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第36話 小さな社は、祈るだけの場所ではない

猫目と別れたあともしばらく、わしの頭の中では「話す場所そのものが半分の中身だ」という言葉がごろごろ転がっていた。


面倒な話である。


いや、面倒で済めばまだよいのだが、あれはつまり、わしが今まで町を半分しか見ておらなんだということでもある。どこを通れば早いか、どこで飯にありつけるか、どこに顔見知りがいて、どこにうるさい犬が寝ておるか。そういう町の見方は知っておる。


だが猫目の言う町は違う。


どこで言葉が拾われ、どこで埋もれ、どこで足音が死に、どこで顔が立つか――そういう町だ。


「忍びというのは、本当に面倒なことばかり考えるのう」


思わずそう呟いてから、いや待てよ、と首をかしげる。


考えてみれば、巫女も似たようなことを言うておったではないか。入口ばかり歩いておる、とか、今はまだ答えぬ方がよい、とか、尾張のうつけに近づく者は前のままでは戻れぬとか。あの娘も、言葉そのものよりも、言葉を置くタイミングや場所をよく選んでおる。


そう思うと、足は自然と小社の方へ向いていた。


「いかんな、いかん」

と自分へ言う。

「近ごろ、女に言われたことを考えると、すぐその娘のところへ足が向く」

だが、次の瞬間にはもう別の理屈をつけておる。

「いや、これは女のところへ行くのではない。小社の空気を見るのじゃ。話はついでじゃ」


ついで、で済むかどうかはさておき、昼を少し回った城下外れの小社は、今日も静かだった。


大きな寺のような威圧はない。

町の店先のような賑わいもない。

だが、だからこそ人が顔を出しやすいのだろう。何かを祈るふりをして立ち寄ることもできるし、ちょっとした包みを置いていっても不自然ではない。誰かと長く立ち話をしなくても、鳥居をくぐって鈴を鳴らせば、それだけで用向きが立つ。


「なるほどのう」


猫目の言う“話す場所”と同じだ。

ここは、来る理由をいくらでも作れる場所なのだ。


鳥居をくぐると、掃き清められた砂の上に細い箒目が残っていた。雨の名残はもうほとんどない。社殿の前には小さな供えがあり、誰かが今朝方、野の花を一輪置いたらしい。人の来ぬ場所ではない。だが、人が多すぎることもない。そういうちょうどよさがある。


「来ると思うておった」


社の脇から声がした。


振り向けば、巫女である。


白と緋の装束は相変わらず目を引く。だが、前のように“神がかりめいた娘”として立っておるのではなく、今日はもっと自然に、社の内に馴染んで見えた。箒を片手に持ち、朝の掃き掃除の続きをしておったのかもしれぬ。


