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第32話 簾の内と外では、同じ言葉でも意味が違う

武家屋敷というところは、用が済んだあとが妙に長い。


町の店なら、荷を渡せば「ご苦労」「また来な」で終わる。村の仕事なら、土を戻して水を流せば、そのあとは飯の話か空の話にでもなる。だが武家屋敷は違う。荷を運び、足を使い、用を済ませても、そこで終わった気がせぬのだ。門を出るまでも、庭を横切るまでも、誰かの目か耳か、あるいは簾の向こうの気配のようなものが、まだこちらを測っておる気がする。


それが妙に落ち着かぬ。


落ち着かぬが、悪い気もしないから厄介である。


「やれやれ……」


わしは庭先の砂利の上で、心の中だけで息をついた。先ほどの小さな使いは、どうやらまずまずに済んだらしい。女房は露骨には褒めぬが、追い払う顔でもない。簾の向こうの娘など、足だけでなく鼻も利くと言うた。あれはたぶん、だいぶ上等な言い方である。


もっとも、褒められたのか値踏みされたのか、その境がよう分からぬのがこの屋敷らしいのだが。


「日吉丸」

と、年かさの女房が言う。

「はい」

「まだ帰るな」

「ほう」

「お方が、少し話すと仰せだ」

「それは光栄」

「軽々しく言うな」

「では、重々しく」

「もっとやめろ」


相変わらず容赦がない。


だが、その容赦のなさの奥に、今日は妙な苛立ちはなかった。呆れながらも、どこか“もう仕方がない若造”として扱っておる顔だ。使うかどうか迷う相手ではなく、使う以上は注意しておく相手、というところか。


女房に促され、わしはまた簾の前へ立った。


前回と同じ、顔は見えぬ位置である。こちらから見えるのは、薄く揺れる簾の布と、向こうに誰かが座している気配だけ。声が届くには十分に近い。だが、近いのに見えぬ。この距離が、どうにもじれったい。


「おぬしか」

と、娘の声がした。

「はい」

「戻る足は早かったな」

「腹が減る前に戻れました」

「またそれか」

「腹の話は、だいたい間違いがありませぬ」

「町の男らしい」

「武家の内では違いますか」

「違う」


その“違う”が、少し面白かった。


わしは簾の向こうへ向けて軽く頭を下げた。

「どう違うので」

「内では、腹が減っておっても、そうとは顔に出さぬ」

「それは、だいぶ辛い」

「辛い顔も出さぬ」

「ますます辛い」

「そういうものだ」


ふむ。


これだけでも、町とはずいぶん違う。町では腹が減れば誰かが笑う。むしろ「おお、また腹か」と呆れつつも、話のきっかけにはなる。だが、武家の内では、腹の減りすら顔へ出してはならぬのか。人の生き方も、場所によりだいぶ違うものだ。


「のう」

と、わしは言った。

「何だ」

「武家の家というのは、皆そうなのですか」

「皆、とは」

「言葉も顔も、半分は本音で半分は違う、というような」

簾の向こうで、気配が少しだけ動いた。

「半分で済めば、まだ楽な方だ」

「……」

「外では、同じ言葉でも、内では別の意味を持つことがある」

「ほう」

「むしろ、そのままの意味で使う方が少ない」

「それは、だいぶ面倒ですな」

「面倒だとも」


その言い方は、少しだけ本音に近かった。


わしは思わず笑った。

「おお、武家の娘も面倒だと思うことはあるのですな」

「当たり前だ」

「では、簾の向こうのおぬしも、人の言葉にいちいち腹を立てたり」

「立てる」

「驚きました」

「なぜだ」

「もっとこう、何でも涼しい顔で流すものかと」

「流しておる」

「では、腹は立てても顔には出さぬ」

「そうだ」

「それはやはり辛い」

「そうだと言うておろう」


やはり面白い娘である。


顔は見えぬ。だが言葉の返しだけで、だんだん輪郭が出てくる。強い娘だとは思う。だが、その強さは最初から何も感じぬ強さではなく、感じたものを表へ出さぬための強さなのかもしれぬ。


