第33話 町娘は、武家の気配を好かない
人は、自分の足がどこへ向いておるかを、案外ほかの者に先に見抜かれる。
わしなどは、その最たるものらしい。
自分では、たいして変わらぬつもりでおる。腹が減れば飯のことを考え、仕事があれば走り、面倒ごとの匂いがすればつい鼻を寄せる。昨日も今日も、だいたい同じような顔で城下を歩いておるつもりだ。
だが、おつねに言わせれば違うらしい。
「おぬし、最近、歩く筋が変わったね」
その一言を浴びたのは、昼を少し回った頃であった。
わしはその日も、おつねの店先へふらりと顔を出していた。ふらり、と言うと聞こえはよいが、半分は腹のためで、半分はおつねの顔を見れば少し町へ戻った気がするからでもある。
店先には、朝の売れ残りが少しと、昼を越してなお売るつもりの菜が並んでいた。おつねは、桶の水を替えながら、何でもない顔でそう言うたのだ。
「歩く筋?」
と、わし。
「うむ。筋が変わる」
「それは、どういう」
「おつねちゃん、また始まったよ」
と、奥から母親の声が飛ぶ。
「その若いの相手だと、目ばかり使うねえ」
「使わされるんだよ」
と、おつねは返した。
「見ていないと、何を持っていかれるか分からないから」
「ひどい」
「事実だろう」
わしは店先の端へ腰を下ろし、少しだけ身構えた。
おつねがこういう声を出す時は、大抵、何か見抜いておる。しかも本人は、わざと軽い顔で言うてくるのだ。逃げ道を残しながら、こちらの顔色を見るために。
「で」
と、わしは言った。
「何が変わった」
おつねは菜の葉をひっくり返し、水気を見ながら答えた。
「まず、着物の乱れ方」
「乱れ方?」
「前は、どこかの荷を担いでいたか、路地裏で転んだか、そういう“町の若いの”の乱れ方だった」
「今は」
「今は、整えたあとで少し崩れた顔をしておる」
「……」
「つまり、どこかで“きちんとした顔”を作る場所へ出入りしている」
おお、怖い。
これは、だいぶ怖い。
わしは思わず笑って誤魔化しかけたが、おつねの目が笑っておらぬのでやめた。
「それから」
と、おつねは続ける。
「足だ」
「足」
「道を渡る前に、人の流れを見るようになった」
「前から見ておる」
「前は“空いておる方へ行く”だった」
「今は」
「“誰に見られる筋か”まで気にしておる」
そこまで言われると、さすがに返しようがない。
武家屋敷からの小さな使いをこなすうちに、たしかにそういう見方が少し増えた。表を通るべきか、裏へ回るべきか。人足の流れ、小僧の出入り、寺へ向かう顔、武家の小者が嫌う辻。そういうものを足と一緒に読む癖がついてきておる。
わし自身、はっきり意識しておったわけではない。だが、おつねはそれを見逃さぬ。
「おつね」
と、わしは苦笑した。
「おぬし、本当に目がよいのう」
「商いの娘をなめるな」
「なめてはおらぬ。恐れておる」
「そこまで言うなら、少しは真面目に答えな」
「はい」
「武家の気配だろう」
ぴしゃり、と来た。
ごまかしようがないくらい、真ん中である。
わしは鼻の頭をかいた。
「……少しな」
「少し、かい」
「少しずつじゃ」
「それが一番厄介なんだよ」
「どうして」
おつねはそこで、ようやくわしの方を向いた。
「武家の空気ってのはね」
と、おつね。
「近すぎるとろくなことがない」
「ろくなことがない、か」
「うむ」
「それは、どういう」
「町の者にとっては、まず“相手の機嫌ひとつで話が変わる”ってことさ」
「……」
「昨日まで顔を出してくれた屋敷が、今日は急に門を閉める。逆に、今まで無縁だった家が急に使いを寄越す。理由は言わぬ。だが、こっちは付き合わねばならぬ」
「うむ」
「しかも、町人は武家へ怒鳴れない」
「そうじゃろうな」
「怒鳴れば潰れるのはこっちだ」
その言葉には、はっきりした重みがあった。
