第31話 小さな使いは、城下の裏道をよく知る
武家屋敷の使いというものは、不思議と人を少しだけ早起きにする。
いや、別に誰かに叩き起こされるわけではない。約束の刻があるわけでも、遅れたら即座に首が飛ぶわけでもない。だが、ああいう家の用というのは、何となく「寝坊した顔では行きづらい」気がするのだ。
町の仕事なら、多少髪が跳ねておっても、「おお、今日も死なずに来たか」で済むこともある。村の手伝いなら、むしろ泥のついた顔の方がそれらしく見えることすらある。だが、武家屋敷は違う。あそこは、門の前に立つだけで人を少し黙らせる。下手に気を張るのも滑稽だが、まったく気を張らぬのも居心地が悪い。
その結果、わしは朝から珍しくまともな顔をして歩いていた。
「……これはいかん」
城下へ向かう途中、道ばたの水溜まりへ映った自分の顔を見て、思わずそう呟いた。
寝癖は、まあ何とか収まっておる。目も半分は開いておる。着物も、いつもよりはひどくない。だが、その“いつもよりまし”というだけのことが、どうにも落ち着かぬ。
「わしは何をしておるのだ。たかが使いで、妙にきちんとして」
自分で自分に呆れる。
もっとも、呆れておっても腹は減る。
朝の空気はまだ少し冷たく、城下の方からは店を開ける音や荷を下ろす音が流れてきていた。魚の匂い、菜の青さ、水を撒いた土の匂い。そういうものが混じると、腹の方が「難しい顔をしておる場合ではない」と言い出す。
「そうじゃのう。まずは今日の飯の種じゃ」
そう言って足を速めるあたり、結局わしはわしである。
北の方にある武家屋敷の前へ着くと、門はすでに半ば開いていた。昨日や今日に急ごしらえで開けた感じではなく、最初から“今朝は人を通す用がある”と決まっていた顔だ。
門前の下男が、わしを見るなり言った。
「日吉丸か」
「はい」
「待っておれ」
「はい」
こういう短いやり取りにも、武家屋敷らしさがある。町家なら「入れ」「そこへ置け」「ちょっと待て」がもっとその場の勢いで飛び交う。だが、ここは最初から言うことが少ない。少ないくせに、それで足りるように人が動いておる。
やがて、先日も顔を合わせた年かさの女房が出てきた。相変わらず、きびきびしていて、こちらを一息で値踏みする目をしておる。
「今日は早いな」
と、女房。
「腹が減る前に来ました」
「……そういう返しは、半分だけやめろ」
「では半分だけやめます」
「全部やめよ」
ひどい。
だが、その言い方には、以前ほどの“余所の若造”を見る棘はなかった。あくまで用のために使う者、としてこちらを扱っておるのだろう。門前で追い払う顔ではなく、“内へ入れても大丈夫な程度には見た”顔である。
「入れ」
と、女房が顎で示した。
わしは門をくぐる。
やはり、武家屋敷の内は空気が違う。外の城下は朝から動いておるのに、ここは静かなまま忙しい。下男が走る音も、侍女が桶を運ぶ手つきも、みな“音を立てぬように急ぐ”のだ。忙しいのに騒がしくない。そういうところが、町の店とは根本から違う。
庭先の脇へ通されると、そこには小さな包みが三つ並んでいた。
「今日はこれだ」
と、女房。
「一つは北の裏筋の小間物屋」
「うむ」
「一つは寺の裏へ抜ける道沿いの紙屋」
「ほう」
「一つは川向こうへ渡る手前の染め屋」
「……散っておるのう」
「散っておるから足を使う」
「全部、表から行くと目立つ筋ですな」
女房の目が、わずかに細くなった。
「そう思うか」
「思います」
「なぜ」
「小間物屋は朝の女衆が多い。寺裏の紙屋は坊主の小僧が出入りする。川向こうの染め屋は昼前に人足が増える」
