第37話 下働きの耳は、殿様の目よりよく拾う
小社を出たあと、わしの足はまっすぐ町の方へ戻った。戻ったのだが、頭の方はまるでまっすぐではなかった。
入口ばかり歩いておる。
自分から中へ飛び込むな。
祈るだけの場所ではない。
巫女の言葉は、相変わらず後からじわじわ効く。あの娘は、聞いたその場では「また妙なことを」と思わせるくせに、歩き出すと急に足元へ絡んでくるようなことを言うのだ。だいぶ性質が悪い。
「近ごろ、女どもに頭を回されてばかりじゃのう」
そうぼやいてから、いや待てよ、とわしは顔をしかめた。
女ども、はよくない。おつねに聞かれたら間違いなく叩かれる。猫目なら低い声で脅してくる。農村娘なら真顔で「その口を縫え」と言いそうだ。簾の向こうの娘は、たぶん静かに笑う。巫女は、たぶん「その軽さが足を取る」とでも言うだろう。
「……やれやれ」
結局、わしの周りの娘は皆、ろくに気を抜かせてくれぬらしい。
だがそれはそれとして、今日はもうひとつ気になることがあった。巫女の言う通り、むやみに中へ飛び込むつもりはない。だが、入口を歩いておるだけでも見えるものはある。とくに、武家屋敷のような大きな家ではそうだ。
殿様の目が届くのは、たいてい遠くである。
だが、日々の細かな異変を先に拾うのは、だいたい下の者の耳だ。
そういうことを、このところ何となく感じていた。
武家屋敷へ用がないわけではなかった。先日の小さな使いの戻りで、屋敷づきの女房から「また呼ぶやもしれぬ」とは言われている。ならば、顔を出して損はない。向こうが使う気なら、顔を忘れられぬうちがよい。
もっとも、そういう理屈を自分でつけておる時点で、半分はただ気になっておるだけでもあるのだが。
北の方の武家屋敷へ着くと、門前は今日もきちんとしていた。塀は白く、門は静かで、庭木の先だけが少し風に揺れている。何事もなさそうな顔をしておる。だが、こういう場所ほど、内では何かしら動いておるのだ。
門番へ顔を見せると、向こうももう「あの若いの」という程度には覚えていたらしい。
「日吉丸か」
「はい」
「少し待て」
「承知」
これだけでも、前とは違う。初めて来た頃なら、もっと“何用だ”の顔が強かった。今は、“屋敷に関わる用があってもおかしくない若いの”として見られておるのだろう。
待つ間、門の内をぼんやり眺める。
下男が水を運んでおる。
侍女が盆を抱えて廊下を渡る。
年かさの女房が、若い娘へ何か言いつけておる。
どれも静かだ。だが静かなだけに、時々漏れる小声が妙に耳へ残る。
「――だから、あちらへは今日のうちに」
「――いや、若様のお耳にはまだ」
「――寺からの返しが先です」
「――お方がお聞きになれば……」
言葉の端だけが切れて、意味までは届かぬ。だが、それでも十分に分かることがある。
屋敷の中は、ひとつの考えで動いておるわけではない。
わしがそんなふうにぼんやり耳を立てておると、ふいに横から声がした。
「また来たのかい」
若い侍女だった。
以前、庭先で一度見た顔である。年はおつねとそう変わるまい。だが、目の使い方が町娘とは違う。ぱっと笑うようでいて、ちゃんとこちらの様子を量っておる。
「来たとも」
と、わし。
「嫌か」
「嫌なら声などかけぬよ」
「それは光栄」
「その返し、好きだねえ」
「便利なので」
「便利に生きておる顔だ」
その言い方に、少しだけ笑う。
町娘のおつねとは違う。あちらはもっとまっすぐに刺す。だが、この侍女の言葉には、屋敷勤めらしい半歩の引きがある。からかうようでいて、どこまで踏み込むかをちゃんと見ている。
「今日は何の用だい」
と、侍女。
「まだ決まってはおらぬ」
「決まっておらぬのに来るのか」
「顔を忘れられぬうちがよいのでな」
「ふうん」
侍女は少し目を細めた。
「そういうところ、町の男らしいね」
「よい意味か」
「さあね」