おつねは町娘だ。明るく、口が達者で、腹の立つ相手にはぴしゃりと返す。だが、それは“誰にでも同じように強く出られる”ということではない。出られぬ相手がある。その相手へ、どう顔を立て、どう距離を取り、どう店を守るか。それを分かっておるからこそ、武家の気配を嫌うのだろう。
「おぬしは」
と、おつねは言う。
「飯の種だと言えば、どこへでも半歩入っていく」
「それは、まあ」
「それ自体は悪くない」
「ほう」
「だが、武家の筋は、半歩が一歩になりやすい」
「……」
「一歩が二歩になれば、今度は町へ戻る時に、町の方が少しよそよそしくなる」
わしは、その言い方に少しだけ黙った。
町へ戻る時に、町の方がよそよそしくなる。
それは、何となく分かる気がした。
武家屋敷へ行けば、門の前で声を落とす。言葉の置き方を少し選ぶ。表の通りでも、誰が見ておるかを考える。そういうものを覚え始めると、町の空気へ戻った時、前と同じ軽さではおられぬ瞬間もあるのかもしれぬ。
「おつね」
と、わし。
「おぬしは、そんな顔を見たことがあるのか」
おつねは少しだけ、遠い顔をした。
「あるよ」
「ほう」
「最初は町の顔をしていたのに、だんだん“どこかの機嫌を気にする顔”になっていく男をね」
「男ばかりか」
「女もある」
「……」
「奉公に行く娘も、屋敷に出入りする店の若いのも、最初は町の言葉で笑っておる。だが、だんだん笑い方が変わる」
「笑い方」
「うむ。何を言ってよくて、何を言うとまずいかを先に考える顔になる」
「……」
「そうなると、町で喋っていても、どこか半歩引いたようになる」
それは、少し怖い話であった。
いや、怖いと言うより、寂しいのかもしれぬ。町とは、もっと雑で、もっと顔が近くて、もっとどうでもよい話をべらべら喋る場所だ。そこから半歩引くようになるというのは、単に大人になるのとも違う、別の何かだろう。
「だから」
と、おつね。
「武家の気配は好かぬ」
「……」
「向こうが悪いとか、汚いとか、そういう話ばかりでもない。ちゃんとした家もある。礼儀のある人もいる。だが、それでも近づけば、こっちの歩き方が変わる」
「なるほどのう」
「分かったかい」
「少し」
「少しか」
「いや、だいぶ」
「ならよい」
おつねはそう言いながら、菜を整える手を止めなかった。
その手つきは、やはり町の娘のものだ。売れ残りをどう見せるか、どの葉を上へ持っていくか、水の張りをどう保つか。そういうことを、会話の片手間にきちんとやる。武家屋敷の侍女や女房の動きも無駄がないが、おつねの手の無駄のなさはまた違う。暮らしのための無駄のなさだ。
わしは、ぼんやりその手を見ていた。
「何だい」
と、おつねが言う。
「何でもない」
「何でもない顔ではない」
「おぬしも、よう見る」
「見ていないと、すぐどこか行くからね」
「それは」
「否定するな」
「はい」
その返事に、おつねは小さく鼻を鳴らした。
しばらく、二人で店先の品をいじる。
通りの向こうを、寺の小僧らしき者が走っていく。わしはつい目で追いかけた。するとすぐ、おつねが言った。
「ほら」
「何が」
「今、見た」
「見た」
「そういうところだよ」
「仕方あるまい。走っておった」
「町の若いのが走っておれば、前は“何か落ちたのか”くらいにしか見なかった」
「今は」
「“どこの筋か”を見る」
ぐうの音も出ぬ。
わしは肩を落とした。
「おつね、おぬしは厳しいのう」
「おぬしが分かりやすすぎるのだ」
「近ごろ、そればかり言われる」
「皆に言われるなら、そうなのだろう」
「その理屈も、近ごろ多い」
おつねは少しだけ笑いかけて、だがすぐに表情を戻した。
そして、いつもより少し低い声で言うた。
「おぬしは、そのうち町へ戻りづらい顔になる」
「……」
