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第35話 猫目、道の真ん中では話さぬ

寺の小僧と別れたあとも、わしの頭にはあの帳面の端が残っていた。


見ようと思うて見たわけではない。だが見えてしまった。武家屋敷のものに似た家印。しかも、小僧が運ばされていたのは、薬種屋だの紙屋だの、近ごろわし自身も何度か走った筋ばかりである。


偶然、と言ってしまえばそれまでだ。


城下は狭い。狭いが顔は多い。寺も町も武家も、どこかで荷と人をやり取りするのは当たり前とも言える。だが、当たり前の中に妙な偏りが出始めると、それは急に“匂い”になる。


「いかんな」

と、わしはひとりごちた。

「また鼻が余計な方へ向いておる」


こういう時は、おつねなら「余計なことだ」と叱るだろう。農村娘なら「軽く扱うな」と言うだろう。巫女ならまた何やら意味深なことを置いていくだろう。


そして猫目なら――


「黙れ」

と言うに違いない。


そう思った矢先、ほんにその猫目を見つけてしまうのだから、人の縁というものはやはり妙である。


昼を少し過ぎた城下の通りは、人の流れがまだ切れぬ。菜を売る声も、魚を勧める声も、荷車の軋みも、まだ元気がある。そういう表通りの人混みの向こう、茶屋の暖簾の影から出てきた小柄な娘がいた。


地味な格好だ。小袖の色も地味、髪のまとめも地味、歩幅も目立たぬ。だが、地味なことが上手すぎる。普通の町娘は、もう少し人の流れに引っかかる。あの娘は違う。人のあいだの“抜け目”を先に見て歩いておる。


「猫目」


思わず声が出た。


娘の肩が、ほんのわずかに止まる。


そして、振り返った顔が、露骨に嫌そうであった。


「……おぬし」

「おお、いたか」

「いたか、ではない」

「探しておった」

「探すな」

「見つけてしまったのだから仕方ない」

「仕方なくない」


もっともである。


だが、今のわしには話したいことがあった。寺の小僧、帳面の端、武家屋敷の印、運ばされる筋。こういう話は、猫目の耳へ入れておいた方がよい気がする。よい気がするが――


「何だ」

と、猫目が低く言う。

「今、言え」

「寺の小僧がな」

「ここで言うな」


ぴしゃり、と切られた。


わしは目を瞬いた。

「まだ何も」

「寺と言った時点で十分だ」

「……」

「道の真ん中で、そういう話をするな」


その声音には、いつもの刺がある。だが今日はそれだけではなかった。本気で嫌がっている声である。嫌いだからではなく、今この場所でその話をされること自体がまずい、という嫌がり方だ。


わしは思わず辺りを見回した。


人は多い。多いが、誰もこちらをじっと見ておるわけではない。魚売りは魚売り、茶屋の親父は湯呑み、荷担ぎは荷担ぎを見ておる。だから、つい大丈夫な気がしてしまう。


だが猫目は違うのだろう。


「こっちだ」

と、娘が言う。


猫目は通りを横切り、人の少ない細い脇道へ折れた。そこは表の喧騒が少しだけ鈍る場所で、片側が空き地、片側が古い板塀になっている。人が全く来ぬわけではない。だが、誰かが立ち話をしておっても、いちいち耳を寄せぬ程度には“余白”がある。


猫目は塀の影へ身を寄せるように立ち、ようやくこちらを見た。


「今だ」

「怒るな」

「怒る」

「だいぶ怒っておる」

「当たり前だ」


そして、腕を組んだ。


「おぬし」

と、猫目。

「前から思うておったが、本当にその場で口へ出すな」

「そうか」

「そうだ」

「だが、気になったことは早く言うた方が」

「誰に」

「おぬしに」

「だから、それが危ないと言うておる」


わしはそこでようやく、少しだけ首をすくめた。


たしかに、そうなのだろう。町の真ん中で、寺だの武家だの薬種屋だのの話を切り出すのは、こちらにその気がなくても耳を拾われる。しかもわしは、見たことをついそのまま言う癖がある。猫目からすれば、実に扱いづらい男であるに違いない。


