表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/37

第33話 町娘は、武家の気配を好かない

人は、自分の足がどこへ向いておるかを、案外ほかの者に先に見抜かれる。


わしなどは、その最たるものらしい。


自分では、たいして変わらぬつもりでおる。腹が減れば飯のことを考え、仕事があれば走り、面倒ごとの匂いがすればつい鼻を寄せる。昨日も今日も、だいたい同じような顔で城下を歩いておるつもりだ。


だが、おつねに言わせれば違うらしい。


「おぬし、最近、歩く筋が変わったね」


その一言を浴びたのは、昼を少し回った頃であった。


わしはその日も、おつねの店先へふらりと顔を出していた。ふらり、と言うと聞こえはよいが、半分は腹のためで、半分はおつねの顔を見れば少し町へ戻った気がするからでもある。


店先には、朝の売れ残りが少しと、昼を越してなお売るつもりの菜が並んでいた。おつねは、桶の水を替えながら、何でもない顔でそう言うたのだ。


「歩く筋?」

と、わし。

「うむ。筋が変わる」

「それは、どういう」

「おつねちゃん、また始まったよ」

と、奥から母親の声が飛ぶ。

「その若いの相手だと、目ばかり使うねえ」

「使わされるんだよ」

と、おつねは返した。

「見ていないと、何を持っていかれるか分からないから」

「ひどい」

「事実だろう」


わしは店先の端へ腰を下ろし、少しだけ身構えた。


おつねがこういう声を出す時は、大抵、何か見抜いておる。しかも本人は、わざと軽い顔で言うてくるのだ。逃げ道を残しながら、こちらの顔色を見るために。


「で」

と、わしは言った。

「何が変わった」

おつねは菜の葉をひっくり返し、水気を見ながら答えた。

「まず、着物の乱れ方」

「乱れ方?」

「前は、どこかの荷を担いでいたか、路地裏で転んだか、そういう“町の若いの”の乱れ方だった」

「今は」

「今は、整えたあとで少し崩れた顔をしておる」

「……」

「つまり、どこかで“きちんとした顔”を作る場所へ出入りしている」


おお、怖い。


これは、だいぶ怖い。


わしは思わず笑って誤魔化しかけたが、おつねの目が笑っておらぬのでやめた。


「それから」

と、おつねは続ける。

「足だ」

「足」

「道を渡る前に、人の流れを見るようになった」

「前から見ておる」

「前は“空いておる方へ行く”だった」

「今は」

「“誰に見られる筋か”まで気にしておる」


そこまで言われると、さすがに返しようがない。


武家屋敷からの小さな使いをこなすうちに、たしかにそういう見方が少し増えた。表を通るべきか、裏へ回るべきか。人足の流れ、小僧の出入り、寺へ向かう顔、武家の小者が嫌う辻。そういうものを足と一緒に読む癖がついてきておる。


わし自身、はっきり意識しておったわけではない。だが、おつねはそれを見逃さぬ。


「おつね」

と、わしは苦笑した。

「おぬし、本当に目がよいのう」

「商いの娘をなめるな」

「なめてはおらぬ。恐れておる」

「そこまで言うなら、少しは真面目に答えな」

「はい」

「武家の気配だろう」


ぴしゃり、と来た。


ごまかしようがないくらい、真ん中である。


わしは鼻の頭をかいた。

「……少しな」

「少し、かい」

「少しずつじゃ」

「それが一番厄介なんだよ」

「どうして」

おつねはそこで、ようやくわしの方を向いた。


「武家の空気ってのはね」

と、おつね。

「近すぎるとろくなことがない」

「ろくなことがない、か」

「うむ」

「それは、どういう」

「町の者にとっては、まず“相手の機嫌ひとつで話が変わる”ってことさ」

「……」

「昨日まで顔を出してくれた屋敷が、今日は急に門を閉める。逆に、今まで無縁だった家が急に使いを寄越す。理由は言わぬ。だが、こっちは付き合わねばならぬ」

「うむ」

「しかも、町人は武家へ怒鳴れない」

「そうじゃろうな」

「怒鳴れば潰れるのはこっちだ」


その言葉には、はっきりした重みがあった。


おつねは町娘だ。明るく、口が達者で、腹の立つ相手にはぴしゃりと返す。だが、それは“誰にでも同じように強く出られる”ということではない。出られぬ相手がある。その相手へ、どう顔を立て、どう距離を取り、どう店を守るか。それを分かっておるからこそ、武家の気配を嫌うのだろう。


