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第30話 簾の向こうの娘は、名をまだ明かさない

城下を歩いておると、たまに妙な気分になることがある。


朝のうちは、腹のことしか考えておらぬ。

昼になれば、次の飯の種をどう拾うかを考える。

夕方が近づけば、今日の銭でどこまで持つかを数える。


それがいつものわしだ。


ところが近ごろは、その合間に別のものが入り込む。


村の水路。

寺の帳面。

薬種屋の裏口。

小社の巫女。

屋根の上から町を見る猫目。

そして、武家屋敷の簾の向こうから、こちらを値踏みする声。


「まことに、落ち着かぬ」


小社を出たあと、わしはそう呟きながら城下へ戻っていた。


巫女の娘は、受け取った包みを袖に収め、またしても妙なことばかり言うてわしを帰した。あの娘は、言葉を置いていく。答えをくれるのではなく、頭の中へ引っかかる石みたいなものだけ置いて去るのだ。巫女というのは皆そうなのか、それともあの娘だけがああなのか、まだよく分からぬ。


だが、そんなことを考えていると、自然と足はまた北の方へ向いていた。


武家屋敷の筋である。


薬種屋から文具屋へ、文具屋から社へ。そうして回るうちに、結局、最初の起点があの屋敷であることがますます気になってきた。屋敷が直接悪いと言うておるのではない。ただ、あそこから流れ出るものが、近ごろのわしの見ておる点と点に、妙によく引っかかるのだ。


「……少しだけ、様子を見るだけなら」


自分にそう言い訳しながら、屋敷の近くまで来てしまう。


こういう時のわしは、本当にどうしようもない。猫目に言わせれば、近づきすぎる。農村娘に言わせれば、いずれ選ぶことになる。おつねに言わせれば、面倒に食われる。


だが、見たいものは見たいのだ。


屋敷の門前は、前と変わらず静かであった。


白い塀。

黒い門。

掃き清められた前の土。

武家屋敷というものは、こうして何事もない顔をして人を拒む。何も起こっておらぬように見せておいて、その内でいくつもの用が動いておる。人の顔を外へ見せぬところが、町家とも寺とも違う。


門前をうろつくのは怪しいので、わしは向かいの道を少し行き、植木屋の脇の陰へ腰を落ち着けた。そこからなら、門の様子がよく見える。よく見えるが、こちらはただの暇そうな若造にしか見えぬはずだ。たぶん。


しばらくすると、門が少しだけ開いた。


出てきたのは、先日わしを使い走りに出した女房ではない。若い侍女らしき娘が一人、何やら盆を抱えて廊下を渡っていくのが見えるだけだ。顔はよく見えぬ。だがその盆の運び方ひとつとっても、町娘とは違う。音を立てぬように、しかし遅くもなく、いつ誰に見られてもよいような姿勢だ。


「ほう」


武家の内には武家の内の流儀がある。


見ていると、門はまた閉じた。何も起こらぬ。いや、外から見れば何も起こっておらぬのだろう。だが、その“何も起こらぬ”が続くほど、かえって内が気になるのは悪い癖だ。


帰るか、と思うた時であった。


門の内側から声がした。


「そこにいるのは、あの若いのか」


どくり、と胸が鳴る。


あの声だ。


簾の向こうの娘の声である。


顔は見えぬ。門も閉じている。だが、あの少し澄んでいて、こちらを上から測るようでいて、どこか面白がってもいる声は、聞き間違えようがない。


門番らしき男が返す。

「は、どうやらそのようで」

「そう」


それきり、しばし間。


「入れてよい」


その一言で、門が開いた。


「おお……」


思わず声が漏れた。


門番があからさまに迷惑そうな顔をしたので、わしは慌てて咳払いした。あまり感心丸出しの顔をするのもよろしくない。だが、仕方あるまい。向こうから入れと言われるとは思うておらなんだのだ。


「日吉丸」

と、門番。

「はっ」

「来い」

「はい」


わしは立ち上がり、門をくぐった。


前回よりも、少し奥へ通された。


庭先を抜け、縁側の脇、そして半ば下ろされた簾の前。ここで止まれ、と門番に示される。顔は見えぬ。だが気配は近い。簾の向こうに、たしかに人がおる。


あの娘だ。


「よう来たな」

と、声。

「呼ばれたので」

「呼ばれぬと来ぬのか」

「呼ばれずとも近くへは来ますが、中まではさすがに」

「口はやはり軽い」

「褒めておられますか」

「そればかりだな、おぬしは」

「大事なことでございますゆえ」


簾の向こうで、ふ、と気配が揺れた。笑うたのだろうか。顔が見えぬのが惜しい。こういう時ばかりは、簾というものが少し恨めしい。


「今日は社まで行ったそうだな」

と、声が言う。


わしの背筋が、ほんの少しだけ固くなる。


見られていたのか。いや、見られていたというより、屋敷から出した使いの戻り先は当然分かる、ということかもしれぬ。だが、それにしても早い。社まで回ったことを、もうこの娘は知っておる。