「たとえば」

と、娘が言った。

「“よかろう”という言葉がある」

「ありますな」

「町では、何だ」

「たいていは、よいという意味で」

「たいてい、か」

「たまに違う時もあります」

「ほう」

「おつねが“よかろう”と言う時は、だいたい“半分はよくない”」

「おつね?」

「町娘です」

「……」

「口が達者で、容赦がなく、飯がうまい」

「最後のは要るか」

「大事なことです」

「町の男は、それで判断するのか」

「少なくともわしは」

「そうか」


簾の向こうの声が、少しだけ低くなった気がした。気のせいかもしれぬ。だが、ほんのわずかに間が変わった。


「それで」

と、娘。

「町娘のおつねが“よかろう”と言う時、半分はよくないのだな」

「はい」

「武家の家では、“よかろう”は、必ずしも許しではない」

「ほう」

「話をここで止める、という意味のこともある」

「なるほど」

「あるいは、“今はそれ以上言うな”ということもある」

「おお」

「さらに、“今は聞いた”というだけの場合もある」

「……それは、だいぶ違うな」

「違う」


そう言われると、急にこれまで聞いてきたいろいろな“よかろう”が怪しく思えてくる。


町での「まあよかろう」は、だいたいその場の納まりだ。村での「よかろう」は、半分は諦め、半分は腹の括りだ。だが武家の内では、それがもっと“次へ持ち越す言葉”になるらしい。


「では」

と、わしは腕を組む。

「“追って沙汰する”は」

「ほう、よいところへ気づく」

「よく使われるので」

「それは」

娘は少しだけ間を置いた。

「断りとまでは言わぬが、その場では決めぬという意味が強い」

「つまり、あとでなかったことにもできる」

「その通りだ」

「おお」

「感心するな」

「いや、ようできた言葉ですな」

「便利なだけだ」

「便利なものほど、よく使われる」

「町の理屈だな」

「武家でも同じでは」

「……否定しにくい」


今のは、少しだけ面白かったらしい。簾の向こうで、衣擦れに混じって小さな息の揺れがあった。笑うたのかもしれぬ。


「“礼を尽くせ”は」

と、娘は続ける。

「町ではどうだ」

「頭を下げ、言葉を選び、少しは手土産でも」

「ふむ」

「武家では違うのか」

「言葉だけでは足りぬ時がある」

「やはり」

「銭、品、顔、順。どれを先に出すかも含む」

「順、とな」

「何を先に持っていけば相手が立つか、ということだ」

「……」

「礼は、気持ちだけでは済まぬ」


それはだいぶ、腹へ落ちる話だった。


町でも、たしかに“手ぶらで頭だけ下げる”のでは済まぬことはある。だが、町のそれはもう少し露骨だ。銭なら銭、物なら物と、分かりやすい。武家の家では、それがもっと見えにくく、言葉の陰に入っておるのだろう。


「つまり」

と、わしは言った。

「武家の内では、同じ言葉でも、表の顔と裏の顔がある」

「そうだ」

「そして、皆それを分かって聞いておる」

「そうだ」

「面倒ですな」

「だから面倒だと言うておる」


わしは思わず笑ってしまった。


「何が可笑しい」

と、娘。

「いや」

「またごまかすのか」

「違う」

「では何だ」

「おぬしが、こんなに面倒な世界で生きておるのかと思うて」

「……」

「町なら、腹が減った、飯をくれ、嫌だ、面白い、でだいたい済む」

「おぬしの町は雑すぎる」

「だが楽です」

「それは認める」


その“認める”が、少し意外だった。


簾の向こうの娘は、武家の内の言葉をよく知り、それを当然のものとして使っておる。だが、町の率直さを下品だと切って捨てるわけではないらしい。むしろ、少しだけ羨ましがっておるようにも聞こえた。


