第27話 くノ一、屋根の上から町を笑う
朝の城下というものは、下から見ればただ忙しい。
戸が開く。水が撒かれる。菜が並ぶ。魚が運ばれる。小者が走り、女房が怒鳴り、犬が吠える。誰も彼も、目の前の用に追われている。飯を作る、品を売る、荷を届ける、銭を数える。そういう細かな動きが積み重なって、町は朝から生き始める。
だが、その“忙しさ”を、上から見たらどう見えるのか。
そのことを知ったのは、だいぶ妙な朝であった。
おつねに頼まれた「朝のうちに来い」という言葉を、珍しくきちんと守って、わしは朝早く城下へ出ていた。いつもよりだいぶ早い。腹はすでに減っているが、文句は言わぬ。頼みごとを請けた以上、そこは少しばかり真面目にしておかねばならぬ。
「おぬしが時間通りに来ると、空でも落ちそうだね」
と、おつねには開口一番そう言われたが、そこはぐっと飲み込んだ。たしかにわしは、時刻に強い男ではない。だが今日は違う。店先へ入る品に妙な男が寄るかもしれぬというのなら、余計なことに鼻の利くわしが役に立つ場もあるだろう。
朝の品は、干し物と味噌、それから細かな日用品が少し。町の店らしい地味な荷だ。だが、荷は地味でも、人の顔は地味とは限らぬ。
しばらく手伝いをしているうちに、たしかに変な男が来た。
変な、と言うても、最初から怪しげな顔をしているわけではない。むしろ普通に見える。見えるくせに、品よりも周りを見ておる。おつねの母親の顔を見、店の奥を見、裏口の位置まで見ていく。そういう見方をする男は、だいたい碌でもない。
「おぬし、見ておるな」
と、おつねが小声で言う。
「うむ」
「何を」
「男の目を」
「変な言い方だね」
「変な男ゆえ」
幸い、その男は今日は軽く探りを入れただけで去った。荷に手を出すでもなく、奉公口だの何だのと言うでもなく、ただ“店の具合を見に来た”顔であった。そういう顔の方が、かえって気味が悪い。
「助かった」
と、おつねは言った。
「何が」
「おぬしがいたからだよ」
「ほう」
「一人でいる時に、ああいう男がじろじろすると腹が立つ」
「二人でおれば」
「腹は立つが、まだましだ」
「それはありがたい」
「ありがたがるな」
「では、褒めておけ」
「調子に乗るから嫌だ」
「もう乗っておる」
「そこが嫌だと言うておる」
そんなやり取りのあと、荷も落ち着き、わしはいったん店先を離れた。
朝のうちに別の小口も拾えるかもしれぬし、何より城下の空気が、今日は妙に澄んで見えたのだ。水を撒いたばかりの道、開ききっておらぬ店の戸、朝日を受ける瓦。人が増え始める前の町は、昼より少しだけ本音に近い。
「こういう時の城下も、悪くないのう」
そう呟きながら裏通りへ回った時、ふと、上から何かが視線を投げた気がした。
気配と言うには軽い。だが、確かに見られておる感じがある。通りの左右ではない。もっと上だ。
わしは足を止め、軒先の影から上を見た。
屋根の上であった。
瓦の端、朝日を半分だけ受ける位置に、ひとりの娘がしゃがんでいる。地味な格好だ。町娘とも村娘ともつかぬ、目立たぬ色合い。だが、その地味さがかえって目立つ。
そして何より、あの目。
「……猫目」
思わずそう呼んでいた。
屋根の上の娘は、露骨に嫌そうな顔をした。
「呼ぶな」
上から小さく声が降ってくる。
「町の真ん中で、朝から人へ変な名をつけて叫ぶな」
「叫んでおらぬ」
「下からでは十分に目立つ」
「屋根の上におるおぬしの方が目立つ」
「見つけるおぬしが悪い」
ひどい言い分である。
だが、こうして見ると本当に猫のようだ。細い体を屋根の端へ自然に置き、瓦の流れに溶けるように座っておる。普通の娘なら、そんなところへ上がっただけで裾を気にし、足元を気にし、顔をしかめるだろう。だが猫目にはそれがない。そこにいるのが当然の生き物のように、町を見下ろしている。
「おぬし」
と、わし。
「また妙なことをしておるな」
「妙とは何だ」
「町娘にもなれば、屋根の上の娘にもなる」
「屋根の上の娘、とはまた変な言い方だな」
「化ける幅が広いと言うておる」