「足は、よう働く」

「飯がかかれば」

「何でも腹へ戻すのだな」

「迷った時に分かりやすいゆえ」

「分かりやすい男だ」

「近ごろ、皆にそう言われます」

「だろうな」


また、その“だろうな”である。


この娘の返しは、妙に胸へ残る。冷たいようでいて、ただ切るのではなく、こちらを見た上で置いてくる言葉だ。猫目のような刃ではなく、巫女のような予兆でもなく、おつねのような現実でもない。もっとこう、家の内から外を見ている者の言葉である。


「おぬし」

と、娘は言った。

「はい」

「今日は、用を無難に足したそうだ」

「無難で終われば上等です」

「褒めればすぐ調子に乗るか」

「乗るやもしれませぬ」

「正直だな」

「取り柄です」

「軽口もだがな」


また、気配が少し揺れる。


やはり笑うておるのだろう。ほんに、顔が見えぬのが惜しい。


「名を聞こうか」

と、娘が言うた。


おや、と思う。


「日吉丸にございます」

「それは聞いた」

「では、何を」

「もっと先だ」

「もっと先?」

「どこの者で、何を考え、なぜああも余計なところへ目が行くのか」

「それは一つの名では足りませぬな」

「足りぬだろう」

「では、追々に」

「勝手に追うな」

「では、問うてくだされ」

「……」


娘は一拍置いた。


この“間”が厄介なのだ。簾越しゆえに、相手の顔は見えぬ。だが、こちらの言葉の置き方一つ一つを測っておるのは分かる。しかも、ただ若い娘が興味本位で聞いておるのではない。家の内にあって、人の使い方を知り始めている者の問う間だ。


「おぬしは」

と、娘。

「はい」

「なぜ、余計なものを見る」

「見えるから」

「理由になっておらぬ」

「半分はなっております」

「残り半分は」

わしは少し考えた。


ここで妙なことを言えば、軽薄と取られるだろう。だが、あまりに整えすぎても嘘くさい。相手は、そういう嘘を嫌う娘のように思えた。


「面白いから、かもしれませぬ」

と、わしは正直に言った。

「最低だな」

「よく言われます」

「それもか」

「はい」

「……だが」

娘の声が少し低くなる。

「面白いだけで、あそこまで足は伸びぬであろう」

「それも、よう言われます」

「誰に」

「皆に」

「便利な男だな」

「腹と口だけは、よく働きます」


今度は、はっきりと笑いが混じった気がした。


「口ばかりかと思えば、手も足も案外ましなのよな、おぬし」

「案外、でございますか」

「案外だ」

「惜しい」

「十分だろう」

「もう少し欲しいところです」

「欲張るな」


このやり取りが、妙に心地よい。


不思議なものだ。顔も見えぬ相手と簾越しに話しておるだけなのに、何だかこちらの輪郭が少しずつ見られていく気がする。猫目とは違う。猫目は互いに走りながら測る。おつねとは違う。おつねは日々の中でぶつかりながら見る。だが、この娘は、少し離れたところから声だけでこちらの形を探っておる。


「おぬし」

と、娘はまた言った。

「はい」

「町を歩いておるだけでは、拾うものにも限りがあろう」

「ほう」

「村にも顔を出し、寺にも出入りし、町の娘とも喋り、妙な顔の娘にも縁がある」

「……どこまでご存じで」

「だいたいは、見える」

「恐ろしい」

「そうでもない」


いや、十分に恐ろしい。


だが、その恐ろしさは嫌なものではなかった。むしろ、よく見ておるのだなと感心する方が先に立つ。おそらくこの娘も、屋敷の中にいながら外の空気へ耳を澄ませておるのだろう。


