第二十八話 噂は、仕事をしていない人の顔で歩きます
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噂は、本当に足が速かった。
建国祭のあとから少しずつ燻っていたものが、王妃不在の大使会議と夜会が近づくにつれ、一気に形を持ち始めたのだ。
王弟殿下の隣は誰が埋めるのか。
エルシェナ補佐官か、ヴァルブルク公爵令嬢か。
王妃不在の夜会で、その立ち位置が決まるのではないか。
だいたいそんな話だった。
実際のところ、私は主催者席の隣に座る予定など最初からなかったし、フロレンティア様もそのつもりはない。
でも噂というのは、当人の意思より《《見ていて面白い形》》のほうを勝手に育てる。
そしてたいてい、仕事をしていない人のほうがよく喋る。
「北列の順番、またずらしましたね」
マルタ女官が言う。
紙の上では、夫人たちの迎え列が半歩だけ変わっている。
「はい」
私は頷いた。
「フロレンティア様の位置を少しだけ下げます。その代わり、王妃宮付きの女官を一人前へ」
「噂対策ね」
「ええ」
ここ数日の観察で、だいぶはっきりしてきた。
噂は、空席そのものから生まれているのではない。
誰がその空席に近いかで育っている。
なら、席を空けたまま、動線だけ少し変えればいい。
近いと感じさせる位置を削り、代わりに王妃宮の列を厚くする。
それだけで殿下の隣を争っている見え方はかなり薄くなる。
「ですが」
エミルが控えめに口を挟む。
「それだと補佐官殿もフロレンティア様も、少し損ではありませんか」
私は少しだけ笑う。
「損得で言えば、たしかにそうかもしれないわね」
でも今は、それでいいと思う。
噂へ餌を与えて大きくするより、仕事の流れを守るほうが先だ。
「王宮の人たちは、見たいものしか見ません」
私がそう言うと、エミルが小さく首を傾げた。
「見たいもの?」
「ええ」
私は札を一枚差し替える。
「例えば、誰がどの帳面を整えたかより、誰が誰の隣に立つかのほうが分かりやすいでしょう?」
「……それは」
「そういうものよ」
私は言う。
「だから、見たいものばかりを見せていると、仕事は簡単に消えるの」
昔の私が、まさにそうだった。
婚約者の隣に立つ令嬢。
公爵家の催しを滑らかに見せる婚約者。
そう見えるだけで、帳面も札も、導線も寄付も、全部が当然の背景へ落ちた。
今はそうしたくない。
「噂は、仕事をしていない人の顔で歩きます」
ぽつりとそう言うと、クラウディア次席儀礼官が紙束の向こうから顔を上げた。
「いい言葉ね」
彼女はそう言って、ごくわずかに笑う。
「今度、局の入口へでも貼りましょうか」
少しだけ肩の力が抜ける。
こういう小さなやり取りが、いまはありがたい。
そのとき、扉口へ控えていた若い女官が一礼した。
「リューネ補佐官へ、外取次より私信が届いております」
「私信?」
私は少しだけ眉をひそめる。
女官は、封筒を両手で差し出した。
「はい。ご実家からです。取次簿には、私的な書状として記録済みです」
その言葉に、私は頷いた。
王家儀礼局の案件としてではない。
外取次で受け、記録を残し、私信として渡す。
それなら線は保たれている。
封を見れば、案の定、母の字だった。
しかも、あまり隠す気もない文面だ。
王弟殿下の夜会で、あなたが殿下のお隣へ立つという噂を聞きました。
もしそうなるなら、家としても相応の支度が要ります。
リネットの件もありますし、今後の立場をはっきりさせるため、一度話し合いが必要ではないでしょうか。
私は途中で紙を閉じた。
読み切るまでもない。
王宮の噂を、また家の都合へ変換しにきているだけだ。
「家?」
マルタ女官が短く問う。
「ええ」
私は手紙を机の端へ置く。
「殿下の隣に立つらしいと聞いて、今度は支度が必要だそうです」
エミルが分かりやすく顔をしかめた。
ロッテは、ええ……とでも言いたげに小さく目を伏せる。
家族の話としては情けないが、感想としては正常だと思う。
「返事は?」
クラウディア次席儀礼官が訊く。
