第28話 雨宿りひとつで、忍びは人を試す
春の空というものは、朝にあれほど澄んでおっても、昼を回ると急に気が変わることがある。
午前のうち、猫目を屋根の上で見つけた時には、あれほど青かった。風も軽く、町の流れもよく見え、屋根の上の娘は猫のように瓦へ溶けていた。
だが昼を過ぎ、わしが小口の使いを二つばかり片づけ、城下の端を回って戻る頃には、空の色が少しずつ鈍ってきた。雲が低い。春先の雲は、夏のように威勢よくはないが、その分、黙って寄ってきて、気づいた時には頭の上を塞いでおる。
「降るかのう」
そう呟いたのは、たしか武家屋敷の筋をひとつ離れた辻のあたりであった。
答える者はおらぬ。だが空は、たぶん降る、と言うておるように見えた。
わしは少し足を速めた。
急ぎの荷はもうない。ならば、どこぞの軒を借りるなり、おつねの店先へ顔を出すなり、雨をしのぐ当てはある。城下に長くおると、そういう“ちょっとした逃げ場”が頭に入ってくる。ありがたいことだ。
だが、その“逃げ場”へ向かう前に、見覚えのある背を見つけた。
細い。
目立たぬ。
それでいて、目立たぬこと自体が少し目を引く。
町娘の格好でも、村娘の格好でもない。今日はもっと地味な木綿の小袖に、頭巾を少し目深にかぶっておる。荷を持つでもなく、何かを買うでもなく、通りの人波へ半歩だけ遅れて歩いている。
猫目であった。
「おお」
思わず声をかけかけて、やめた。
知り合いの顔はするな、と言われているのを、わしも一応は覚えておる。もっとも、あれは守れておるようで守れておらぬのだが、それでも最初から堂々と呼ぶのは、さすがに少し憚られる。
なら、そっと近づけばよいかと言えば、そう簡単でもない。
猫目は、人の気配に敏い。後ろにつけばたいてい気づく。気づいたうえで、気づかぬふりをすることもあれば、そのまま細路地へ消えてしまうこともある。そうなると、こちらの立つ瀬がない。
どうしようかと迷ううちに、最初の粒が落ちた。
ぽつ。
と、頬へ冷たいものが当たる。
続いて、袖へひとつ。鼻先へひとつ。地面へ小さな黒い点が生まれ、それがすぐに数を増していく。
「ぬう」
降り始めると早い。
周りの人々も一斉に空を見上げ、小走りになり、店の軒や寺の門を目指し始める。洗濯物を抱えて走る女。荷へ布をかける男。子を引っ張る母親。雨は、人の顔から余計なものを一瞬で剥ぐ。今は誰もが、「濡れたくない」という同じ顔をしておる。
猫目も、さすがに立ち止まった。
少し迷うように足を止め、通りの脇の軒下へ飛び込む。古びた木戸のある、小さな空き家めいた家の軒であった。人が多く集まる店先ではない。通りから半歩引いた位置で、人目を避けるにはちょうどよい。
「やはり、そこを選ぶか」
わしは小さく笑い、そのまま同じ軒へ走った。
猫目がこちらへ気づいた時には、もう遅い。
「……おぬし」
「雨じゃからのう」
「だからといって、なぜここだ」
「濡れるよりましじゃ」
「他にも軒はある」
「おぬしの近くほど、面白い軒は少ない」
「最低だな」
「よく言われる」
雨はすぐに本降りになった。
春の雨は、冷たいくせに重すぎぬ。だが油断すると、じわじわ袖口や肩口を濡らしてくる。軒下へ逃げ込んだ人々の間からは、濡れた草履の匂い、湿った土の匂い、木の匂いが立ちのぼる。
猫目とわしのいる軒は狭い。
前の物陰ほどではないが、二人で並ぶには微妙に近い。肩が触れるほどではない。だが、腕が少し動けば布が擦れる程度には近い。猫目はそれが不満らしく、わしが来た途端に半歩だけ離れようとした。だが、背後は壁である。どうにもならぬ。
「狭いのう」
と、わしが言うと、
「喋るな」
と、猫目。
「喋らぬと、雨音ばかり聞こえる」
「それでよい」
「風情があるのう」
「おぬしがそう言うと、風情も安くなる」
「ひどい」
猫目は頭巾の端から垂れた雨を指で払った。
こうして近くで見ると、やはり地味な格好はよく似合う。似合う、というのも妙な話だが、“目立たぬことが上手い”者には、そういう似合い方がある。何も飾らぬのに、そこにいる理由だけはあるように見える。
「今日は何の顔じゃ」
と、わしは小声で尋ねた。
「何がだ」
「町娘でも村娘でもなかった」
「ただの娘だ」
「忍びの端くれが言うと、だいぶ嘘くさい」
「嘘ではない」
「本当か」
「“ただの娘に見える顔”という意味では、本当だ」
「おお」
「感心するな」
「いや、今のは少し格好よかった」
「褒めるな」
相変わらずである。
