第十一話 王宮へ戻った娘を、家はまた便利に使いたがる
母からの手紙を受け取ったあと、私はすぐには動かなかった。
まずは仕事を片づける。
それがいまの私の最優先だと、自分へ言い聞かせるように机へ向かう。
王女殿下の婚約披露式典まで、あと十日。
北部公爵夫人への返書はすでに走らせた。
その返答が来る前に、私は婚約相手側の親族配置と王妃宮の動線表を一度合わせておきたかった。
家から呼び出されたからといって、そこを中途半端なまま席を立つのは嫌だった。
「エルシェナ嬢」
マルタ女官が、私の手元の札束を見ながら小さく言う。
「行かれないのかと思っていました」
「行きます」
私は答えた。
「でも、仕事を途中で止めるつもりはありません」
マルタ女官は眼鏡の奥で少しだけ目を細める。
昨日までの彼女なら、その返答に何も言わなかっただろう。
でも今は違う。
「それでいいと思います」
短い一言だった。
けれど、その肯定は思ったより嬉しかった。
前なら、家から呼ばれればそちらを優先するのが当然だった。
今の私は違う。
違っていいのだと、こうして誰かが示してくれるのはありがたい。
昼過ぎ、ようやく最低限の配置確認が終わったところで、私は席を立った。
マルタ女官へ、外出中は招待状の清書だけ進めておいてほしいと頼む。
エミルには、婚約相手側の親族名簿を写し終えたら王妃宮へ一部回すよう伝えた。
どちらも、もう私が細かく説明しなくても通じる。
それが少しだけ嬉しい。
「戻られたら、北部公爵夫人の返答も届いているかもしれません」
エミルが紙束を抱えたまま言った。
「そのときは、そのときです」
私は軽く微笑んで答える。
仕事は仕事。
家は家。
その順番を、ようやく自分で決められるようになってきた。
家族を通したのは、王宮の外側にある小さな応接間だった。
王家儀礼局の書記室へ直接入れる気はない。
そこはもう私の職場であって、家の都合を持ち込む場所ではないからだ。
扉を開けると、父と母、それからリネットが揃って立ち上がった。
昨日までの園遊会の混乱と、今朝届いた母の手紙から、おおよその予想はしていた。
でも実際に三人の顔を見ると、予想よりさらに《《都合のいいお願い》》が来るのだろうとも分かった。
「エルシェナ」
母が先に口を開く。
表情には心配そうな色を浮かべていたが、目の奥はせわしない。
本気で娘を案じているというより、話を早くまとめたい人の顔だった。
「忙しいところ呼びつけてしまってごめんなさいね」
「ええ、本当に忙しいです」
私は座る前に、あえてそう返した。
母の頬がわずかに強張る。
でも、ここで遠慮しても仕方がない。
「ご用件を伺います」
私が向かいの椅子へ腰を下ろすと、父が小さく咳払いをした。
嫌な予感しかしない前置きだった。
「王女殿下の婚約披露式典の件だ」
やはり、と思う。
そして同時に、やっぱりそう来るのか、とも思う。
家族というのは、どこまで行っても予想を裏切らない。
「リネットを列席させられないか」
父は言った。
「今回の園遊会の件で、少し評判を落としてしまっただろう。だが、王女殿下の披露式典のような正式な場へ顔を出せれば、王都の空気も変わる」
私は何も言わずに父を見る。
母がすかさず言葉を継いだ。
「もちろん無理は承知しているの。でも、あなたの一言があれば、招待枠を一つくらいは融通していただけるのではないかと思って」
「ついでに」
リネットが、小さく唇を尖らせて続けた。
「できれば、北部公爵夫人の甥君の近くがいいわ。あの方、まだ婚約者がお決まりでないのでしょう?」
私はそこで、初めて本気で眉をひそめた。
列席させろ、だけならまだ予想の範囲内だった。
でも、北部公爵夫人の甥君の近く。
その言い方は具体的すぎる。
「どうして、その位置を知っているの」
私が問うと、リネットが一瞬だけ口をつぐむ。
母と父も、そこでようやくまずいと気づいた顔をした。
「知っている、というほどでは……」
母が慌てて笑みを作る。
「ほら、王都ではいろいろ噂が流れるでしょう?」
「噂では分かりません」
私はきっぱり言った。
「まだ正式な席次は引いていません。引いていたとしても、それを外が知るはずがない」
部屋が静まり返る。
父が不機嫌そうに眉を寄せた。
でも、これは嫌味ではない。
本当にまずいのだ。
席次の具体が家族の耳へ入っているということは、儀礼局の中から何かが漏れている可能性がある。
「そんな細かいことはいいじゃない」
リネットが少し強い声で言った。
焦っているのだろう。
でもその一言で、私の中の何かがすっと冷えた。
「よくありません」
私は静かに答える。
「そして、式典へあなたを列席させることもできません」
母が息を呑み、父が顔をしかめる。
リネットはすぐに泣きそうな顔になった。
「どうしてよ」
「どうしても何も、王女殿下の婚約披露式典は《《家の婚活の場》》ではないからです」
私は一つずつ、言葉を置く。
「私が今やっているのは王家の儀礼です。うちの都合で招待枠を増やしたり、席をねじ込んだりするつもりはありません」
「でも、お前が今そこで働いているのなら」
父が苛立ちを隠さず言った。
「家のために少しくらい便宜を――」
「それは前にも申し上げました」
私は父の言葉を静かに遮る。
「私はもう、《《家のために都合よく使われる娘》》ではありません」
母の顔から色が引いた。
でも私は止めない。