「すまぬ」

と、わしは素直に言うた。

猫目は一瞬だけ黙った。

「……今のは、よい」

「ほう」

「謝ることもあるのだな」

「あるとも」

「珍しい」

「ひどい」

「事実だ」


だが、それで少しだけ空気が緩んだ。


猫目はため息をついて、顎を少ししゃくる。

「それで」

「うむ」

「寺の小僧がどうした」


わしは今度は声を抑えて話した。


寺の裏で荷を抱えていた小僧に手を貸したこと。近ごろ薬種屋や紙屋や茶屋の近くまで、わけも分からず走らされていること。上の坊主よりもっと上を気にするような口ぶりだったこと。そして、帳面の端に、武家屋敷のものに似た家印が見えたこと。


猫目は一言も挟まず聞いていた。


途中で二度ほど、通りの方へ目をやる。人の気配を数えておるのだろう。だが、意識はちゃんとこちらの話へ戻ってくる。こういうところが猫目らしい。


話し終えると、猫目はしばらく何も言わなかった。


「どう思う」

と、わしが尋ねる。

「道の真ん中でそれを言われたら、まず殴る」

「まだそれを言うか」

「言う」

「今は」

「今は……」

猫目は少しだけ視線を落とした。

「小僧の言うことそのものは、ありうる」

「ほう」

「寺は、末端ほど何も知らされぬ」

「うむ」

「知らされぬくせに、足だけ使われる」

「それは小僧も言うておった」

「だろうな」

「では、やはり……」

「やはり、と簡単に繋ぐな」


そこは、きっちり切られた。


猫目は、わしの悪い癖をよう知っておる。二つ三つ点が繋がると、すぐ線にしたがるところを。


「帳面の端を見た」

と、猫目は繰り返す。

「たしかに」

「たしか、では足りぬ」

「……」

「印が似ていたのか、同じだったのか」

「似ておった」

「それではまだ弱い」

「分かっておる」

「分かっておる顔ではなかった」

「ひどい」

「事実だ」


だが、その言い方は本当にその通りだった。


わしは、見えた瞬間に胸が騒いでしまったのだ。“やはり繋がっておるのではないか”と。だが猫目は違う。騒ぐ前に、どこまで確かかを測る。そこが、わしとこの娘のいちばん大きな違いなのかもしれぬ。


「おぬしらは」

と、わしはふと思って言った。

「何だ」

「話す場所まで選ぶのだな」

猫目が眉をひそめる。

「今さらか」

「いや、今までも何となくそうではあった。だが、今日よく分かった」

「……」

「道の真ん中では話さぬ」

「当たり前だ」

「町娘の店先で言うことと、路地裏で言うことと、こういう空き地の脇で言うことが違う」

「そうだ」

「それに、雨音の中ならまた違う」

猫目の目が、ほんの少しだけ動いた。

「前のことか」

「うむ」

「……」

「おぬしらは、言葉だけでなく、場所を選ぶ」

「場所が半分の中身だからな」


その答えに、わしは思わず感心した。

「おお」

「感心するな」

「いや、だいぶ腑に落ちた」

「遅い」

「町の男は、そのへんが雑でな」

「知っている」

「おぬし、町を少し馬鹿にしておるな」

「馬鹿にはしておらぬ」

「では」

「危ういと思うておる」

「ひどい」

「本当だ」


そして猫目は、少しだけ真面目な顔で続けた。


「店先で話せることがある」

「うむ」

「人声の多い通りで、かえって埋もれることもある」

「ほう」

「逆に、誰もおらぬ路地で囁けば、それだけで目立つこともある」

「なるほど」

「雨の音は口を隠すが、足音も消す」

「……」

「屋根の上は見えすぎる。物陰は近すぎる。寺の裏は坊主が耳を持つ。町家の軒下は女衆の目が鋭い」

「つまり」

「話す場所そのものが、半分、いやそれ以上の中身だ」


わしはしばらく黙った。


それは、まるで別の町を歩いておるような話だった。わしが知っておるのは、どこで飯が安いか、どこで顔見知りに出くわすか、どこが濡れぬか、どこを抜ければ早いか、そういう町である。だが猫目の知っておる町は、もっと別の層を持っている。


どこで言葉が埋もれ、どこで拾われ、どこで足音が死に、どこで目が立つか。


町はひとつではないのだ。


「たいしたものじゃのう」

と、わしが素直に言うと、

「今さら何だ」

と猫目は返した。

「いや、本当に」

「そういう時の顔が気味悪い」

「ひどい」

「褒められておると思うな」

「だが、少しは」

「ない」

「残念じゃ」


そこで、通りの向こうから笑い声がひとつ聞こえた。


猫目の目がすぐそちらを見た。人の気配を数えたのだろう。大したことはないと判断したらしく、すぐにこちらへ戻る。


そういう切り替えの早さを見るたび、やはりこの娘は“町の娘”ではないのだなと思う。いや、町娘にも見える顔はいくらでも作れる。だが、こうして何かを話しながら、半分の意識を常に外へ残しておるのは、別の生き方をしてきた者の目だ。


