表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/37

第28話 雨宿りひとつで、忍びは人を試す

春の空というものは、朝にあれほど澄んでおっても、昼を回ると急に気が変わることがある。


午前のうち、猫目を屋根の上で見つけた時には、あれほど青かった。風も軽く、町の流れもよく見え、屋根の上の娘は猫のように瓦へ溶けていた。


だが昼を過ぎ、わしが小口の使いを二つばかり片づけ、城下の端を回って戻る頃には、空の色が少しずつ鈍ってきた。雲が低い。春先の雲は、夏のように威勢よくはないが、その分、黙って寄ってきて、気づいた時には頭の上を塞いでおる。


「降るかのう」


そう呟いたのは、たしか武家屋敷の筋をひとつ離れた辻のあたりであった。


答える者はおらぬ。だが空は、たぶん降る、と言うておるように見えた。


わしは少し足を速めた。


急ぎの荷はもうない。ならば、どこぞの軒を借りるなり、おつねの店先へ顔を出すなり、雨をしのぐ当てはある。城下に長くおると、そういう“ちょっとした逃げ場”が頭に入ってくる。ありがたいことだ。


だが、その“逃げ場”へ向かう前に、見覚えのある背を見つけた。


細い。

目立たぬ。

それでいて、目立たぬこと自体が少し目を引く。


町娘の格好でも、村娘の格好でもない。今日はもっと地味な木綿の小袖に、頭巾を少し目深にかぶっておる。荷を持つでもなく、何かを買うでもなく、通りの人波へ半歩だけ遅れて歩いている。


猫目であった。


「おお」


思わず声をかけかけて、やめた。


知り合いの顔はするな、と言われているのを、わしも一応は覚えておる。もっとも、あれは守れておるようで守れておらぬのだが、それでも最初から堂々と呼ぶのは、さすがに少し憚られる。


なら、そっと近づけばよいかと言えば、そう簡単でもない。


猫目は、人の気配に敏い。後ろにつけばたいてい気づく。気づいたうえで、気づかぬふりをすることもあれば、そのまま細路地へ消えてしまうこともある。そうなると、こちらの立つ瀬がない。


どうしようかと迷ううちに、最初の粒が落ちた。


ぽつ。


と、頬へ冷たいものが当たる。


続いて、袖へひとつ。鼻先へひとつ。地面へ小さな黒い点が生まれ、それがすぐに数を増していく。


「ぬう」


降り始めると早い。


周りの人々も一斉に空を見上げ、小走りになり、店の軒や寺の門を目指し始める。洗濯物を抱えて走る女。荷へ布をかける男。子を引っ張る母親。雨は、人の顔から余計なものを一瞬で剥ぐ。今は誰もが、「濡れたくない」という同じ顔をしておる。


猫目も、さすがに立ち止まった。


少し迷うように足を止め、通りの脇の軒下へ飛び込む。古びた木戸のある、小さな空き家めいた家の軒であった。人が多く集まる店先ではない。通りから半歩引いた位置で、人目を避けるにはちょうどよい。


「やはり、そこを選ぶか」


わしは小さく笑い、そのまま同じ軒へ走った。


猫目がこちらへ気づいた時には、もう遅い。


「……おぬし」

「雨じゃからのう」

「だからといって、なぜここだ」

「濡れるよりましじゃ」

「他にも軒はある」

「おぬしの近くほど、面白い軒は少ない」

「最低だな」

「よく言われる」


雨はすぐに本降りになった。


春の雨は、冷たいくせに重すぎぬ。だが油断すると、じわじわ袖口や肩口を濡らしてくる。軒下へ逃げ込んだ人々の間からは、濡れた草履の匂い、湿った土の匂い、木の匂いが立ちのぼる。


猫目とわしのいる軒は狭い。


前の物陰ほどではないが、二人で並ぶには微妙に近い。肩が触れるほどではない。だが、腕が少し動けば布が擦れる程度には近い。猫目はそれが不満らしく、わしが来た途端に半歩だけ離れようとした。だが、背後は壁である。どうにもならぬ。


「狭いのう」

と、わしが言うと、

「喋るな」

と、猫目。

「喋らぬと、雨音ばかり聞こえる」

「それでよい」

「風情があるのう」

「おぬしがそう言うと、風情も安くなる」

「ひどい」


猫目は頭巾の端から垂れた雨を指で払った。


こうして近くで見ると、やはり地味な格好はよく似合う。似合う、というのも妙な話だが、“目立たぬことが上手い”者には、そういう似合い方がある。何も飾らぬのに、そこにいる理由だけはあるように見える。