「褒めておらぬな」
「少しは」
「要らぬ」
猫目は膝を抱えるようにして、町の方を見た。
わしもつられて、その目の先を追う。
朝の城下が広がっている。
表通りを行く荷担ぎ衆、店先で品を並べる女、寺へ向かう小僧、武家屋敷の方へ急ぐ使い、井戸端で噂話をしておる婆さま。下から見れば、それぞれが別々の動きに見える。だが、屋根の上から見ると、それらが妙に“流れ”として見えるのだと、猫目の視線を辿って初めて気づいた。
「ああ」
と、わしは思わず声を漏らした。
「何だ」
「上から見ると、町が違う」
「今さらか」
「今まで下からしか見ておらなんだ」
「下で生きる者は、道しか見ぬ」
と、猫目は言った。
「どの店へ入る、どの角を折れる、どこへ荷を運ぶ。そういう一つ一つの道だ」
「うむ」
「だが上へ上がれば、人の流れが見える」
「流れ」
「誰がどこへ集まり、どこから減り、どの顔が同じ筋を何度も通るか」
「……なるほどのう」
たしかにそうだ。
昨日の薬種屋の裏口も、茶屋へ集まる商人や僧や武家の使いも、下からひとつずつ追うしかないと思うていた。だが、上からなら「どの筋に人が寄るか」がもっと早く見えるのかもしれぬ。
「忍びは皆、こうして町を見るのか」
と、わしが言うと、
「皆がそうとは言わぬ」
と、猫目。
「だが、下だけ見ていては遅い」
「ほう」
「人は足元をごまかせても、流れまではごまかしきれぬ」
それは、妙に腹へ落ちる言葉であった。
猫目はこうして、町を“人の集まり”ではなく“流れ”として見ておるのだろう。誰が怪しい、あの店が変だ、という一つ一つの点ではなく、どこからどこへ何が運ばれ、人の気配がどう動くか。その全体を見る。
わしは少し感心した。
「おぬし、やはりたいしたものじゃのう」
「今さら何だ」
「いや、本当に」
「そういう時のおぬしは気味が悪い」
「褒められるのに慣れぬか」
「おぬしに褒められるのに慣れぬ」
「ひどい」
「事実だ」
相変わらずである。
だが、今日はほんの少しだけ違った。猫目がこちらを完全に追い払おうとしておらぬのだ。下から声をかけた時も、昔のように“消えろ”で終わらず、何だかんだと答えておる。しかも今は、町の見方まで口にしている。
「のう」
と、わしは言った。
「何だ」
「上はよいか」
「何が」
「町の上じゃ」
「……」
「下で生きる者は、飯のことや銭のことや、人の顔色ばかりに引っ張られる」
「それはそうだ」
「上へ上がれば、そういうのを少し忘れられるか」
猫目は少し黙った。
朝の風が、瓦のあいだを抜ける。屋根の上の娘の髪が、ほんの少し揺れた。
「忘れるのではない」
と、やがて猫目は言った。
「離して見るだけだ」
「離して」
「そうせぬと、全部に足を取られる」
「……」
「町の中へ入れば、人は皆、自分の事情で動いておる。店は売りたい。村の者は納めたい。寺は数えたい。武家は隠したい」
「ずいぶん、言う」
「事実だ」
「それで」
「その一つ一つをまともに受けておれば、何も見えぬ」
「だから上へ上がる」
「そうだ」
その言い方に、わしは一瞬だけ言葉を失った。
猫目は、人を信じぬ娘だと思うていた。いや、今でもたぶんそうだろう。だが、信じぬというより、全部を近くに置きすぎぬのだ。そうしなければ、忍びの端くれとして生きていけぬのかもしれぬ。
下へ降りれば、誰かの娘になり、町娘になり、荷を持つ者になり、時には短刀を抜く。
上へ上がれば、ようやくそれを少し離して見られる。
「難儀じゃのう」
と、わしが言うと、
「おぬしに言われとうない」
と、猫目は返した。
「おぬしの方こそ、誰にでも近づきすぎる」
「またそれを言う」
「事実だからな」
「近づけば話が早い」
「近づきすぎれば、相手の息まで吸う」
「それは少し色気がある言い方じゃ」
「そこだけ拾うな」
猫目はあからさまに嫌そうな顔をした。
だが、その顔も昔ほど尖っておらぬ。呆れと諦めが半分ずつ混じっておる。つまり、わしがこういう男だと、だいぶ学習してきたのだろう。ありがたいことかどうかは分からぬが。