だが、雨のせいか、猫目の棘もいつもより少しだけ湿っている気がした。完全に抜けることはない。だが、降ってくる雨音に混じると、あの鋭い声も少しだけ遠くなる。
わしは軒先から雨の筋を見た。
道が少しずつ暗くなり、町の流れが崩れていく。人は軒に寄り、店は半ば戸を閉め、急ぎの使いだけが頭を下げて走る。さっき猫目が言うていた“町の流れ”も、雨ひとつでだいぶ形を変えるらしい。
「のう」
と、わしは言う。
「何だ」
「雨の日は、流れも変わるのか」
「変わる」
「どう」
猫目は少し外を見てから答えた。
「急ぐ者と、急がぬ者がはっきりする」
「ほう」
「晴れの日は、皆それなりの顔で歩ける。だが雨の日は、隠しておった用向きが足へ出る」
「なるほどのう」
「寺へ急ぐ者、屋敷へ戻る者、店を守る者、雨に濡れてまで会いたい相手のいる者」
「……」
「そういうものが、見やすくなる」
それは、なかなか面白い見方であった。
わしは猫目の横顔を見た。
「おぬし、本当にそういうことばかり考えておるのう」
「生きるためだ」
「難儀じゃ」
「おぬしのように、何でも面白がって近づく方が難儀だ」
「またそれを言う」
「事実だからな」
雨音が、少し強くなる。
軒先の端から細い水の幕が落ち、通りの向こうをぼかしていく。人の顔も、店の形も、半分ほど溶けたように見えた。
そういう中で、猫目はふいに言った。
「おぬしは誰にでも近づきすぎる」
言われると思うていた言葉である。
わしは苦笑した。
「またそれか」
「まただ」
「近づけば早い」
「何が」
「人となりも、空気も、嘘のつき方も」
「……」
「離れて見ておれば見えるものもある。だが、近づかねば聞こえぬものもある」
猫目は目を細めた。
「おぬしは、近づく方へ傾きすぎておる」
「おぬしは、離す方へ傾きすぎておる」
「……」
ほんの少し、猫目の肩が止まった。
雨の音のせいかもしれぬ。だが、たしかに止まった。
「おぬし」
と、猫目が低く言う。
「分かったようなことを言うな」
「分かってはおらぬ」
「では何だ」
「見えるだけじゃ」
「何がだ」
「おぬしは誰にも近づかせなさすぎる」
猫目はすぐには答えなかった。
軒下の狭い空気の中で、雨の匂いと湿った木の匂いが混ざる。その沈黙は、気まずいというより、何かを測る沈黙に近かった。
「……近づかせれば」
と、やがて猫目は小さく言った。
「やりにくくなる」
「何が」
「全部だ」
「忍びの端くれの仕事か」
「それも」
「それ“も”?」
「人を見る時も」
「……」
「近くに置けば、切れが鈍る」
その言い方は、妙に静かだった。
わしは口を閉じる。
そういうことか、と、少し思う。
猫目は冷たいのではない。いや、冷たいところもあるのだろうが、それ以上に、近づきすぎると自分の手が鈍ると知っておるのだ。忍びとしてか、あるいはそれ以前に、そういう生き方しか知らぬのか。いずれにせよ、人をあまり近くへ置かぬのは、嫌いだからではなく、必要だからなのかもしれぬ。
「辛いのう」
と、わしはぽつりと言った。
猫目がぴくりとこちらを見る。
「何がだ」
「何でも近づけすぎるわしも難儀じゃが、何でも離しすぎるおぬしも、だいぶ難儀そうじゃ」
「……余計なお世話だ」
「それは分かっておる」
「なら言うな」
「言う」
「やはり最低だな」
「それも知っておる」
猫目はため息をついた。
そのため息には、呆れ半分、諦め半分、そしてほんの少しだけ、さっきより柔らかいものが混じっていた。雨というのは、人の棘を少し湿らせるのかもしれぬ。
「おぬし」
と、猫目が言う。
「うむ」
「人に化けぬな」
「化けぬ」
「なぜだ」
「面倒だから」
「……」
「いや、半分は嘘じゃ」
「では残り半分は」
「化けても、たぶんすぐばれる」
猫目の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「それはそうだ」
「ひどい」
「おぬしは、顔が正直すぎる」
「皆してそう言う」
「皆が言うなら、本当なのだろう」
「その理屈、近ごろ多いのう」
わしは壁にもたれ、軒の外を見る。
雨はまだ止みそうにない。町の流れは、たしかに変わっていた。急ぐ者は走り、急がぬ者は待ち、雨に濡れても通る者の顔には、それだけの理由がある。
すると、通りの向こうを、見覚えのある僧衣がよぎった。
僧だ。
しかも、ただの参りの坊主ではない。以前、茶屋で見たか、寺の裏で見たか、とにかく町慣れした裾の運びをする男である。雨の中を足早に、だが急ぎすぎぬよう急いでいる。懐を少しかばうような手つきまで見えた。