「……」
おお、と内心で思う。
今のは少しよかったのではないか。
別に大げさなことを言うたつもりはない。ただ、城下を歩いていれば分かることだ。だが、武家屋敷の者にとっては、それを身体で知っておる若いのはそう多くないのかもしれぬ。
女房は包みを順に持ち上げながら言った。
「では、どの順で行く」
「小間物屋が先です」
「なぜ」
「朝のうちに女衆が集まる前なら、裏へ寄せやすい。次に紙屋。寺の小僧が動き始める前の方がよい。染め屋は最後でもまだ間に合う」
「……」
「ただし、表を通ると逆に時間を食う。小間物屋へは魚売りの並ぶ筋を避け、裏の桶屋の脇を抜けた方が早い」
女房は黙っておる。
黙っておるが、あきれた顔ではない。試しておる顔だ。
「おぬし」
と、女房。
「はい」
「町を地図で覚えておるのではないな」
「地図は持っておりませぬ」
「そういう意味ではない」
「では、足で」
「……そうだろうな」
その一言が、少しうれしい。
町で生きる男にとって、道を知っておるというのは、それだけで飯の種になる。どの筋が朝混むか、どこに犬が寝ておるか、どの辻で坊主と武家がすれ違うか。そういうものは、紙へは書けぬが、足へは残る。
「よし」
と、女房。
「その順で行け」
「承知」
包みを懐や腕へ分けて抱え、わしは屋敷を出た。
最初の小間物屋までは、表通りを外れて細い裏筋を抜ける。朝の城下はまだ人が増えきらぬ時間だ。だが、魚売りの方へ寄れば、すでに湿った藁と魚の匂いが濃く、人も荷も多い。あそこを正面から抜ければ遅い。ならば桶屋の脇だ。朝のうちはまだ木の削り屑が片寄せられておらず、足元に気をつければ抜けやすい。
「よしよし」
桶屋の裏を回りながら、ひとり頷く。
こういう時、町の呼吸を知っておるというのは本当に強い。屋敷の者は立派な門の中におり、寺の坊主は寺の用で町を見る。だが、わしのような何者でもない若造は、飯のためにどの筋でも歩く。だから、どの道がいつ死ぬか、生きるかが分かるのだ。
小間物屋の裏口へ包みを渡すと、今度は紙屋へ向かう。
寺の裏へ抜ける道は、時間を間違えると小僧や使いの僧にぶつかる。ぶつかって困るわけではないが、見られぬ方がよい時もある。朝の僧は、案外忙しい顔をしておるのだ。経より先に人の出入りを数えているような顔を。
紙屋は、案の定、表ではまだ戸を半ばしか開けておらぬ。だが裏へ回ればすでに人が動いておる。そういう店は多い。表の商いより先に、裏の帳面が目を覚ます。
「北の屋敷より」
と、包みを渡す。
店の若い衆は、短く頷くだけだ。
「返しは」
「ない」
「承知」
この“短い返し”にも、だいぶ慣れてきた気がする。
そして最後が、川向こう手前の染め屋である。
ここは、時刻を間違えると人足と荷車で死ぬ。まだ午前のうちなら、川へ向かう荷の前を半歩だけ先に抜けられる。わしは表を避け、寺の石垣の影を回り、低い垣根沿いに進んだ。
その時、背後から声がした。
「おぬし、朝から妙に急いでおるな」
ぎくりとして振り向けば、庄助である。
何だおぬしか、と思うてほっとしたが、よく考えればよくない。知り合いに見られると、後で面倒なことを聞かれるのだ。
「仕事じゃ」
と、わし。
「見れば分かる」
と、庄助。
「どこぞのよい口に潜り込んだ顔だな」
「よいかどうかはまだ分からぬ」
「武家筋か」
「……なぜ分かる」
「おぬしが今日は、少しだけ黙っておる」
「それだけで?」
「町の仕事なら、もっと肩の力が抜けておる」
ほう、と思う。