「おぬし」

と、猫目。

「何だ」

「さっきの小僧の話は、今はここまでだ」

「追わぬのか」

「追うが、すぐには動かぬ」

「なぜ」

「おぬしが今ここで聞いたからだ」

「……」

「同じ刻に、同じ顔が、同じ筋へ寄れば立つ」

「それは、よう分かる」

「ようやくな」


ぐうの音も出ぬ。


わしは腕を組み、少しだけ地面を見た。

「猫目」

「呼ぶな」

「おぬしに言われるたび、自分がいかに不用意かがよう分かる」

「それは、ましになってきたということかもしれぬ」

「ほう」

「前なら、分かったつもりで終わっていた」

「今は」

「少しは、分からぬ顔をするようになった」


それは、だいぶ大きい言葉ではないか。


わしは思わず、にやりとしそうになるのを堪えた。ここで喜ぶと、すぐに台無しになる。近ごろ少しは学んだのだ。


「ありがとう、と言うべきか」

と、わし。

「要らぬ」

「だが、おぬしのおかげで、わしも少しは長生きできるやもしれぬ」

「……」

「なんじゃ」

「その言い方は、少しだけ気味が悪い」

「ひどい」

「だが」

猫目はわずかに目を逸らした。

「前よりは、少しましだ」

「おお」

「少しだけな」

「十分じゃ」


わしがそう言うと、猫目は鼻を鳴らした。


だが完全には冷たくない。


その時、通りの方で寺の小僧らしい声が遠く響いた。わしはついそちらへ顔を向ける。


猫目がすぐに言った。

「ほら、まただ」

「何が」

「見たものをすぐ追う」

「……癖じゃ」

「分かっているなら、少しは縛れ」

「難しい」

「知っている」


そこで猫目は、一歩だけ近づいた。


近いといっても、肩が触れるほどではない。だが、道の真ん中で話すには近く、空き地の影で言葉を落とすにはちょうどよい距離だ。


そして、低く言う。


「おぬしは、見たことをすぐ口へ出す」

「うむ」

「それでまだ生きておるのが不思議だ」


その声音には、いつもの棘があった。


だが、今日のそれはただの悪態ではなかった。ほんの少しだけ、本気でそう思うておる声だった。危なっかしい、というのとも違う。なぜそんなふうで今まで無事だったのか、という、半ば呆れ、半ば感心しているような。


わしは思わず笑った。

「皆が守ってくれるのでな」

「誰がだ」

「町娘や、土の娘や、目つきの悪い娘や」

「……」

「簾の向こうの娘もおるか」

猫目が、露骨に嫌そうな顔をした。

「増やすな」

「増やしておるつもりはない」

「結果として増やしておる」

「それは、少し認める」

「少しではない」

「全部か」

「全部だ」


そして猫目は、ほんの一瞬だけ口元を動かした。


笑うたのかどうか、ぎりぎり分からぬほどの動きだ。だが、少なくとも怒ってばかりではなかった。


「今日はもう消えろ」

と、猫目が言う。

「またそれか」

「そうだ。寺の小僧の話は頭へ置いた」

「うむ」

「おぬしは、これ以上、同じ筋をうろつくな」

「飯の種があれば」

「そこを言うな」

「大事なことじゃ」

「知っている」


そこで会話は切れた。


猫目は人の流れを横切り、何でもない娘の顔へ戻って去っていく。立ち去る背は地味だ。だが、その地味さの中に、町の見えぬ層を歩く者の軽さがある。


わしはしばらくその背を見送った。


道の真ん中では話さぬ。

話す場所そのものが半分の中身。

見たことを、すぐ口へ出すな。


どれも、わしには面倒な教えである。だが、面倒だからこそ、覚えねばならぬのだろう。城下の裏へ足を伸ばし始めた以上、いつまでも“腹が減った、面白い、ほれ行くぞ”だけでは済まぬ。


「……やれやれ」


空を見上げる。雨はない。だが、町の空気は昨日までと少し違って見えた。


人が歩く道は同じでも、

話す場所ひとつで、町はまるで別の顔を持つらしい。


まだ、用意されているプロットは終わっておりません。

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