「で」
と、猫目が言う。
「おぬしは、何を見に来た」
「おつねの店の荷を見ておった」
「町娘か」
「うむ」
「また娘だな」
「おぬしにだけは言われたくない」
「何だそれは」
「こちらの周りに娘が多いと言うが、町をうろつけばおぬしにも出会う」
「出会いたくて出会っておるわけではない」
「わしも半分はそうじゃ」
「残り半分は」
「面白いから」
猫目が、露骨に眉をひそめた。
「最低だな」
「よく言われる」
「褒めておらぬ」
「知っておる」
通りの向こうで、武家屋敷づきらしい小者が二人、角を折れていった。猫目の目が、すっとそちらへ流れる。ほんの一瞬だが、意識が完全に仕事へ戻る。その切り替えの早さに、やはり舌を巻く。
「流れが変わってきておる」
と、猫目がぽつりと言った。
わしはその言葉に、さっきまでの軽口を引っ込めた。
「何が」
「町の流れだ」
「どう変わる」
「寺へ向かう足と、武家へ向かう使いが、近ごろ妙に重なる」
「……」
「薬種屋の裏へ寄る顔も増えた」
「やはり、そう見えるか」
「見える」
「その先は」
「まだ言えぬ」
「言えぬか」
「言えるほど掴んでおらぬ」
「珍しく弱いな」
「弱いのではない。掴めぬものを掴んだふりはせぬだけだ」
「立派じゃ」
「褒めるな」
だが、その慎重さは本当に立派だと思うた。
わしなど、少し点が繋がると、すぐ「これはこうかもしれぬ」と口にしたくなる。猫目は違う。見えておるのに、言わぬ。言わぬまま、さらに見ようとする。そこが忍びと余計者の違いなのだろう。
「おぬしは」
と、猫目が言う。
「下で見ておれ」
「上には上げてくれぬのか」
「落ちる」
「ひどい」
「本当だ」
「それはそうかもしれぬ」
「そうだ」
だが、その“下で見ておれ”の中には、昔のような完全な拒み方はなかった。上に立つ者の目と、下に立つ者の目、その両方があってようやく分かることもある、と猫目は知っているのかもしれぬ。
「では」
と、わしは言った。
「おぬしは上から町を見て、わしは下から人の顔を見る」
「勝手にしろ」
「よい取り決めではないか」
「取り決めた覚えはない」
そう言うたところで、猫目はふっと立ち上がった。
立ち上がる、というのもおかしな話だ。屋根の上であれほど自然にしゃがんでおった娘が、今は一本の細い獣のように伸びる。風を受けても、裾ひとつ乱れぬ。
「行く」
と、猫目が言う。
「どこへ」
「流れの先へ」
「それは、だいぶ格好のよい言い方じゃのう」
「黙れ」
そして猫目は、隣の屋根へと軽く移った。
音がしない。
瓦が鳴るかと思うたが、それもない。ただ影が一つずれたようにしか見えぬ。ああいうのを見ると、本当に人ではなく猫なのではないかという気がしてくる。
「のう、猫目!」
と、わしは思わず呼んだ。
「呼ぶな」
屋根の上から、嫌そうな返事が落ちる。
「また会うか」
「知らぬ」
「知っておろう」
「……」
「町の流れが変わるなら、わしのような男にも何か流れてくる」
「それはそうかもしれぬ」
「ほれ見よ」
「だが」
猫目は隣の屋根の端で一度だけ振り返った。
「おぬしは、流れに乗る前に、足元を見ろ」
「どういう意味じゃ」
「下ばかり見ておる者は町を知らぬ。だが上ばかり見ておる者は、足を踏み外す」
「……」
「おぬしは、踏み外しそうな顔をしておる」
そう言い残して、猫目は今度こそ屋根の向こうへ消えた。
わしはしばらくその場に立ち尽くした。
朝の城下は、さっきまでと同じように忙しい。だが今は、ただ忙しいのではない。流れておる。人が、荷が、噂が、寺と武家と町のあいだを細く、だが確かに流れておる。
「町の流れが変わってきておる、か」
わしはぽつりと呟いた。
猫目がそう言うなら、きっとそうなのだろう。
そしてその流れは、たぶん、わしのような腹ぺこの若造もいずれ巻き込む。
巻き込むのなら、せめて転ばぬよう、足元も見ておかねばならぬ。
もっとも――
「猫にそれを言われるとはのう」
そう言って笑ってしまった時点で、やはりわしも、まだまだ軽いのかもしれぬ。




