第29話 武家屋敷より、使いが来る
雨上がりの翌朝は、道が少しだけ町の本音を見せる。
乾いておる日なら、皆それぞれの顔をして歩く。魚売りは魚売り、武家の小者は小者、寺の坊主は坊主。だが雨の翌朝は違う。泥の跳ねた裾、濡れたまま乾いた草履、夜のうちに慌てて動いた者の足跡。そういう小さな乱れが残る。
もっとも、それをいちいち見ておるから、わしは猫目や農村娘やおつねに「余計なところばかり見る」と言われるのだろう。
「まったく、近頃は誰に会うても説教ばかりじゃ」
そうぼやきながら、わしは朝の城下を歩いていた。
昨日の雨宿りのことが、まだ少し胸に残っている。
猫目は、化けるのは疲れるのではない、素の顔を出す方が疲れる、と言うた。あれは妙に耳へ残る言葉だった。人に化けぬわしには、全部は分からぬ。だが、そう言う時の猫目の横顔が、普段より少しだけ年相応に見えたことだけは忘れられぬ。
もっとも、そんなことを考えておっても腹は減る。
朝の城下へ出れば、やはり飯の種を探さねばならぬ。おつねの店へ顔を出すのもよいが、毎日あの店先へ入り浸っておれば、本当にただの居候同然になってしまう。いや、半ばそうなっておる気もするが、それはそれとして、男には男の稼ぎ口というものがあるべきだ。
「今日も何か、よい口が転がっておるとよいのう」
そう呟いて、人足や使い走りの集まりやすい辻へ向かう。
城下は朝から忙しい。荷を担ぐ者、店を開ける者、露店の位置取りでもめる者、寺へ走る小僧、武家屋敷へ向かう下男。どの顔にも用向きがある。用向きがあるところには、たまに余った仕事も落ちる。
辻へ着くと、すでに何人かの男が立っていた。見覚えのある顔もある。荷運びで一緒になった庄助も、そのひとりだった。
「おや」
と、庄助がわしを見る。
「今日はだいぶまじめな顔だな」
「いつもまじめじゃ」
「その口を閉じておればな」
「閉じると死ぬ」
「では、そのうち死ぬな」
ひどい友である。友と言えるほど深い仲でもないが、顔見知りの男にこういうことを言われるのは、むしろ気が楽だ。
わしは庄助の横へ並んだ。
「何ぞ、よい口は」
「まだだな」
「なら待つか」
「待っておる間に、また余計なものへ首を突っ込む顔をしておる」
「顔へ出ておるか」
「分かりやすすぎる」
これで本日一人目である。
やれやれと肩をすくめた、その時だった。
辻の向こうから、見覚えのある女がこちらへ歩いてきた。
年の頃は三十前後、歩き方はきびきびとしておるが、どこか人を使うのに慣れた空気がある。着物は地味だが質がよく、余計な飾りがない。以前、わしが武家屋敷へ干し物や薬種や文箱を届けた時、門先で応対した年かさの女房ではない。だが、同じ屋敷筋の空気をまとっている。
武家屋敷づきの使いだ。
「おお」
思わず声が漏れた。
女はまっすぐこちらへ来て、立ち並ぶ男たちの顔をざっと見たあと、わしの前で止まった。
「おぬし」
と、女。
「日吉丸と申したな」
「はい」
「覚えておるとは光栄」
「口は相変わらず軽そうだ」
「軽いのは口、足は早い」
「それも聞いておる」
聞いておる、という言い方に、庄助が横でわずかに目を丸くした。そりゃそうだろう。ただの荷運びの若造に、武家屋敷づきの女がわざわざ声をかけに来るのだ。少しは目立つ。
「仕事だ」
と、女は言った。
「請けるか」
「銭次第にございます」
「きちんと出す」
「では、請けます」
「早いな」
「飯の種に迷うと、飯の方が先に逃げる」
女は呆れたように鼻を鳴らしたが、追い返しはしなかった。つまり、使うつもりは最初から固まっておったのだろう。
「何を運ぶ」
と、わしは尋ねた。
「運ぶだけではない」
「ほう」
「屋敷から先へ、二つ三つの用を足してもらう」
「使い走りか」
「そうだ」
「では、だいぶ軽い口より足向きの仕事じゃ」
「そうであってほしいものだ」
女のその言い方に、少しだけ含みがあった。
ただの荷運びではない。
しかも、“二つ三つの用”と言う。
これはつまり、また使ってみよう、ということだろう。前回、門前で荷を無難に届けた若造が、今度はもう少し細かい用に足るかどうかを見る。そういう仕事である。