「名は、まだ要らぬ」

と、娘が言う。

「要らぬ、とな」

「おぬしに、わたしの名を今渡す理由がない」

「もっとも」

「だが、また呼ぶことはあるかもしれぬ」

「それは光栄」

「光栄かどうかは、その時次第だ」

「厄介ごとがついてきそうですな」

「嫌か」

「嫌いではありませぬ」

「変わった男だ」

「近ごろ、よう言われます」

「皆が言うなら、そうなのだろうな」

「その理屈も、近ごろよく聞きます」


簾の向こうの空気が、また少しだけ柔らかくなった。


やはり笑うておるのだろう。顔は見えぬ。だが、今のはたぶん、かなり近いところで笑った気配だ。


「では」

と、わしは少し声を整えた。

「また呼ばれる日を待つことにいたします」

「待つのか」

「待つとも」

「待たずに来るくせに」

「それも半分」

「残り半分は」

「呼ばれれば、もっと堂々と来られます」

「ふふ……」


今度は、本当にはっきりと笑い声が漏れた。


短い。だが、確かに笑うた。


わしは思わず顔を上げた。簾が少し揺れ、その向こうに人影の動く気配がある。だが、やはり顔は見えぬ。ほんに、じれったいものである。


「おぬし」

と、娘は言った。

「何でございましょう」

「本当に、口だけではないのな」

「たまには」

「たまにでは困る」

「では、今後は少しずつ」

「それも、今後次第だ」


そして、また少し間があった。


その間のあと、娘は静かに言った。


「村、寺、町、武家――おぬしはもう、そこそこの境目へ足をかけておる」


わしは息を呑んだ。


それは、近ごろ自分でぼんやり思うていたことでもある。だが、こうして他人の口から言われると、妙に現実味がある。


「まだ浅い」

と、娘は続けた。

「だが、浅い者の方が拾えるものもある」

「ほう」

「深く入りすぎぬうちはな」

「……では、まだ浅いままの方がよろしいか」

「さあな」

「そこは濁されますか」

「そこから先は、おぬし次第だ」


巫女にも似たようなことを言われた気がする。


見ておる者は、いずれ選ぶことになる。

うつけに近づく者は、前のままでは戻れぬ。

そして今、簾の向こうの娘は、境目へ足をかけておると言う。


どうやら、近ごろわしの周りの娘たちは、皆してわしの足先ばかり見ておるらしい。


「……やれやれ」


思わずそう漏らすと、娘が問う。

「何だ」

「近ごろ、難しいことを言う娘ばかり寄ってきます」

「娘“ばかり”?」

「おお、そこを拾われるか」

「拾う」

「強い」

「おぬしほどではない」

「わしは強くはない」

「口が強い」

「それは否定しづらい」


すると、簾の向こうでまた気配が揺れた。


「あまり娘を増やすな」

と、娘が小さく言う。

「は?」

「余計にややこしそうだ」

「それは……努力はしておるのですが」

「しておる顔には見えぬ」

「その評価はだいぶ厳しい」

「妥当だ」


その返しに、わしはとうとう笑ってしまった。


こうしていると、本当に不思議である。顔も見えぬのに、妙に近い。近いというのは距離ではなく、声の当たり方の話だ。向こうがこちらをどう見ているかはまだ半分も分からぬ。だが、少なくとも“ただの使い走り”としてだけでは見ておらぬのだろう。


「では」

と、娘が言った。

「今日はもうよい」

「はい」

「次に呼ぶことがあれば、もっとましに働け」

「今以上をお望みで」

「当然だ」

「欲深い」

「誰のせいだ」

「飯の種のせいでございましょう」

「……変わらぬな」

「そこが取り柄にございます」


娘は何も言わぬ。


だが、最後にごく静かに言った。


「名は、まだ明かさぬ」


わしは頭を下げながら、その一言を受けた。


「承知」

と、答える。

「では、こちらもまだ、日吉丸のままでおきましょう」

「それでよい」

「いずれ、もっと別の名で呼ばれる日が来るかもしれませぬな」

「おぬし次第だ」


簾の向こうの娘は、それきり黙った。


話は終わりということだろう。わしは一礼し、廊下の脇を下がって、庭先へ戻る。門へ向かう途中、白い砂利の上へ春の陽がきらりと差しておった。


武家屋敷を出ると、城下の喧噪がまた耳へ戻ってくる。


魚の匂い。

人の声。

荷車の音。

どこか遠くで寺の鐘。


そして、その全部のあいだに、今までより少しだけ自分の立ち位置が見える気がした。


村、寺、町、武家。


その境目へ、わしは少しずつ足をかけておる。


しかも、そのどこにも、妙な顔をした娘がおる。


町で踏ん張るおつね。

土の上で真っ直ぐに怒る農村娘。

顔を変えながら屋根の上から流れを見る猫目。

風のように言葉を置いていく巫女。

そして、簾の向こうで、声だけで人を測る娘。


「……まことに、忙しいのう」


わしは空を見上げて、少しだけ笑った。


腹のために飯の種を拾っていたはずが、気づけば人と人の境目ばかりを歩いておる。だが、それも悪くない。悪くないどころか、どうやらこれからますます面白くなりそうな気さえしてくる。


もちろん、面白いことは大抵、厄介でもあるのだが。


それでも足が向くのだから、仕方あるまい。

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