「おぬしは」

と、おつねは言う。

「飯の種だと言えば、どこへでも半歩入っていく」

「それは、まあ」

「それ自体は悪くない」

「ほう」

「だが、武家の筋は、半歩が一歩になりやすい」

「……」

「一歩が二歩になれば、今度は町へ戻る時に、町の方が少しよそよそしくなる」


わしは、その言い方に少しだけ黙った。


町へ戻る時に、町の方がよそよそしくなる。


それは、何となく分かる気がした。


武家屋敷へ行けば、門の前で声を落とす。言葉の置き方を少し選ぶ。表の通りでも、誰が見ておるかを考える。そういうものを覚え始めると、町の空気へ戻った時、前と同じ軽さではおられぬ瞬間もあるのかもしれぬ。


「おつね」

と、わし。

「おぬしは、そんな顔を見たことがあるのか」

おつねは少しだけ、遠い顔をした。

「あるよ」

「ほう」

「最初は町の顔をしていたのに、だんだん“どこかの機嫌を気にする顔”になっていく男をね」

「男ばかりか」

「女もある」

「……」

「奉公に行く娘も、屋敷に出入りする店の若いのも、最初は町の言葉で笑っておる。だが、だんだん笑い方が変わる」

「笑い方」

「うむ。何を言ってよくて、何を言うとまずいかを先に考える顔になる」

「……」

「そうなると、町で喋っていても、どこか半歩引いたようになる」


それは、少し怖い話であった。


いや、怖いと言うより、寂しいのかもしれぬ。町とは、もっと雑で、もっと顔が近くて、もっとどうでもよい話をべらべら喋る場所だ。そこから半歩引くようになるというのは、単に大人になるのとも違う、別の何かだろう。


「だから」

と、おつね。

「武家の気配は好かぬ」

「……」

「向こうが悪いとか、汚いとか、そういう話ばかりでもない。ちゃんとした家もある。礼儀のある人もいる。だが、それでも近づけば、こっちの歩き方が変わる」

「なるほどのう」

「分かったかい」

「少し」

「少しか」

「いや、だいぶ」

「ならよい」


おつねはそう言いながら、菜を整える手を止めなかった。


その手つきは、やはり町の娘のものだ。売れ残りをどう見せるか、どの葉を上へ持っていくか、水の張りをどう保つか。そういうことを、会話の片手間にきちんとやる。武家屋敷の侍女や女房の動きも無駄がないが、おつねの手の無駄のなさはまた違う。暮らしのための無駄のなさだ。