「いりません」
私は即答した。
「今は」
大事なのはそこだった。
噂が広がっている今、実家へ反応するとそれ自体が材料になる。
だったら、何も返さない。
少なくとも夜会が終わるまでは。
「賢明ね」
クラウディア次席儀礼官が頷く。
「反応した時点で、向こうの思う壺ですもの」
「はい」
私は答えた。
「今は、仕事の形を守るほうが先です」
少し考えてから、私は封筒をもう一度見た。
母の字。
見慣れた家紋。
昔なら、それだけで胸が重くなった。
でも今は違う。
ただの紙だ。
しかも、取次簿に記録された私信でしかない。
「ただし、控えは残します」
私が言うと、クラウディア次席儀礼官が目を上げた。
「王家儀礼に触れる文面だから?」
「はい」
私は頷いた。
「私の私的な返事はしません。ですが、王弟殿下の夜会や立ち位置に関する話を家が利用しようとしていることは、記録として残したほうがいいと思います」
「いい判断です」
クラウディア次席儀礼官は、迷わずそう言った。
「ロッテ、写しを一部。妨害控えではなく、私信受領控えへ」
「承知しました」
ロッテが封筒を受け取り、丁寧に写しを取り始める。
それを見て、私は少しだけ息を吐いた。
前なら、家の手紙は家の中だけで処理していた。
今は違う。
私信は私信として、公の仕事に触れる部分は記録へ残す。
その線を引ける場所に、私はいる。
そこへ、ヴァルブルク公爵令嬢が戻ってきた。
夫人方の仮列を確認し終えたらしく、いつも通り余裕のある顔だ。
でも、私の机の上の手紙を見て、すぐに何かを察したらしい。
「また実家ですの?」
「ええ」
「忙しいですわね、皆さま」
その言い方に、思わず少しだけ笑ってしまう。
忙しい。
たしかにそうだ。
私の机と、私の噂が動くたびに、あの家は急に忙しくなる。
「フロレンティア様」
私はふと思い立って訊いた。
「こういう噂を、どう扱ってこられましたか」
彼女は少しだけ目を細めた。
軽い顔のまま、でも答えは軽くなかった。
「何もせず、でも何も渡さず、ですわ」
「何も渡さず?」
「ええ」
彼女は私の机の上の紙束を見た。
「噂に、次の材料を渡さないことです」
一拍。
「言い返すと、その言葉もまた遊ばれます。怒れば《《図星だった》》になります。だから、仕事の形だけ整えて、あとは餌をやらない」
私はゆっくり頷いた。
見事なほど、その通りだった。
「ありがとうございます」
「机を守る作法ですもの」
フロレンティア様はそう言って、さりげなく会場図をこちらへ戻した。
「わたくしも覚えましたわ」
その言葉が、ひどく嬉しかった。
敵ではない。
机を守る側。
まさにそういうことなのだろう。
「では、こちらも餌を減らしましょう」
私は会場図へ目を戻した。
「フロレンティア様の迎え列を一巡目だけにします。二巡目からは王妃宮付き女官へ戻す」
「ええ」
「私の位置も、殿下の主催者席から一段外します。工程板の確認線に置いたままにします」
「それで、殿下の隣は空いたまま」
フロレンティア様が言う。
「けれど、空白には見えない」
「はい」
私は頷いた。
「会談卓と迎え列を中心にします。噂の中心ではなく、仕事の中心を見せる形に」
クラウディア次席儀礼官が満足そうに目を細めた。
「噂へ直接触れずに、噂の足場を削る」
「そうです」
私は札を一枚置く。
「噂は速いです。でも、歩く場所がなければ止まります」
その日の夕方、私は王宮の回廊を歩きながら、窓へ映る自分の姿を少しだけ見た。
補佐官の衣装。
紙束。
鍵。
王弟殿下の噂に巻き込まれる女、ではない。
そう自分で思い直せるくらいには、もう私は前へ進んでいる。
机がある。
仕事がある。
その上で、誰かの隣をどう選ぶかは、私が決める。
そう思えるようになったことが、何より大きかった。
噂はたしかに歩く。
でも、いまの私は、噂より先に手を打てる場所へ立っていた。
次話は明日の19:40投稿予定です。
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