わしはそこで、ふと前から気になっていたことを口にした。

「おぬし」

「何だ」

「町の話を、よう聞きたがりますな」

「……」

「村の水争いも、寺の顔色も、商いの細かな空気も」

「悪いか」

「悪くはない」

「ならよい」

「だが、気になる」

「何がだ」

「外が珍しいのかと、最初は思うておった」

「今は違うのか」

「今は……」


少し考える。


簾の向こうの娘は、ただ知らぬ話を聞いて面白がるだけの者ではない。聞き方が違う。どの顔がどう動くか、どこに無理が出るか、何が町の空気を重くするか。そういう“空気の形”を知りたがっておる。


「外の本当の空気を知りたいのではないか、と思う」

と、わしは言った。


簾の向こうで、気配が止まった。


これは少し、踏み込みすぎたかもしれぬ。


だが、引っ込めても仕方がない。わしはもう言うてしまった。


「……なぜそう思う」

と、娘が静かに問う。

「聞くところが違うからです」

「どこがだ」

「町は賑やかか、とだけは聞かぬ」

「……」

「村は騒がしいか、寺は偉そうか、そういう大雑把なことではなく」

「……」

「水で本当に揉めるのか、商いはどこが苦しいのか、坊主が町でどう見られるのか、そういうことを聞く」

「……」

「それは、“外とはこういうもの”という話より、“外は今どうなっているか”を知りたい者の聞き方です」


しばらく、静かだった。


風が、簾をわずかに揺らす。遠くで、庭木の葉が擦れる音がした。外の町のざわめきは、この屋敷まで来ると少し薄くなる。だからこそ、この沈黙が余計に長く感じる。


やがて娘は、ごく低く言った。

「……そうかもしれぬ」

「ほう」

「わたしは、外を知らぬ」

「それは」

「見たことはある。だが、知っているとは言えぬ」

「……」

「町は、もっと軽く、もっと賑やかで、もっと単純なものだと思うていた」

「実際は」

「だいぶ苦しいな」


その言い方が、妙に胸へ残った。


武家の内から見れば、町はたしかに賑やかだろう。人が多く、声が多く、物が多く、顔が多い。だが賑やかであることと、軽いことは違う。むしろ賑やかなところほど、人は苦しいものを笑いで誤魔化しておる時がある。


「おぬしは」

と、娘が言う。

「町をどう思う」

「町、ですか」

「うむ」

「……腹の減るところですな」

「またそれか」

「いや、本当に」

「他には」

「人の顔が多い」

「顔」

「うむ。笑う顔、怒る顔、売る顔、誤魔化す顔、諦める顔」

「……」

「だが、同じ顔がずっと続くことは少ない」

「それは、どういう」

「朝に笑うた娘が、昼には帳面で顔を曇らせる。口の悪い婆さまが、腹の減った子には飯を分ける。町はそういうところです」

「……」

「固まっておらぬ。揺れておる。だから面白い」


言いながら、自分でも少し意外だった。


わしはこんなふうに町のことを考えておったのか、と。たぶん、おつねや庄助や口の悪い婆さまたち、そういう者らと日々接しておるうちに、知らずのうちに覚えていたのだろう。


娘は小さく言った。

「武家の内とは、少し違うな」

「どう違うので」

「内では、顔が揺れるのをあまり見せぬ」

「それは、少し苦しい」

「そうだな」

「では」

わしは思わず笑う。

「簾の向こうのおぬしも、本当はもう少し顔が揺れておるのか」

「……」

「いかん、今のは余計か」

「余計だ」

「やはり」

「だが」

少しの間。

「おぬしと話しておると、少しだけ揺れる」

「おお」


これは、なかなか大きい言葉ではないか。


わしは簾の向こうへ向けて、思わずにやりとしそうになるのを堪えた。ここで露骨に喜ぶと、次から何も言うてくれなくなる気がする。こういうところだけは、少し学んだ。


「では」

と、わしはあえて平然と返した。

「町の話を持ってくる甲斐もある」

「調子に乗るな」

「少しだけ」

「半分も乗るな」


だが、声は完全には冷たくない。


やはり、この娘も外を知りたがっておるのだろう。屋敷の内から見える町と、実際に人が食い扶持で転げ回っておる町とでは、だいぶ違う。町の空気が欲しい。そういうことなのかもしれぬ。


