも、ここで曖昧にうなずくのも違う気がした。



「先に申し上げておきます」



 私はできるだけまっすぐ言う。



「私は、もう《《役目に選ばれる》》のは嫌です」



 殿下はわずかに眉を動かした。

 先を促しているのだろう。



「婚約者の座が必要だから、便利だから、家のためにちょうどいいから。そういう理由で選ばれるのは、もうたくさんです」



 一呼吸置く。

 ここを曖昧にしてはいけないと、なぜかはっきり分かった。



「代わりではなく、最初から私を選んでください」



 書庫が静まり返る。


 外の風の音さえ、少し遠く聞こえた。

 言ってしまってから、心臓がやけに忙しい。


 重いだろうか。

 面倒な女だと思われるだろうか。


 でも今さら引っ込めるつもりはなかった。

 これだけは、絶対に譲りたくなかったからだ。



 レオンハルト様は、しばらく何も言わなかった。


 その沈黙が長く感じられて、私は指先を机の縁へそっと押しつける。

 次の瞬間、彼がようやく口を開いた。



「そのつもりだ」



 短い。

 でも、何の迷いもなかった。



「最初から、あなた自身を見ている」



 私は瞬きをする。

 彼は続けた。



「帳面も、段取りも、立ち回りも、たしかに必要だ。だが、それだけなら別の優秀な書記官を探す」



 まっすぐに、こちらを見る。



「私が欲しいのは、《《それをするあなた》》だ」



 胸の奥が、きゅうと小さく縮むように痛くなる。


 痛いのに、苦しくはない。

 たぶんこれは、やっと欲しかった言葉が来たときの痛みだ。



「私は王弟だ」



 彼は言う。



「あなたが思っている以上に、立場で人を選ぶことに慣れている。だからこそ、そこを間違えたくない」



 少しだけ、目がやわらぐ。



「補佐官として必要だ。だが、それとは別に、一人の女性としてそなたを傍へ置きたいとも思っている」



 あまりにも率直で、私はしばらく返事ができなかった。


 もっと遠回しに言われると思っていた。

 この人は本当に、こういうところだけまっすぐだ。



「すぐに返事をしろとは言わない」



 彼は一歩、私から離れた。

 その距離の取り方まで、やはり誠実だと思う。



「仕事をして、机に座って、それでもなお私の隣がよいと思えたなら、そのときに答えてくれればいい」



 その言葉で、ようやく息ができるようになる。


 急かさない。

 追い詰めない。

 けれど逃げもしない。


 そういう人なのだと、今夜また一つ知った。



「……ずるいです」



 思わずそう漏らすと、彼の口元がほんの少しだけ動いた。



「何がだ」


「仕事も机も、欲しかったものを先に全部揃えてから、そういうことを仰るところがです」



 彼は少しだけ考えるように黙り、それからあっさりと言った。



「それはたしかに、少しずるいかもしれない」



 そこで、私はとうとう笑ってしまった。

 この人が自分でそう認めるとは思わなかったからだ。



「ですが」



 私は息を整える。



「そのずるさは、嫌いではありません」



 返事になっているような、なっていないような言い方だ。


 でも今の私には、それが精一杯だった。

 婚約者の座を失い、自分の机を得て、さらにその先を差し出されるには、一日が長すぎた。



「なら、今日はそれで十分だ」



 レオンハルト様は言った。

 そして机の上に、小さな鍵を一つ置く。



「これは?」



「補佐官室の鍵だ」



 私は目を見開いた。

 書記室の一角ではなく、個室まで用意されていたのかと思うと驚く。



「王妃殿下も了承済みだ。あなたの帳面と札は、あまり人の出入りが多い部屋より、そちらのほうが扱いやすい」



 鍵は小さいのに、持つとずしりと重い。


 自分の席。

 自分の引き出し。

 自分の帳面を置ける場所。


 それを今、私は本当に手にしているのだ。



「ありがとうございます」



 私は鍵を両手で包むように持った。



「大事にいたします」


「そうしてくれ」



 短い返事。

 でも、それだけで十分だった。



 書庫を出るころには、王宮の廊下はもうだいぶ静かになっていた。


 私は補佐官室の鍵を握りしめたまま、自分に与えられた新しい机のことを思う。

 前は、誰かの隣に立つための席しかなかった。


 今は違う。


 自分の名前で呼ばれ、自分の鍵で開ける机がある。

 その先に、ようやく《《自分で選ぶ関係》》まで見えてきた。



「エルシェナ」



 少し先を歩いていたレオンハルト様が、振り返らずに私の名を呼ぶ。



「はい」


「歓迎する」



 それだけだった。


 仕事の席へようこそ、という意味でもあるのだろう。

 でも、それだけではない気もした。


 私は鍵をもう一度握り直し、小さく笑う。



「……こちらこそ」



 そう返して、彼の背を追った。



 婚約者の座は失った。


 けれど私は、ようやく自分の机を得た。

 それならたぶん、この先はもう少し欲張っていい。


 役目だけではなく、居場所も。



 そして、代わりではない誰かとして選ばれることも。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


第一部はここで一区切りです。

次の第二部では、エルシェナが王家儀礼局で正式な机と役目を得て、王宮の中で“名前で呼ばれる”話に入っていきます。


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