猫目も、すぐにそれへ気づいた。
「見たか」
と、わし。
「見た」
「寺の顔か」
「寺の顔をしておる」
「だが、別の用向きじゃな」
「……」
猫目は答えぬ。
答えぬが、目が完全に仕事へ戻っておる。雨宿りの娘ではなく、流れを読む者の目だ。
「追うか」
と、わしが小声で言うと、
「追わぬ」
と、猫目は即答した。
「なぜ」
「雨の日に急ぐ僧は、一人だけではない。ここで飛び出せば、逆に目立つ」
「なるほど」
「下で生きる者は、すぐ足を出す」
「おぬし、まだそれを言うか」
「本当だ」
「では、上から生きる者はどうする」
「覚えておく」
短いが、よい言葉である。
飛びつくな。まず覚える。
それは、わしの苦手なことでもあった。
雨の筋の向こうで、僧の背が角を折れて消える。追えば追えるかもしれぬ。だが、猫目の言う通り、今ここで飛び出せば、僧に見られるだけでなく、こちらの顔も覚えられる。そういう“損”の勘定を、猫目は瞬きひとつのあいだにしておるのだろう。
「おぬし」
と、猫目が言った。
「うむ」
「今の、追いたいと思うたな」
「思うた」
「やはりな」
「だが、出なかったぞ」
「それは、少しだけましだ」
「少しだけか」
「十分だ」
雨音が、ようやく少し弱まってきた。
軒先から落ちる水の筋も細くなり、通りの向こうがまた少し見えるようになる。人々も、そろそろ軒から離れる頃合いを測り始めていた。
猫目が、そっと軒の外へ手を伸ばした。雨粒を確かめるように指を出し、それから引っ込める。
「止む」
と、娘。
「おぬし、天気まで読めるのか」
「空を見れば分かる」
「皆、そう言うて読めぬこともある」
「おぬしは見ても見えておらぬだけだ」
「ひどい」
「事実だ」
猫目は軒から離れようとした。
わしは、その横顔を見て、ふと口をついた。
「のう」
「何だ」
「おぬしは、化けてばかりで疲れぬか」
猫目の足が止まる。
今度はさっきよりも、はっきり止まった。
「町娘の顔、村娘の顔、何でもない顔。そうしてずっと、人と距離を取って歩くのは」
「……」
「疲れるのではないか」
猫目はしばらく何も言わなかった。
軒先から落ちる最後の雫が、ぽつ、ぽつ、と遅くなる。通りへ出ていく人の足音が戻り始める。
やがて猫目は、こちらを見ずに言った。
「化けるのは、疲れるのではない」
「ほう」
「素の顔を出す方が、疲れる」
わしは、返す言葉を少し失った。
それは、だいぶ重い言葉である。
猫目は続ける。
「化けておれば、相手はその顔だけを見る」
「……」
「素のままでおれば、余計なものまで拾われる」
そう言うたあと、猫目はわずかに首を傾けた。
「おぬしには、たぶん分からぬ」
「……いや」
わしはゆっくり答えた。
「全部は分からぬ。だが、少しは見える」
猫目が振り向く。
「何がだ」
「おぬしが、時々、自分の方が先に化けた顔へ逃げ込むことじゃ」
「……」
「それは、嫌っておるからではなく、そうせぬと立っておれぬ時があるからではないか」
猫目は、珍しく何も言い返さなかった。
その沈黙だけで、わしには十分だった。
雨はほとんど止んでいた。
猫目は頭巾を少し直し、軒先から一歩、通りへ出た。濡れた石畳が鈍く光っている。
「おぬし」
と、娘が言う。
「何だ」
「本当に、時々だけな」
「何が」
「近くにおると、やりにくい」
「おお」
「調子が狂う」
「褒めておるか」
「違う」
「だが、少しは近づいた」
「……」
猫目はそこで初めて、ほんの一瞬だけ、困ったような顔をした。
そして小さく言うた。
「おぬしは人に化けぬ。だから時々、怖い」
その声は、前に一度聞いた時よりも、少しだけ静かだった。
言い捨てるのではない。自分でもその意味を測りかねているような、そんな言い方である。
わしは何も返せなかった。
猫目はそのまま踵を返し、濡れた通りを歩いていく。雨上がりの町に、地味な小袖の背がすっと溶けていく。もう追わぬ方がよい。今はそう思えた。
軒下には、湿った木の匂いと、少しだけ残った雨の気配だけが残る。
「……まったく」
わしは空を見上げた。
晴れ間が戻りつつある。だがさっきまでの雨のせいで、町の色は少し変わって見えた。
雨宿りひとつで、人はあれこれ話しすぎることがある。
そして忍びは、そういう時にこそ、うっかり自分の内を少しだけ見せてしまうのかもしれぬ。
もっとも、うっかり見せたのは猫目ばかりではなく、わしも同じなのだろうが。