庄助も案外見る男らしい。普段はただの口の悪い荷担ぎかと思うておったが、人はやはり、他人の違和感には敏い。
「大したことではない」
と、わしが誤魔化すと、
「大したことではない顔ではない」
と返された。
「おぬし、そのうち町の男ではなくなるぞ」
「おつねにも似たようなことを言われた」
「誰だそれは」
「町娘じゃ。口がうるさい」
「似た者に囲まれておるのう」
「まったくです」
そこで別れようとしたが、庄助は去り際にもう一つだけ言った。
「でも、おぬしみたいな男は、そういう口の方が向いておるのかもしれぬな」
「ほう」
「何者でもないから、どこへでも半歩入れる」
「……」
「気をつけろよ。半歩で済むうちはよいが、三歩入れば戻りづらい」
「また難しいことを」
「おぬしの周りは、最近そういう話ばかりだろう」
「だいぶな」
ほんにその通りである。
庄助と別れ、最後の包みを染め屋へ届け終えた頃には、朝の城下はすっかり目を覚ましていた。人足が増え、店の声が上がり、川へ向かう荷車が列をなし始める。早く回った分だけ、あとは余裕をもって戻れる。
「悪くないのう」
屋敷へ戻る道すがら、わしは小さく笑った。
時間を読み、道を選び、無駄なく走る。そういう役目は嫌いではない。口だけでなく、足が働くのだと見せるにはちょうどよい。しかも、届け先が妙に引っかかる筋ばかりなのが、また少し面白い。
武家屋敷へ戻ると、女房はすでに待っていた。
「早いな」
「足が早いので」
「返しが安い」
「銭は高めで願いたい」
「図々しい」
「取り柄です」
「口がか」
「足も」
「……」
女房は包みの戻りがないことを確認し、それからわしの顔を少し眺めた。
「どの道を通った」
と、女房。
「小間物屋は桶屋の裏」
「うむ」
「紙屋は寺の石垣の影」
「うむ」
「染め屋は川へ向かう荷の流れを避けて、垣根沿い」
女房は一つずつ頷いた。
「悪くない」
「おお」
「だが、寺の石垣の影で少し誰かと喋っただろう」
「……」
「図星か」
「知り合いの荷担ぎがおりまして」
「余計なことは言うたか」
「少し」
「少しか」
「半分ほど」
「多い」
やれやれ。
だが、その詰め方も、もう完全な余所者へ向けるものではない。使う側の詰め方だ。そこが少しばかり嬉しい。
「もう少し、黙ることを覚えよ」
と、女房。
「難しい」
「知っている」
そこまで言ったところで、簾の向こうから声が落ちた。
「おぬし、足だけでなく鼻も利くのだな」
あの声である。
簾の向こうの娘は、最初から聞いておったらしい。
わしは思わず背筋を伸ばし、そちらへ向けて一礼した。
「光栄にございます」
「光栄かどうかは知らぬ」
「では、ありがたい」
「何でもありがたがるのだな」
「腹が減る男ゆえ」
「そこへ戻るか」
「腹も利きます」
一拍。
そして、簾の向こうで小さく笑いが漏れた。
「……やはり、変わった男だな」
「近ごろ、よう言われます」
「だろうな」
「皆が言うなら、そうなのでしょう」
「その物言いも覚えたか」
「便利なので」
「便利に使うな」
そう言いながらも、声は少しやわらかい。
わしはそこで、妙に胸のあたりが軽くなるのを感じた。道を知っておること、足で町を覚えておること、そういうものが武家屋敷の内で少しでも役に立ったのだと思うと、不思議と悪くない気分になる。
町の中を、ただ飯のためだけに走ってきたわけではない。
いや、最初は確かにそうだった。
だが今、その“飯のために覚えた道”が、別の顔を持ち始めておる。
「やれやれ」
と、心の中で呟く。
どうやら本当に、わしの足は、少しずつ町の境目を踏み始めているらしい。