「思われておったか」

と、わし。

「おぬしの足は、気になった場所を二度見に来る」

「二度で済めばよいがのう」

「たぶん済まぬ」


ひどい言いようだが、否定しにくい。


わしは社の前で軽く手を合わせ、それから巫女の方を見た。

「のう」

「何だ」

「ここは、本当にただ祈るだけの場所か」

巫女は箒を止めた。

「違うと思うて来たか」

「半分はな」

「残り半分は」

「おぬしが妙なことを言う場所だから」

「余計な方が先か」

「たいてい、そうじゃ」


巫女はほんの少しだけ口元を和らげた。笑うたのかと思うほどには動かぬ。だが、嫌がってもおらぬらしい。


「祈るだけなら」

と、巫女は静かに言った。

「社はもっと暇だ」

「ほう」

「神頼みばかりで社が回るほど、世は呑気ではない」

「だいぶ俗な言い方じゃのう」

「現に俗だ」


その返しが、妙にあっさりしていて、わしは思わず笑ってしまった。


「巫女がそう言うか」

「巫女だからこそ言う」

「どういう理屈じゃ」

「毎日ここへ来る者の顔を見ておれば分かる」


巫女は箒を脇へ置き、社殿の縁を軽く払った。


「村の者は、田の水や病のことを願う」

と、娘。

「町の者は、商いが転ばぬよう願う」

「うむ」

「武家は、体よく祈祷の顔をして用を置いていく」

「……」

「寺の者は、社へ来た形だけを残して帰ることもある」

「形だけ?」

「うむ」

「それは、祈っておるのではないのか」

「祈る顔をしておるだけの場合もある」


なるほど。


これもまた、“顔”の話か。


武家の内では、言葉の意味がそのままではない。

町では、笑っておる顔の下に勘定がある。

そしてこの社では、祈るという形そのものが、別の意味を持つことがある。


「つまり」

と、わしは顎を撫でる。

「ここは、“来ても不自然でない場所”なのだな」

巫女の目が、わずかに細くなった。

「そこまで見えたか」

「少しずつ、女たちに鍛えられておる」

「何だその言い方は」

「猫目には話す場所を叩き込まれ、おぬしには入口ばかり歩くなと言われ、町娘には町の顔で帰ってこいと叱られる」

「……」

「近ごろ難しい娘が多い」

「おぬしの方が難しいのだろう」


それは、そうかもしれぬ。


だが、巫女は今ので少し機嫌がよくなったようだった。機嫌がよいと言うても、目に見えて笑うわけではない。だが、言葉の落ち方が少し軽い。


「社はな」

と、巫女は続ける。

「誰が来てもおかしくない」

「うむ」

「村の娘が来ても、武家の侍女が来ても、寺の小僧が来ても、町の親父が来ても、それぞれ“用向きがあって当然”に見える」

「だから便利」

「便利、とは言わぬ」

「では」

「……人の願いが、ここを通りやすい」

「おお」

「ただし、願いそのものばかりではない」

「包みも通る」

巫女は黙った。


今の沈黙は、図星に近い時のものだと、近ごろ少し分かるようになってきた。皆して、言葉より沈黙の方が雄弁なのだから困る。


「この前も」

と、わしは何でもないふうに言う。

「ここへ小さな包みを届けた」

「知っている」

「やはりか」

「見ていた」

「どこから」

「それは言わぬ」

「神の目か」

「ただの目だ」


巫女はそう言って、社殿の柱へそっと手を置いた。


「ここは、祈る場だ」

と、娘。

「だが、人は祈る時、自分の都合も持ち込む」

「それは、まあ、そうじゃろうな」

「病を治したい、雨を呼びたい、縁を結びたい、争いを避けたい」

「うむ」

「そして時には、誰かへ渡したいものを、いちばん角の立たぬ形で置いていく」

「……」

「社へ包みを供えた、と言えば、それで済むこともある」

「便利ではないか」

「だから便利とは言わぬ」


やはり、そこは少し嫌なのだろう。


社というのは、清い場所だ。だが清い場所だからこそ、人はそこへ自分の後ろ暗さまで薄く塗って持ち込める。祈りの形を借りれば、露骨なやり取りに見えぬ。そういう危うさがあるのかもしれぬ。