「おぬし、やるのか」
と、庄助が小声で聞く。
「やるとも」
「武家筋だぞ」
「飯がついてくるなら、武家でも坊主でも」
「その言い方が怖い」
「半分は冗談じゃ」
「半分あるのか」
ある。
だがそれを正直に言うと、また皆に呆れられるのでやめておいた。
女について歩きながら、わしは内心で少しだけ気を引き締めた。武家屋敷は、表向きの荷より、内の用の方が本性が出る。誰に何を届けるか、どの門を通るか、どこまで見てよいか、どこから見ぬふりをするか。そういう細かな塩梅が問われる。
しかも、あの屋敷には簾の向こうの声がある。
あの声の主が、またどこかでこちらを見ておるかもしれぬと思うと、妙に背筋がむず痒くなる。顔も知らぬのに、声だけが残るというのは、不思議な縁だ。
「おぬし」
と、女が前を向いたまま言った。
「何だ」
「妙な顔をするな」
「妙か」
「何か企んでおるように見える」
「そう見えるなら、たぶん半分はそうかもしれぬ」
「半分で済むのか」
「では三分ほど」
「減らすな」
ひどい。
だが、女房の方も前より少し言葉が柔らかい。まるきりの余所者扱いではなく、“使うかもしれぬ若いの”として見ておる顔だ。そういうわずかな違いが、武家屋敷のような場所では妙に目立つ。
屋敷へ着くと、門前の空気は前回よりほんの少しだけ違っていた。
門は相変わらず静かで、塀も白く、何もかも息苦しいほどきちんとしておる。だが、前より門番の視線が軽い。まるきり知らぬ顔へ向ける目ではなく、「ああ、この前の」と一瞬で済ませる目だ。
「やはり、顔を覚えられるのは大きいのう」
思わず小さく呟くと、女が横目で睨んだ。
「そこで気を緩めるな」
「すぐ叱る」
「叱られるうちがましだ」
「近ごろ、皆それを言う」
「皆が言うなら真に受けろ」
「それも近ごろ、よう聞く」
まったく、女というものは示し合わせたように同じことを言う。
屋敷の内へ入れてもらえたのは、前回と比べればずいぶんな違いであった。といっても、奥へ通されるわけではない。門をくぐり、庭先の脇までだ。だがそれでも、内の空気が少し近い。
砂利は掃かれ、濡れた箒目が残っている。縁側の下も塵ひとつなく、廊下を渡る女中たちの足音まで整っておる。町家の忙しさとは違う、“決められた忙しさ”だ。
女は小さな包みを三つ、順に示した。
「一つは北の薬種屋」
「……ほう」
「一つは茶屋の手前の文具屋」
「うむ」
「最後は、城下外れの小さな社」
「社?」
「そうだ」
「これはだいぶ散っておるのう」
「だから足が要る」
「足だけでよいか」
「口はなるべく閉じておけ」
「それは難しい」
「知っている」
どの届け先も、妙に引っかかる。
薬種屋は言うまでもない。
茶屋の手前の文具屋も、茶屋と聞くだけで少し気になる。
そして最後の小さな社。
小さな社と聞いて、なぜかあの巫女の顔が浮かんだ。白と緋、風を見ておる目、うつけに近づく者は戻れぬという妙な言葉。
「……」
「何を考えている」
と、女が言う。
「いや」
「どうせ余計なことだろう」
「たぶん少し」
「少しならまだよい」
本当はもう少し多い。
だが、ここでそれを言う必要もない。
女はさらに言う。
「今日は走るだけでよい。中を覗くな。余計なことを聞くな。届けたら戻れ」
「承知」
「返事だけはよい」
「そこは褒めてくれてよい」
「褒めておらぬ」
そのやり取りの最中、ふと廊下の奥で気配がした。
視線、と言うほどはっきりしたものではない。だが、簾の向こうか、柱の陰か、そのあたりに人がおる。見られておるのではない。測られておる感じだ。
あの声の主だろうか。
顔は見えぬ。だが、妙に背筋が伸びる。あの屋敷において、自分がただの走りの若造ではなく、“少し使ってみようかと思われている若造”であるという感触が、妙にくすぐったい。
「行け」
と、女が言うた。
「うむ」
包みを受け取り、わしは門を出た。
最初の届け先は薬種屋。
またあそこか、と、内心で少しだけ笑う。城下へ深く入れば飯の種も厄介も増えるとは思うておったが、本当にその通りらしい。よりによって、わしが近ごろ気にしておる場所ばかりへ、向こうから用が来る。