「のう」

と、わしは言った。

「何だ」

「おぬしは、外へ出てみたいのですか」


言うた途端、しまったと思うた。


これもまた、少し踏み込みすぎた。今までの話は、あくまで町と武家の言葉の違い、外の空気の話であった。そこへ“おぬし自身”をまっすぐ置くのは、だいぶ直すぎたかもしれぬ。


簾の向こうが、静まり返った。


長い。


ほんに、長い。


外では、鳥が一声鳴いた気がする。庭先のどこかで、女中が歩く衣擦れも聞こえた。だがこの簾の前だけ、妙に時が止まっておる。


「……」

「……」


わしは咳払いひとつできずに待った。


やがて、娘はようやく言った。


「その問いは」

と、静かな声で。

「まだ、答えぬ方がよい」


断られた、というより、先送りにされたのだろうか。


いや、武家の言葉で言えば、“追って沙汰する”に近いのかもしれぬ。つまり、今はここで止める、という意味だ。


「……承知」

と、わしは素直に下がった。

「余計でした」

「余計だとは言わぬ」

「ほう」

「だが、今はまだ、そこまでよい」

「……なるほど」


“今はまだ”。


ならば、完全な拒みでもないのだろう。


それだけで、少し救われる気がした。ほんに、わしはこういうところだけ単純で困る。


娘は、そのまま話を切るかと思いきや、最後に一つだけ言った。


「日吉丸」

「はい」

「簾の内と外では、同じ言葉でも意味が違う」

「うむ」

「今の“まだ”も、そうだ」

「……」

「全部を断ったわけではない」

「……」

「だが、今すぐに近づけるわけでもない」


わしは、しばらく返事ができなかった。


それはつまり、答えではないが、答えに近いものをわざわざ返してくれたということだろう。外へ出てみたいのか、という問いに。簾の外で話してみたいのか、という問いに。


「……武家の言葉は、難しいのう」

と、わしはようやく言った。

娘が少しだけ笑った気配がした。

「覚えよ」

「努力します」

「半分では足りぬ」

「では、七分ほど」

「中途半端だな」

「そこが町の男らしさで」

「言い訳にするな」


その一言で、ようやく空気が少し軽くなった。


女房の気配が近づいてくる。どうやら、今日はここまでらしい。


わしは簾へ向かって一礼した。

「よい勉強になりました」

「それを忘れるな」

「忘れぬよう、腹にも刻みます」

「何でも腹へ戻すな」

「安心するのです」

「変わった男だ」


最後のその声が、妙にやわらかかった。


簾の向こうの娘が何を思うているのか、まだ半分も分からぬ。だが少なくとも、町の空気を持ち込む男として、少しずつ使い道を見出されている気はする。


それがよいことか、悪いことか。


まだ分からぬ。だが、悪くはない。


屋敷を出ると、城下の空気は相変わらず賑やかで、少し湿っていた。人の声、物の匂い、道のざわめき。さっきまでの簾の内の静けさとは、やはりまるで違う。


「なるほどのう」


わしは通りを歩きながら、ひとりで頷いた。


町の言葉は、だいたいそのまま口から出る。

武家の言葉は、まず形を整えてから出る。

どちらがよい悪いではない。だが、同じ“よかろう”でも、その中身はまるで違う。


そして、その違いを知った今、たぶんわしは前より少しだけ、簾の向こうの娘の声を近く感じていた。

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