「のう」

と、わし。

「おぬしは、そういうのを嫌うか」

「何を」

「祈りの場が、別の顔も持つことを」

巫女は少しだけ空を見た。

「嫌う、というほど簡単でもない」

「ほう」

「人は現に、そうして生きておる」

「うむ」

「祈りと現実を、きれいに分けられるほど、誰も器用ではない」

「……」

「ただ」

「ただ?」

「祈る顔だけで済むと思うて来る者は少ない」


その言い方が、妙に本質を突いている気がした。


寺も武家も町も村も、皆、表の顔だけでは済まぬ。社だけがそうでないはずもない、ということなのだろう。


わしはしばらく黙って社の前を眺めた。

小さい。

静かだ。

だが静かな場所ほど、目立たぬものがよく通る。


「城下は、どこも二つ顔を持っておるのう」

と、わしが言うと、

巫女は短く答えた。

「二つで済めば、まだましだ」

「おお」

「町はもっと多い」

「では、おぬしも」

「何だ」

「巫女の顔と、それ以外の顔を持つか」

巫女は少しだけこちらを見た。

「おぬしは、聞かぬ方が長生きするぞ」

「皆、それを言う」

「皆が言うなら、本当なのだろう」

「その理屈も、もう聞き飽きた」

「では、少しは学べ」


容赦がない。


だが、それでよい。


猫目が刃なら、この娘は鈴のようだ。鋭くはない。だが、鳴ると妙に長く残る。


「入口ばかり歩いておる」

と、巫女はぽつりと言った。


以前にも聞いた言葉だ。


「うむ」

と、わし。

「それは覚えておる」

「覚えておるだけか」

「少しは意味も考えた」

「それで」

「村の水路も、寺の裏も、武家屋敷の門前も、この社も」

「……」

「皆、入口のようなものじゃろう」

巫女はほんの少しだけ目を細めた。

「続けろ」

「中へ入る前に、顔だけ見せる場所だ」

「うむ」

「人が何かを隠しつつ、出入りする」

「うむ」

「わしは、そこばかり歩いておる」


巫女は静かに頷いた。


どうやら、そこまでは外しておらぬらしい。


「では、そろそろ」

と、娘。

「中へ入るか、戻るかを迫られる」

「それは、この前も言うたのう」

「同じことを、同じまま聞くな」

「……」

「入口ばかり歩いておれば、いつかどちらかへ足を取られる」

「中へ入る、とは」

「それは自分で知れ」

「戻る、とは」

「それもだ」

「やはり難しい娘じゃ」

「おぬしが、簡単な答えを欲しがりすぎる」


それはそうかもしれぬ。


町では、だいたい答えは早い。売れるか、売れぬか。飯があるか、ないか。腹が減ったか、まだ持つか。だが近ごろのわしが足を突っ込んでおる場所では、答えはみな少し遅れて来るらしい。


簾の内では、同じ言葉でも意味が違う。

猫目は、話す場所で中身が変わると言う。

巫女は、入口ばかりではいずれ足を取られると言う。


「……やれやれ」

と、わしは息を吐いた。

「何だ」

「飯の種を探しておるだけの男には、だいぶ荷が重い」

「本当に、飯の種だけか」

「半分は」

「残り半分は」

「近づいた以上、少しは見ておきたい」

「それだ」

巫女の声が少しだけ鋭くなる。

「おぬしは“見たい”で足を出す」

「悪いことか」

「悪い時もある」

「誰も彼も、同じようなことを言う」

「皆、同じ匂いを嗅いでおるのだろう」


それは、妙に面白い言い方だった。


「巫女も匂いを嗅ぐか」

「風に混じる」

「便利じゃのう」

「おぬしの腹ほどではない」

「それは褒めておるのか」

「違う」


やはり容赦がない。


だが、その時、社の外をひとりの女が通った。町娘とも侍女ともつかぬ地味な格好。社の前で軽く頭を下げ、そのまま去っていく。巫女は何も言わぬ。だが、目だけはその背を見ていた。


「そういう者も」

と、わしが言う。

「ここへ寄るのか」

「誰でも来る」

「そして、誰でも“来ても不自然ではない”」

「そうだ」

「やはり、ここは……」

「祈るだけの場所ではない」


巫女は、前より少しだけはっきりと言い切った。


その一言で、わしは腹の底が少しだけ冷えた気がした。

つまり、この娘自身も、もう誤魔化すつもりはないのだ。

社がただの神域ではなく、人と物と願いと都合が交わる“節”になっておることを。


「おぬし」

と、巫女が言った。

「何だ」

「今はまだ、入口を歩いておれ」

「ほう」

「自分から中へ飛び込むな」

「それはありがたい忠告か」

「忠告だ」

「では従うべきか」

「少しはな」

「また“少し”か」

「おぬしには、それくらいがちょうどよい」


そう言って、巫女は箒を持ち直した。話はここまでということらしい。


わしは社へもう一度手を合わせた。神に祈ったのか、巫女に礼をしたのか、自分でも少し曖昧だったが、それもこの小社らしい。


鳥居をくぐって町へ戻りながら、わしは思う。


寺も、武家も、町も、村も、小社も。

どこも一つの顔では済まぬ。

そして、何者でもない若造のわしは、その入口ばかりをうろついておる。


「……そろそろ、中へ入るか、戻るか、か」


巫女の言葉はやはり、すぐには答えをくれぬ。


だが、だからこそ、妙に頭へ残るのだろう。

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