わしは、ぼんやりその手を見ていた。


「何だい」

と、おつねが言う。

「何でもない」

「何でもない顔ではない」

「おぬしも、よう見る」

「見ていないと、すぐどこか行くからね」

「それは」

「否定するな」

「はい」


その返事に、おつねは小さく鼻を鳴らした。


しばらく、二人で店先の品をいじる。


通りの向こうを、寺の小僧らしき者が走っていく。わしはつい目で追いかけた。するとすぐ、おつねが言った。

「ほら」

「何が」

「今、見た」

「見た」

「そういうところだよ」

「仕方あるまい。走っておった」

「町の若いのが走っておれば、前は“何か落ちたのか”くらいにしか見なかった」

「今は」

「“どこの筋か”を見る」


ぐうの音も出ぬ。


わしは肩を落とした。

「おつね、おぬしは厳しいのう」

「おぬしが分かりやすすぎるのだ」

「近ごろ、そればかり言われる」

「皆に言われるなら、そうなのだろう」

「その理屈も、近ごろ多い」


おつねは少しだけ笑いかけて、だがすぐに表情を戻した。


そして、いつもより少し低い声で言うた。

「おぬしは、そのうち町へ戻りづらい顔になる」

「……」

「武家へ行くなとは言わぬ。飯の種なら仕方がない」

「うむ」

「だが、戻る時は戻れ」

「どこへ」

「町へだよ」

「……」

「町の顔をして帰ってこい」

わしは、すぐには返せなんだ。


それは、妙に重い言葉だった。


武家へ行くな、ではない。

町を捨てるな、でもない。

戻る時は戻れ。町の顔をして帰ってこい。


つまり、どこへ足を伸ばしてもよいが、足場まで変えるな、ということなのだろう。


おつねは町の娘だ。町に立って、町の顔で、町の勘定で生きておる。そんな娘からすれば、わしが少しずつ別の空気を身につけ始めておるのは、やはり面白くないのかもしれぬ。


「……難しいのう」

と、わしはぽつりと言った。

「何が」

「おぬしの言うことは、いちいち腹へ落ちる」

「よいことじゃないか」

「落ちると、すぐには笑えぬ」

「たまには笑わぬ方がよい」


その返しに、わしは少しだけ苦笑した。


「怒っておるか」

と、わしは尋ねた。

おつねは一瞬だけ、手を止めた。

「何に」

「武家の気配をまとい始めたわしに」

「……」

「いや、だいぶ踏み込んだな、今のは」

「分かっておるなら、最初から口にするな」


おつねはそう言ったが、完全に切ってはおらぬ。だから、もう少しだけ待つ。


やがておつねは、菜の葉の先を揃えながら言った。

「怒っておるというより」

「うむ」

「好かぬ」

「武家の気配が」

「そう」

「なぜ」

「さっき言うただろう」

「それだけではない顔をしておる」

「……」

「おつね」

娘は少しだけ視線を逸らした。

「おぬしが、妙によそを向くのも好かぬ」

「ほう」

「町におっても、寺だの屋敷だの、見えぬものの方へ目が行っておる」

「……」

「そういう顔をされると、話しておっても半歩遠い」


その言葉は、ずるいくらい真っ直ぐであった。


わしは返す言葉に少し困った。困るくせに、胸のあたりは妙に温かくなる。ほんに、人というものは勝手だ。


「おつね」

と、わしは少し真面目に言う。

「何だい」

「わしが町の顔を忘れぬよう、おぬしが怒ってくれるなら、ありがたいことじゃ」

「……」

「だいぶ」

「そうやって、すぐ人の懐へ入る」

「悪い癖です」

「知っておるなら、少しは控えな」

「努力はする」

「しておる顔ではないね」

「半分ほど」

「足りぬ」


そしておつねは、ようやく少しだけ笑った。


ほんの少しだ。だが、さっきまでのぴんと張った顔ではない。いつもの、呆れ半分、諦め半分の笑いへ戻っておる。


それで、わしもようやく息をついた。


「のう」

と、おつね。

「何だ」

「武家の顔を覚えてもよい。寺の裏を嗅ぎ回ってもよい。村で泥に入ってもよい」

「許しが広い」

「ただし」

「ただし?」

「町へ来た時は、ちゃんと町の顔で喋れ」

「承知」

「半分ではなく」

「全部」

「本当かい」

「……七分ほど」

おつねの手が飛んできた。


ぺし、と腕を叩かれる。


「痛い」

「それくらいで済んでよかったと思いな」

「おつね」

「何」

「おぬし、本当に強い娘じゃのう」

「またそれか」

「いや、本当に」

「そう言うてごまかすな」

「ごまかしてはおらぬ」

「では何だ」

「町の顔を守っておる」


おつねは、その言葉に一瞬だけ静かになった。


通りの向こうで、誰かが魚を売る声を張る。寺の鐘が遠くで一つ鳴る。町はいつものように動いておる。だが、この小さな店先だけ、少しだけ違う時間が流れた気がした。


やがておつねは、小さく鼻を鳴らした。

「……だったら、おぬしも少しは守りな」

「町の顔をか」

「そうだよ」

「承知」

「今度は本当に」

「八分ほど」

「足りぬ!」


また腕を叩かれた。


痛いが、悪くない。


そう思うてしまうあたり、わしもだいぶ町へ馴染んでおるのだろう。いや、町へ戻ってこられるだけの顔を、まだ持っておるのかもしれぬ。


それが少し、嬉しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