「今日は何の顔じゃ」

と、わしは小声で尋ねた。

「何がだ」

「町娘でも村娘でもなかった」

「ただの娘だ」

「忍びの端くれが言うと、だいぶ嘘くさい」

「嘘ではない」

「本当か」

「“ただの娘に見える顔”という意味では、本当だ」

「おお」

「感心するな」

「いや、今のは少し格好よかった」

「褒めるな」


相変わらずである。


だが、雨のせいか、猫目の棘もいつもより少しだけ湿っている気がした。完全に抜けることはない。だが、降ってくる雨音に混じると、あの鋭い声も少しだけ遠くなる。


わしは軒先から雨の筋を見た。


道が少しずつ暗くなり、町の流れが崩れていく。人は軒に寄り、店は半ば戸を閉め、急ぎの使いだけが頭を下げて走る。さっき猫目が言うていた“町の流れ”も、雨ひとつでだいぶ形を変えるらしい。


「のう」

と、わしは言う。

「何だ」

「雨の日は、流れも変わるのか」

「変わる」

「どう」

猫目は少し外を見てから答えた。

「急ぐ者と、急がぬ者がはっきりする」

「ほう」

「晴れの日は、皆それなりの顔で歩ける。だが雨の日は、隠しておった用向きが足へ出る」

「なるほどのう」

「寺へ急ぐ者、屋敷へ戻る者、店を守る者、雨に濡れてまで会いたい相手のいる者」

「……」

「そういうものが、見やすくなる」


それは、なかなか面白い見方であった。


わしは猫目の横顔を見た。

「おぬし、本当にそういうことばかり考えておるのう」

「生きるためだ」

「難儀じゃ」

「おぬしのように、何でも面白がって近づく方が難儀だ」

「またそれを言う」

「事実だからな」


雨音が、少し強くなる。


軒先の端から細い水の幕が落ち、通りの向こうをぼかしていく。人の顔も、店の形も、半分ほど溶けたように見えた。


そういう中で、猫目はふいに言った。


「おぬしは誰にでも近づきすぎる」


言われると思うていた言葉である。


わしは苦笑した。

「またそれか」

「まただ」

「近づけば早い」

「何が」

「人となりも、空気も、嘘のつき方も」

「……」

「離れて見ておれば見えるものもある。だが、近づかねば聞こえぬものもある」


猫目は目を細めた。

「おぬしは、近づく方へ傾きすぎておる」

「おぬしは、離す方へ傾きすぎておる」

「……」


ほんの少し、猫目の肩が止まった。


雨の音のせいかもしれぬ。だが、たしかに止まった。


「おぬし」

と、猫目が低く言う。

「分かったようなことを言うな」

「分かってはおらぬ」

「では何だ」

「見えるだけじゃ」

「何がだ」

「おぬしは誰にも近づかせなさすぎる」


猫目はすぐには答えなかった。


軒下の狭い空気の中で、雨の匂いと湿った木の匂いが混ざる。その沈黙は、気まずいというより、何かを測る沈黙に近かった。


「……近づかせれば」

と、やがて猫目は小さく言った。

「やりにくくなる」

「何が」

「全部だ」

「忍びの端くれの仕事か」

「それも」

「それ“も”?」

「人を見る時も」

「……」

「近くに置けば、切れが鈍る」


その言い方は、妙に静かだった。


わしは口を閉じる。


そういうことか、と、少し思う。


猫目は冷たいのではない。いや、冷たいところもあるのだろうが、それ以上に、近づきすぎると自分の手が鈍ると知っておるのだ。忍びとしてか、あるいはそれ以前に、そういう生き方しか知らぬのか。いずれにせよ、人をあまり近くへ置かぬのは、嫌いだからではなく、必要だからなのかもしれぬ。


「辛いのう」

と、わしはぽつりと言った。


猫目がぴくりとこちらを見る。

「何がだ」

「何でも近づけすぎるわしも難儀じゃが、何でも離しすぎるおぬしも、だいぶ難儀そうじゃ」

「……余計なお世話だ」

「それは分かっておる」

「なら言うな」

「言う」

「やはり最低だな」

「それも知っておる」


猫目はため息をついた。


そのため息には、呆れ半分、諦め半分、そしてほんの少しだけ、さっきより柔らかいものが混じっていた。雨というのは、人の棘を少し湿らせるのかもしれぬ。


「おぬし」

と、猫目が言う。

「うむ」

「人に化けぬな」

「化けぬ」

「なぜだ」

「面倒だから」

「……」

「いや、半分は嘘じゃ」

「では残り半分は」

「化けても、たぶんすぐばれる」

猫目の口元が、ほんのわずかに緩んだ。

「それはそうだ」

「ひどい」

「おぬしは、顔が正直すぎる」

「皆してそう言う」

「皆が言うなら、本当なのだろう」

「その理屈、近ごろ多いのう」


わしは壁にもたれ、軒の外を見る。


雨はまだ止みそうにない。町の流れは、たしかに変わっていた。急ぐ者は走り、急がぬ者は待ち、雨に濡れても通る者の顔には、それだけの理由がある。


すると、通りの向こうを、見覚えのある僧衣がよぎった。


僧だ。


しかも、ただの参りの坊主ではない。以前、茶屋で見たか、寺の裏で見たか、とにかく町慣れした裾の運びをする男である。雨の中を足早に、だが急ぎすぎぬよう急いでいる。懐を少しかばうような手つきまで見えた。