そこへ、別の侍女が近づいてきた。こちらは年が少し上で、顔つきもきりりとしておる。
「あまり喋るな」
と、その侍女は若い方へ言う。
「門前で軽口を叩いていると、また女房殿に睨まれるよ」
「だって、この若いの、面白いんだもの」
「面白いで済む顔ではないだろう」
「どっちだい」
「町の顔をしておるくせに、耳だけはよく拾いそうだ」
「おお」
と、わしは思わず声を漏らす。
「それは褒めておるか」
「黙っておれ」
と、きりりとした侍女。
「はい」
だが今の一言で、こちらが“見た目より拾う”男だという認識が、屋敷の下の方にも少しは広がっておるのだと分かった。これはよいのか悪いのか。半分はよく、半分は危ない。
若い侍女が、わしへ少し身を寄せるようにして小声で言うた。
「おぬし、また使われるんだろう」
「どうであろうな」
「だろうよ」
「なぜ分かる」
「近ごろ、下の者の間でも名前が出るからさ」
「わしのか」
「そう。“口は軽そうだが、足は使える若いの”ってね」
「……」
「誉められてるんだか、馬鹿にされてるんだか分からない顔をするね」
「その通りじゃ」
「それがまた、ちょっと面白い」
すると横の年上侍女が、少しだけ低い声になった。
「面白がっている場合ではないよ」
「何だい」
「今、屋敷の中は少しぴりついてる」
若い侍女が口をつぐむ。
わしも、つい耳をそばだててしまう。
年上侍女は、こちらを見て少しだけ迷うような顔をしたが、どうせ門前で全部を隠せるとも思わなかったのだろう。ごく小さく言った。
「寺の顔をどう立てるかで、内でも意見が割れてる」
「おい」
と若い侍女。
「それ以上は」
「分かってるよ」
年上侍女はそう返してから、わしへ向き直った。
「聞いても口に出すな」
「それは、少し自信がない」
「なら、耳を閉じろ」
「それも難しい」
「面倒な男だね」
「近ごろ、よう言われる」
若い侍女が、くす、と笑いかけたが、すぐに気配を引き締めた。
門の内から、また別の年かさの女房が出てきたからだ。さきほどのきびきびした女房とは別人だが、こちらもだいぶ厳しそうである。
「何をしている」
と、女房。
「若いのが門前で口を遊ばせていては見苦しい」
侍女二人が慌てて頭を下げる。
「申し訳ございませぬ」
「申し訳」
と、わしもつられて言いかけて、
「おぬしは頭を下げる前に口を閉じよ」
と切られた。
「はい」
やれやれ、まったくその通りである。
だが、こうして見ていると、屋敷というものはおもしろい。上がどう決めるかより先に、下の者らの間に空気が広がる。寺を重く見るか、そうでないか。誰の顔を立てるべきか。どの意見が通りそうか。そういうものを、まず下の耳が拾うのだ。
殿様の目は遠くを見ているかもしれぬ。
だが、床のきしみや、女房の声色や、侍女が息を呑む間合いまでは、下の耳の方が先によく聞く。
その時、廊下の奥で、別の侍女が慌ただしく走りかけ、年かさの女房に止められた。
「走るな」
「申し訳ございませぬ、ただ、お方が」
「お方がどうした」
「……」
侍女は一瞬、こちらを見た。
その“見た”が、だいぶ雄弁だった。
わしのような外の若いのが門前におる以上、ここから先は言えぬ、という顔だ。言えぬが、言い淀む時点で、何かしら内で動いておるのも分かる。
年かさの女房が、低く言う。
「内で言え」
「は」
侍女は頭を下げて引っ込んだ。
若い方の侍女が、わしへ小さく囁く。
「ほらね」
「何が」
「大きな家ほど、下の耳が忙しい」
「……」
「何か起きる前に、まず空気が走る」
それは、ほんにその通りだった。
城下の店でも似たようなことはある。客の顔色、仕入れの値、近所の噂。だが武家屋敷では、その“空気”がもっと重い。誰の顔が曇り、誰が急ぎ、誰が黙るか。それだけで、下の者は何かを察するのだろう。
「おぬしら」
と、わしは少し感心して言う。
「だいぶ拾うのう」