ここを曖昧にしたら、また同じことを繰り返すだけだ。
「私は王家儀礼局補佐官として席をいただいています。そこの席を、家の評判を戻すために使うつもりはありません」
「エルシェナ、お前は最近ずいぶん冷たい」
父が低く言う。
「家族が困っているのだぞ」
「ええ」
私は頷いた。
「でも、困るたびに私を呼んで、何とかさせるのはもう終わりにしたいのです」
リネットが、はっとしたように私を見た。
たぶん今の言葉は、この子にとっていちばん分かりやすい拒絶だったのだろう。
「お姉様」
彼女は泣きそうな声で言う。
「わたくし、ただ一度失敗しただけじゃない」
「そうね」
私は認める。
「でも、その一度を私の一言で帳消しにしようとしている」
リネットの唇が震えた。
言い返せないのだろう。
でも、それでいい。
これまで私は、彼女が困るたびに何かを譲ってきた。
座も、時間も、手間も、立場も。
だからこそ、ここで初めて渡さないことに意味がある。
「あなたは、自分でどうにかするべきよ」
私は言う。
「今度ばかりは」
母が扇を握る手へ力を込める。
そのしぐさは、怒りというより焦りだった。
計画が崩れたときの顔だ。
「ならせめて、王妃殿下へ良いお言葉だけでも」
「母上」
私は小さく首を振った。
「王妃殿下は、そういう取りなしのためにいらっしゃる方ではありません」
そこで、父が苛立ちまぎれに言った。
「お前は、自分だけ良い席を得たからそう言えるのだ!」
私はその一言を、ひどく静かに聞いた。
怒るより先に、ああ、この人たちは本当にそこなのだと思った。
仕事を得たことではなく、《《良い席を得た》》としか見ていない。
つまり今もまだ、私が何をしているかを見ようとしていないのだ。
「いいえ」
私は静かに答える。
「私が得たのは、良い席ではなく、自分の机です」
誰もすぐには反応できなかった。
その隙に、私は続ける。
「誰かの隣に立つための場所ではなく、自分の名前で座る場所です。だから、そこを家の都合で動かすつもりはありません」
父が口を開きかけ、閉じる。
母も同じだった。
たぶんこの人たちには、机の話はまだよく分からないのだろう。
でも、分からないならそれでもいい。
理解されるまで待つ必要はないのだと、ようやく私も知ったから。
「……もう一つだけ」
私はリネットを見た。
「誰から席次の話を聞いたの?」
彼女がびくっと肩を揺らす。
「え」
「北部公爵夫人の甥君の近く、と言ったでしょう」
私は視線を逸らさずに訊く。
「それは、誰から聞いたの?」
リネットは母を見た。
母は父を見た。
父は明らかに不機嫌そうに咳払いをした。
「知り合いの女官から少し聞いただけだ」
私は息を止めた。
知り合いの女官。
それだけで十分だった。
儀礼局の中か、王妃宮か、どこかで誰かが情報を漏らしている。
しかも家族相手に、かなり具体的な話まで。
「分かりました」
私は立ち上がった。
「ご用件は以上ですね」
母が何か言いかけたが、私はもう聞かなかった。
ここでこれ以上話しても、同じところを回るだけだ。
「今後、王家儀礼に関する相談は、私個人ではなく正式な窓口を通してください」
それだけ告げて、私は扉へ向かった。
父が後ろで私の名を呼んだ気がした。
でも、振り返らない。
もう、呼ばれたら戻る娘ではないのだから。
応接間を出て、廊下を歩く。
胸の内側は静かだった。
少し前の私なら、罪悪感でもっと苦しくなっていたかもしれない。
でも今は違う。
あれは冷酷な拒絶ではなく、必要な線引きだと分かっている。
王家儀礼局へ戻ると、マルタ女官が一目で何かを察したらしい。
でも何も訊かなかった。
代わりに、机の上へ新しい封筒を一つ置く。
「北部公爵夫人から返書です」
私は頷き、封を切る。
文面は短い。
《《出席します。ご配慮に感謝します》》。
それだけだった。
でも十分だ。
まず一つ、崩れる予定だった場所は立て直せた。
「……もう一つ、お願いが」
私は封書を閉じてから言った。
「王宮内で、式典の席次や候補に関する話を私的に漏らしている者がいるかもしれません。念のため、今後の写しの出入りを絞っていただけますか」
マルタ女官の目が細くなる。
「何かあったのね」
「家から、知るはずのない具体が出ました」
それだけで、彼女には十分だったらしい。
すぐに頷く。
「絞ります。写しの持ち出しは私とクラウディア次席だけに」
「ありがとうございます」
そのやりとりを、少し離れた窓際からレオンハルト殿下が見ていた。
彼は何も言わなかった。
でも、視線だけでだいたい分かったという顔をしている。
「家の都合、ですか」
やがて、低い声が落ちる。
「ええ」
私は机へ座りながら答えた。
「でも、もう仕事は仕事として分けます」
彼はわずかに目を細めた。
「そうしてくれ」
短い返事。
それだけなのに、不思議と少し救われる。
私は机の引き出しを開け、家からの手紙を一番下へしまった。
もうこれは、仕事の上では《《邪魔な紙》》でしかない。
少なくとも今の私には。
机の上には、次の名簿が待っている。
王女殿下の婚約披露式典は、まだ始まってもいないのに、もう十分に面倒だ。
でも、その面倒さが今はむしろありがたかった。
やることがある限り、自分がどこにいるのかを見失わずに済むからだ。
次話は明日の19:40投稿予定です。
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