猫目も、すぐにそれへ気づいた。


「見たか」

と、わし。

「見た」

「寺の顔か」

「寺の顔をしておる」

「だが、別の用向きじゃな」

「……」


猫目は答えぬ。


答えぬが、目が完全に仕事へ戻っておる。雨宿りの娘ではなく、流れを読む者の目だ。


「追うか」

と、わしが小声で言うと、

「追わぬ」

と、猫目は即答した。

「なぜ」

「雨の日に急ぐ僧は、一人だけではない。ここで飛び出せば、逆に目立つ」

「なるほど」

「下で生きる者は、すぐ足を出す」

「おぬし、まだそれを言うか」

「本当だ」

「では、上から生きる者はどうする」

「覚えておく」


短いが、よい言葉である。


飛びつくな。まず覚える。

それは、わしの苦手なことでもあった。


雨の筋の向こうで、僧の背が角を折れて消える。追えば追えるかもしれぬ。だが、猫目の言う通り、今ここで飛び出せば、僧に見られるだけでなく、こちらの顔も覚えられる。そういう“損”の勘定を、猫目は瞬きひとつのあいだにしておるのだろう。


「おぬし」

と、猫目が言った。

「うむ」

「今の、追いたいと思うたな」

「思うた」

「やはりな」

「だが、出なかったぞ」

「それは、少しだけましだ」

「少しだけか」

「十分だ」


雨音が、ようやく少し弱まってきた。


軒先から落ちる水の筋も細くなり、通りの向こうがまた少し見えるようになる。人々も、そろそろ軒から離れる頃合いを測り始めていた。


猫目が、そっと軒の外へ手を伸ばした。雨粒を確かめるように指を出し、それから引っ込める。


「止む」

と、娘。

「おぬし、天気まで読めるのか」

「空を見れば分かる」

「皆、そう言うて読めぬこともある」

「おぬしは見ても見えておらぬだけだ」

「ひどい」

「事実だ」


猫目は軒から離れようとした。


わしは、その横顔を見て、ふと口をついた。

「のう」

「何だ」

「おぬしは、化けてばかりで疲れぬか」

猫目の足が止まる。


今度はさっきよりも、はっきり止まった。


「町娘の顔、村娘の顔、何でもない顔。そうしてずっと、人と距離を取って歩くのは」

「……」

「疲れるのではないか」


猫目はしばらく何も言わなかった。


軒先から落ちる最後の雫が、ぽつ、ぽつ、と遅くなる。通りへ出ていく人の足音が戻り始める。


やがて猫目は、こちらを見ずに言った。


「化けるのは、疲れるのではない」

「ほう」

「素の顔を出す方が、疲れる」


わしは、返す言葉を少し失った。


それは、だいぶ重い言葉である。


猫目は続ける。

「化けておれば、相手はその顔だけを見る」

「……」

「素のままでおれば、余計なものまで拾われる」


そう言うたあと、猫目はわずかに首を傾けた。

「おぬしには、たぶん分からぬ」

「……いや」

わしはゆっくり答えた。

「全部は分からぬ。だが、少しは見える」

猫目が振り向く。

「何がだ」

「おぬしが、時々、自分の方が先に化けた顔へ逃げ込むことじゃ」

「……」

「それは、嫌っておるからではなく、そうせぬと立っておれぬ時があるからではないか」

猫目は、珍しく何も言い返さなかった。


その沈黙だけで、わしには十分だった。


雨はほとんど止んでいた。


猫目は頭巾を少し直し、軒先から一歩、通りへ出た。濡れた石畳が鈍く光っている。


「おぬし」

と、娘が言う。

「何だ」

「本当に、時々だけな」

「何が」

「近くにおると、やりにくい」

「おお」

「調子が狂う」

「褒めておるか」

「違う」

「だが、少しは近づいた」

「……」


猫目はそこで初めて、ほんの一瞬だけ、困ったような顔をした。


そして小さく言うた。


「おぬしは人に化けぬ。だから時々、怖い」


その声は、前に一度聞いた時よりも、少しだけ静かだった。


言い捨てるのではない。自分でもその意味を測りかねているような、そんな言い方である。


わしは何も返せなかった。


猫目はそのまま踵を返し、濡れた通りを歩いていく。雨上がりの町に、地味な小袖の背がすっと溶けていく。もう追わぬ方がよい。今はそう思えた。


軒下には、湿った木の匂いと、少しだけ残った雨の気配だけが残る。


「……まったく」


わしは空を見上げた。


晴れ間が戻りつつある。だがさっきまでの雨のせいで、町の色は少し変わって見えた。


雨宿りひとつで、人はあれこれ話しすぎることがある。

そして忍びは、そういう時にこそ、うっかり自分の内を少しだけ見せてしまうのかもしれぬ。


もっとも、うっかり見せたのは猫目ばかりではなく、わしも同じなのだろうが。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