若い侍女が肩をすくめる。
「そうでもないよ」
年上侍女が代わりに答える。
「拾わねば、踏まれる」
「……」
「上の者は、決める時は突然決める。だがその前に、少しずつ空気は変わる」
「それを耳で拾う」
「そうだ」
なるほど。
そう考えると、わしも今、武家屋敷の“決まり”そのものではなく、“決まる前の空気”を見ておるのかもしれぬ。そこに寺が絡み、町が絡み、時に村まで影を落とす。
「のう」
と、若い侍女が急に言う。
「何だ」
「おぬし、あのお方とどこまで喋った」
年上侍女が、すぐに「こら」と小声で止めたが、もう遅い。
あのお方。
つまり、簾の向こうの娘のことだろう。
「どこまで、と申されても」
と、わし。
「だいぶ簾が厚いので」
若い侍女がふきだしかける。
「そういう意味じゃない」
「では」
「何を話すのかってことだよ」
「町のこと、村のこと、腹のこと」
「最後のは要るか?」
「大事なことゆえ」
若い侍女はとうとう小さく笑った。
だが、年上侍女は笑わずに、じっとこちらを見た。
「……あのお方は、近ごろ、内でも口をお持ちになる」
「ほう」
「前はもっと、聞くだけだった」
「今は違う」
「違う。女房衆の前でも、年長の者の前でも、黙っておらぬ時がある」
若い侍女がぽつりと足す。
「皆、少しびくびくしてる」
「おい」
「だって本当じゃないか」
「本当でも、口にするな」
「門前でなければよいのかい」
「そういうことではない」
だが、今ので十分だった。
簾の向こうの娘は、ただの奥向きの娘ではない。屋敷の内でも、少しずつ意見を持ち、口を差し挟み、誰かを動かす側へ寄り始めておるのだろう。
それは、何となく分かってはいた。簾越しの言葉の置き方、外の空気を知りたがる聞き方、わしのような若造をただの荷運びとしてだけでは見ておらぬ気配。そういうものの全部が、やはり“ただ守られるだけではない娘”を示していた。
だが、屋敷の下の者らの口からそれを聞くと、重みが違う。
「……なるほどのう」
と、わしは小さく言った。
若い侍女が首を傾げる。
「何が」
「いや」
「また一人で面白がっておる顔だ」
「そんな顔か」
「そうだよ」
年上侍女が低く言う。
「面白がるな」
「すまぬ」
「ここは、面白いで済む場所ではない」
「それも、よう分かってきた」
今のは、本気だった。
屋敷の内で意見を持つ娘。
それを快く思わぬ者も、頼る者もいる。
寺との距離ひとつでも、内の空気は揺れる。
そういう場所なのだ。
そこへ、門の内からいつものきびきびした女房が現れた。
「日吉丸」
「はい」
「待たせた」
「いえ」
「今日は使いはない」
「ほう」
「だが、顔を見せたことは伝えておく」
「ありがたい」
「軽い」
「重々しく言いましょうか」
「やめよ」
若い侍女が、横でまた笑いをこらえている。
女房はそれに気づいたが、今は見逃したらしい。わしへ向き直って言った。
「余計な耳を使うな」
「それは難しい」
「知っている」
「皆、同じことを言うのう」
「皆が言うなら、本当なのだろう」
「その理屈も、もう板についてきた」
女房は呆れたように息をついた。
「帰れ」
と、短く言う。
「承知」
わしは一礼し、門を出た。
背後で門が静かに閉じる。城下のざわめきがまた耳へ戻ってくる。だが、今はさっきまでより少しだけ、屋敷の内の空気が町のざわめきへ混じって聞こえる気がした。
下働きの耳は、殿様の目よりよく拾う。
それはたぶん、本当だ。
大きな家ほど、上は遠くを見て、下は足元の揺れを聞く。
そして、簾の向こうの娘は、その揺れの中で少しずつ“口を持つ”ようになっているらしい。
「……面白い」
思わずそう呟いてから、すぐに頭を振った。
面白いで済ませるな、と、皆に言われたばかりだ。
だが面白いものは面白い。
そして、その面白さの先には、たいてい厄介が待っておる。