「武家へ行くなとは言わぬ。飯の種なら仕方がない」
「うむ」
「だが、戻る時は戻れ」
「どこへ」
「町へだよ」
「……」
「町の顔をして帰ってこい」
わしは、すぐには返せなんだ。
それは、妙に重い言葉だった。
武家へ行くな、ではない。
町を捨てるな、でもない。
戻る時は戻れ。町の顔をして帰ってこい。
つまり、どこへ足を伸ばしてもよいが、足場まで変えるな、ということなのだろう。
おつねは町の娘だ。町に立って、町の顔で、町の勘定で生きておる。そんな娘からすれば、わしが少しずつ別の空気を身につけ始めておるのは、やはり面白くないのかもしれぬ。
「……難しいのう」
と、わしはぽつりと言った。
「何が」
「おぬしの言うことは、いちいち腹へ落ちる」
「よいことじゃないか」
「落ちると、すぐには笑えぬ」
「たまには笑わぬ方がよい」
その返しに、わしは少しだけ苦笑した。
「怒っておるか」
と、わしは尋ねた。
おつねは一瞬だけ、手を止めた。
「何に」
「武家の気配をまとい始めたわしに」
「……」
「いや、だいぶ踏み込んだな、今のは」
「分かっておるなら、最初から口にするな」
おつねはそう言ったが、完全に切ってはおらぬ。だから、もう少しだけ待つ。
やがておつねは、菜の葉の先を揃えながら言った。
「怒っておるというより」
「うむ」
「好かぬ」
「武家の気配が」
「そう」
「なぜ」
「さっき言うただろう」
「それだけではない顔をしておる」
「……」
「おつね」
娘は少しだけ視線を逸らした。
「おぬしが、妙によそを向くのも好かぬ」
「ほう」
「町におっても、寺だの屋敷だの、見えぬものの方へ目が行っておる」
「……」
「そういう顔をされると、話しておっても半歩遠い」
その言葉は、ずるいくらい真っ直ぐであった。
わしは返す言葉に少し困った。困るくせに、胸のあたりは妙に温かくなる。ほんに、人というものは勝手だ。
「おつね」
と、わしは少し真面目に言う。
「何だい」
「わしが町の顔を忘れぬよう、おぬしが怒ってくれるなら、ありがたいことじゃ」
「……」
「だいぶ」
「そうやって、すぐ人の懐へ入る」
「悪い癖です」
「知っておるなら、少しは控えな」
「努力はする」
「しておる顔ではないね」
「半分ほど」
「足りぬ」
そしておつねは、ようやく少しだけ笑った。
ほんの少しだ。だが、さっきまでのぴんと張った顔ではない。いつもの、呆れ半分、諦め半分の笑いへ戻っておる。
それで、わしもようやく息をついた。
「のう」
と、おつね。
「何だ」
「武家の顔を覚えてもよい。寺の裏を嗅ぎ回ってもよい。村で泥に入ってもよい」
「許しが広い」
「ただし」
「ただし?」
「町へ来た時は、ちゃんと町の顔で喋れ」
「承知」
「半分ではなく」
「全部」
「本当かい」
「……七分ほど」
おつねの手が飛んできた。
ぺし、と腕を叩かれる。
「痛い」
「それくらいで済んでよかったと思いな」
「おつね」
「何」
「おぬし、本当に強い娘じゃのう」
「またそれか」
「いや、本当に」
「そう言うてごまかすな」
「ごまかしてはおらぬ」
「では何だ」
「町の顔を守っておる」
おつねは、その言葉に一瞬だけ静かになった。
通りの向こうで、誰かが魚を売る声を張る。寺の鐘が遠くで一つ鳴る。町はいつものように動いておる。だが、この小さな店先だけ、少しだけ違う時間が流れた気がした。
やがておつねは、小さく鼻を鳴らした。
「……だったら、おぬしも少しは守りな」
「町の顔をか」
「そうだよ」
「承知」
「今度は本当に」
「八分ほど」
「足りぬ!」
また腕を叩かれた。
痛いが、悪くない。
そう思うてしまうあたり、わしもだいぶ町へ馴染んでおるのだろう。いや、町へ戻ってこられるだけの顔を、まだ持っておるのかもしれぬ。
それが少し、嬉しかった。