これは、運がよいのか、悪いのか。
「たぶん、両方じゃのう」
歩きながらそう呟く。
薬種屋の前は、昼に近いぶん人の出入りが増えていた。表向きは病人向けの薬や日常の傷薬を買う者でにぎわっておる。だが、以前見たような裏口の気配は、今は見せぬ。こういうところが、かえって恐ろしい。
わしは包みを表の若い衆へ渡した。
「北の屋敷より」
若い衆の目が一瞬だけ動く。
「……確かに」
「返しは」
「ない」
「では行く」
「待て」
若い衆は一瞬だけ中を見てから、小さな紙を寄越した。
「これを文具屋へ」
「おや」
「余計なことは聞くな」
「近ごろ皆がそう言う」
若い衆は、こちらの軽口を受けぬ顔をした。よろしい。あまり受けられても困る。
紙を懐へ入れ、次は文具屋へ向かう。
茶屋の手前の文具屋――これがまた、妙な場所にある。表向きは筆や紙を売る真面目な店だ。だが茶屋の筋に近いというだけで、文や帳面が物より先に動く気がしてならぬ。
そこへ紙を渡すと、今度は店主らしき老人が、目だけでこちらをひと撫でした。
「屋敷よりか」
「そうじゃ」
「若いの、足が早そうだな」
「腹が減るので」
「そうか」
老人はそれ以上何も言わず、小さな紙包みを一つ寄越した。
「社へ」
「社?」
「城下外れの小社だ。分かるな」
「分かる」
「では行け」
「皆、ずいぶん短いのう」
「余計なことを言う者は長生きせぬ」
「……」
「冗談だ」
「そうは聞こえぬ」
老人は口元だけで少し笑った。
こういう笑い方をする者は嫌いではない。嫌いではないが、好きとも言い切れぬ。何しろ、何を知っていて何を黙っておるか分からぬからだ。
最後の届け先、小さな社は、城下の外れの林の脇にあった。
寺ほど大きくはない。村の鎮守に毛が生えたほどの、小さな社だ。だが手入れはされている。掃き清められた砂、苔の残る石、鈴縄。人が来ぬわけではないが、絶えず参るほどでもない。そういう場所だ。
「これは、いよいよ怪しいのう」
そう言いながら鳥居をくぐると、社の脇から白と緋が見えた。
巫女である。
そして、その顔には見覚えがあった。
「ああ」
思わず声が出る。
巫女の娘は、こちらを見ると、少しだけ目を細めた。驚いた顔ではない。来ると知っていた者の顔だ。
「やはり来たか」
と、娘。
「今度は包みを持っておるな」
「持たされておる」
「持たされる足になったか」
「どうやら、そうらしい」
巫女はその一言に、ほんのわずかに口元を和らげた。
あの娘もまた、笑わぬくせに時々こうして“少しだけ笑う”のだから、たちが悪い。
わしは紙包みを差し出した。
「これは、ここへ」
「そうだろうな」
「受け取るのか」
「受け取る」
「中は」
「聞くな」
「皆が同じことを言う」
「皆が言うなら、学べ」
その言い方に、わしは苦笑した。
小社の前で、巫女装束の娘が包みを受け取る。城下の文具屋から渡された包みを、である。これでまた、武家屋敷と町の店と社が線で結ばれた気がする。
「……面白い」
と、わしは小さく呟いた。
巫女がすぐ言う。
「面白がるな」
「うむ」
「だが、面白がっておる顔だ」
「それも皆が言う」
「皆が言うなら、そうなのだろう」
巫女は包みを袖へ収めた。
「おぬし」
と、娘。
「足が伸びてきたな」
「どこまで」
「町から、武家へ。武家から、薬種屋へ。薬種屋から、社へ」
「よく見ておる」
「風が言うておる」
「便利な言い方じゃのう」
「おぬしの“腹が言う”よりは、少し上品だ」
「ひどい」
巫女はそこで、今度こそほんの少し笑った。
簾の向こうの声の主にまた見られているのかもしれぬ。
猫目には屋根の上から町をどう見るかを見せつけられた。
おつねには店を守る顔の強さを見た。
そして今、巫女はわしの足がどこまで伸びておるかを、静かに数えておる。
どうやら本当に、ただの荷運びや使い走りでは済まぬところへ足を入れ始めているらしい。
城下へ来れば、飯の種も厄介も増える。
そして今、その飯の種は、明らかに厄介のすぐ隣に置かれ始めていた。




