第二十六話 私の机は、殿下の隣より先に守るべき席です
王妃殿下がご不在と決まった翌日から、王宮の空気は目に見えて変わった。
慌ただしい、というより、ざわつく。
女官たちの足は速い。
でもそれ以上に、廊下の隅で交わされる声が増えた。
大使会議をどうするのか。
王妃席は誰が埋めるのか。
夜会では殿下の隣に誰が立つのか。
そういう声だ。
書記室へ入ったとき、私はそのざわつきをすでに少し引きずっていた。
机の上へ紙束を置き、鍵を引き出しへ収める。
この机は、まだ昨日と同じようにここにある。
でも、今日からはきっと違う意味で見られるのだろうと思う。
王妃不在の場で、王弟殿下の近くにいる女。
たぶん、そういう見方をする人が増える。
「補佐官殿」
マルタ女官が、薄い紙束を抱えたまま言った。
「夜の会談兼夜会の席次、主催者席まわりの仮案が二通り来ています」
差し出された紙を見て、私はすぐに違和感を覚えた。
一つは、王妃席をそのまま空けた案。
もう一つは、そこへ《《殿下付の補佐役》》を置く案だった。
名前は書いていない。
でも、誰を置くつもりなのかくらいはすぐ分かる。
「露骨ですね」
私がそう言うと、マルタ女官は肩をすくめた。
「王宮はそういうところです」
クラウディア次席儀礼官も、窓際から紙へ目をやる。
「隣を空ければ欠けているように見える。誰かを置けば噂が立つ。どちらも面倒」
「だから空けます」
私は即答した。
「完全に」
マルタ女官が少しだけ目を細める。
「昨日も同じことを言っていたけれど、今日はもっと露骨な圧が来るわよ」
「承知しています」
私は答える。
「でも、空けた席を《《暫定の誰か》》で埋めたら、その瞬間にその人が《《王妃の代用品》》になります」
一拍置く。
「私は、その席に座りたくありません」
言い切ってから、自分の中に驚くほど迷いがないことに気づいた。
少し前までの私なら、「必要なら」と曖昧に受け取っていただろう。
でも今は違う。
あそこへ座った瞬間に、私はまた《《何かの代わり》》になる。
それだけはもう、嫌だった。
「私の机は、殿下の隣より先に守るべき席です」
部屋が少し静まった。
エミルが手を止め、ロッテもこちらを見る。
言葉にしてしまえば、妙にすっきりした。
そうだ。
欲しいのは隣の席ではない。
その席を持った上で、隣も自分で選ぶことだ。
「よく言ったわ」
クラウディア次席儀礼官が静かに言った。
「そうでなければ、せっかく作り始めた仕組みがまた《《一人の女性が全部受ける形》》へ戻るもの」
「戻したくありません」
私は頷く。
「王妃不在だからこそ、なおさら」
そこへ、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのはヴァルブルク公爵令嬢だった。
今日も淡い青の装いで、でも昨日より少しだけ仕事の顔をしている。
「失礼いたします」
彼女は一礼したあと、私の机の上の席次を一目見て、すぐに理解したらしい。
「なるほど。もう始まっていましたのね」
「何がでしょう」
私が訊くと、彼女は少しだけ笑った。
「殿下の隣に誰を置くかの話です」
あまりに率直で、私は少しだけ困った。
でも同時に、この人はやはり好ましいとも思う。
隠して濁すより、こうして最初に形へしてしまったほうが楽だからだ。
「私を置く案が回っていました」
私は言う。
「却下しましたが」
「でしょうね」
フロレンティアは頷く。
「あなたはそうすると思っていましたわ」
「なぜですか」
少しだけ本気で訊いた。
昨日今日で、そこまで読まれているのは複雑だったからだ。
「机を守りたい人の顔をしているからです」
彼女はさらりと言う。
「殿下の隣の席を欲しがる人は、もっと別の目をしますもの」
その言葉に、私は返事を失った。
それは、かなり正確だった。
そして、その正確さが少しだけ嬉しかった。
「でしたら」
フロレンティアは机へ一歩近づく。
「わたくしは、空席に見えないための壁になりましょうか」
「壁?」
「ええ。殿下の隣へ座るのではなく、その周囲の視線を受ける側です」
彼女は、自分の紙束を私の隣へ置いた。
「王妃不在の夜会で、一番先に噂が立つのは主催者席です。なら、噂好きの夫人方をそちらへ引きつける役が必要でしょう?」
私は息を呑んだ。
そこまで読んでいるのかと思う。
そして、それを自分で引き受けるのかとも。
「よろしいのですか」
「よろしいも何も」
フロレンティアは肩をすくめた。
「わたくし、噂の顔を向けられるのには慣れておりますの」
その言い方には軽さがあった。
でも、その軽さの下に積もったものも、たぶん少しだけ見えた。
この人もまた、違う形で見られることへ慣れすぎているのだろう。
「助かります」
私がそう言うと、彼女は少しだけ目を細める。
「互いに、机を守りましょう」
その一言に、なぜか深く頷いてしまった。
そうか。
競うとか譲るとかではなく、守るなのだ。
自分の席を。
自分のやり方を。
そういう意味で、この人はたしかに敵ではなかった。
その日のうちに、主催者席まわりの配置は決まった。
王弟席の隣は空ける。
でも空白に見せないよう、視線の中心を会談卓と歓迎列へずらす。
フロレンティアは北列の受けと、噂好きの夫人方の視線を受け止める位置へ。
私は工程板の外側から、全体の流れを見る席のまま。
これでいい。
少なくとも今日は、そう思えた。
次話は明日の19:40投稿予定です。
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