第二十七話 フロレンティア様は敵ではなく、私の机を守る側でした
ヴァルブルク公爵令嬢が書記室へ出入りするようになって三日で、私は一つだけはっきり分かったことがあった。
この人は、敵に回ると面倒だが、味方にいると非常に頼もしい。
北列の夫人方の出欠。
誰と誰が同じ車列を嫌がるか。
どの伯爵夫人が、どの公爵令嬢の前では急に声を高くするか。
そういう《《華やかな場の面倒くささ》》を、この人は驚くほど正確に把握していた。
しかも、知っていることを独占しない。
必要ならさっと紙へ落とし、必要な人の前へ置く。
そこが、いちばんありがたかった。
「この方とこの方は、同じ迎え列へ置くと互いに挨拶が長くなります」
フロレンティアは、名簿の上へ白い指を置く。
「悪い意味ではありませんのよ。ただ、昔から互いの衣装を褒め合い始めると長いのです」
私は思わず少しだけ笑った。
「それは困りますね」
「ええ。後ろが詰まります」
言葉の選び方まで、だいぶ仕事寄りになってきている。
たぶんこの人も、実はこういうことが嫌いではないのだろう。
「フロレンティア様」
私は紙束を揃えながら訊いた。
「前からこうしたことを?」
「少しは」
彼女は答える。
「公爵家の娘ですもの。席に座るだけでは済みませんわ」
一拍置く。
「ただ、わたくしが書いた紙は、たいてい最後に『ありがとう、あとは大人がやります』と言って取り上げられてしまいますけれど」
その言い方が、妙に胸へ刺さった。
ああ、と思う。
この人もまた、別のやり方で見えていても、表へ出されない側だったのだ。
「だから」
私は自然に言っていた。
「ここでは取り上げません」
フロレンティアが目を瞬く。
「必要なことなら、紙のまま残しましょう。残らないと、また誰かの“感じのいい立ち回り”で消えてしまうので」
彼女はしばらく私を見ていた。
それから、ほんの少しだけ笑う。
「そういうところ、本当に好きですわ」
私は返事に困った。
褒められているのだろう。
でも、その言葉は妙に率直で、しかも嫌味ではなかったから。
「ありがとうございます」
ようやくそう返すと、彼女は楽しそうに肩をすくめた。
「礼を言われるほどではありません。わたくしも自分の席を守りたいだけですもの」
その物言いが好きだと思う。
綺麗ごとだけで飾らないところが。
午後、王妃宮から戻ってきたマルタ女官が、紙束を机へ置くなり言った。
「噂、広がっています」
私は顔を上げる。
「どの手のですか」
「二つ」
彼女は指を二本立てる。
「一つ目は、王妃不在の夜会で殿下の隣が空席なのは不自然だから、結局誰かが座るはずだという話」
やはり来たか、と思う。
これはもう予想の範囲内だ。
「二つ目は?」
「その“誰か”を、あなたとフロレンティア様のどちらにするかで、王宮の夫人方が勝手に盛り上がっている」
私はしばらく何も言わなかった。
嫌な予感はしていた。
でも、いざ口にされると少しだけ疲れる。
私は仕事をしているだけなのに、その外側では《《隣に誰が似合うか》》ばかりで話が進むのだから。
「自然ですわね」
フロレンティアが、思いのほかあっさり言った。
「皆さま、座っている人間の関係を見るのは大好きですもの」
「平然としていらっしゃいますね」
私がそう訊くと、彼女は紙を揃えたまま笑う。
「慣れていますもの」
その返事に、少しだけ黙る。
慣れている。
たぶんそれは、楽だからではない。
「でも」
フロレンティアは続ける。
「今回は、少しだけ違いますわ」
「何がですか」
「わたくしが、そこへ座るつもりがないことです」
彼女はそう言って、私の顔を真っ直ぐ見た。
「少なくとも今の私は、殿下のお隣の席より、北列を詰まらせないほうに興味がありますの」
私は思わず目を丸くした。
そこまできっぱり言うとは思わなかったからだ。
「意外でしたか」
「少しだけ」
「そうでしょうね」
フロレンティアは頷く。
「でも、座っているだけで選ばれる席より、自分で動いて残る仕事のほうが、思ったより気分がいいのです」
その言葉には、ひどく納得してしまった。
つい少し前の私も、きっと同じことを言っただろうから。
「では」
私は静かに言った。
「あなたは敵ではありませんね」
「最初からそのつもりはありませんでした」
フロレンティアは答える。
「ただ、あなたが机を手放す人なら、少し考えたかもしれませんけれど」
その率直さが、妙に心地よい。
たぶんこの人は、相手を試すときもまっすぐなのだ。
そこへレオンハルト殿下が戻ってきた。
今日も短い打ち合わせで外務卿室へ行っていたらしい。
扉の前で足を止め、私とフロレンティアを一度ずつ見る。
「何の話だ」
低い声。
でも、少しだけ警戒が混じっていた気がした。
気のせいかもしれないけれど。
「机の話です」
フロレンティアが先に答えた。
「どなたも、簡単には手放すつもりがないという確認をしておりましたの」
殿下が一瞬だけ黙る。
それから、ほんの少しだけ目を細めた。
「それは結構だ」
短い返答だった。
でも、その一言がなぜか少しだけ可笑しくて、私は視線を落とした。
たぶん今、少し笑ってしまったら不自然すぎる気がしたから。
フロレンティアはその反応まで見ていたらしい。
紙束を持ち上げながら、何食わぬ顔で言う。
「ではわたくしは、北列夫人方の順番を最終確認してきます。補佐官殿、あとで戻りますわ」
彼女が去ると、書記室の空気が少しだけ元へ戻る。
でも、その少しだけの変化を私はちゃんと感じてしまっていた。
「……面倒な噂になっているようだな」
レオンハルト殿下が言う。
「はい」
私は素直に頷く。
「ですが、今はそれでよろしいかと」
「よい?」
「ええ」
私は机の上の会場図を指で押さえる。
「いま誰がどこに立つかが噂になるのは、逆に言えば、《《誰もそこへ座っていない》》のがちゃんと見えているということですから」
殿下は少しだけ考えてから、小さく頷いた。
「なるほど」
それだけ言う。
私は少しだけほっとする。
今の答えは、我ながらちゃんと仕事の言葉になっていたと思えたからだ。
「ただし」
私は続けた。
「仕事の後ろに噂が歩き出すのは、少し厄介です」
「知っている」
殿下は即座に言った。
「だから必要以上に広げない」
その言葉の意味は、私にも分かる。
今はまだ、何も決める段階ではないのだ。
私の机があり、その机がきちんと機能していて、その上で初めて隣の話ができる。
それでいい。
そう思えるくらいには、私はもう昔の私ではなかった。
ヴァルブルク公爵令嬢は、敵ではなく、私の机を守る側だった。
それは少し意外で、でも悪くない発見だった。
そしてその発見は、たぶんこの先の私にとっても大きい。
次話は明日の19:40投稿予定です。
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