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第26話 守りたいものがある顔は、たいてい強い

人の家には、それぞれの匂いがある。


武家屋敷には、よく拭かれた木と衣へ焚きしめた香の匂いがある。寺には、線香と古い紙と米俵の匂いがある。村の家には、土と水と、干し藁と味噌の匂いがある。


では町の小さな店には何の匂いがあるかといえば――それは、暮らしの匂いである。


売り物の菜の青さ、味噌玉の塩気、干し物の陽の匂い、桶の水、手拭いの湿り、朝に焚いた飯の名残。贅沢ではないが、手を抜いておらぬ者の匂いだ。


市で口入れ屋まがいの男を追い返してしばらくしたあと、わしはおつねの店先の片づけを手伝っていた。


手伝っていた、と言うと聞こえはよいが、実際にはおつねにあれこれ使われておるだけでもある。


「その籠、そっち」

「こっちではないのか」

「それはもう空だよ」

「見れば分かる」

「なら聞くな」

「会話をしておるのじゃ」

「会話なら、手を動かしながらできる」

「厳しい娘じゃのう」

「おぬしが緩すぎる」


いつもの調子である。


だが今日は、ただそれだけでもなかった。さっきの男が去り際に残した、妙な言葉がまだ店先の空気に引っかかっている。


寺も武家も、娘の行き先に口を出す。


あれは脅し半分、探り半分のような言い方だった。嘘ばかりでもなさそうで、だからこそ嫌な後味がある。


おつねは表向きいつも通りに働いておる。だが、桶の置き方も、菜の並べ直しも、普段より少し速い。気を紛らわせるために手を動かしておる時の速さである。


母親が奥へ引っ込んだあと、わしは少し声を落として言った。


「のう」

「何だい」

「さっきの男、前から来るのか」

おつねは答える前に、干し物の包みを一つ縛った。

「たまにだよ」

「たまに、か」

「しつこくはない。だが忘れた頃に来る」

「厄介じゃな」

「厄介だから嫌がっておる」

「その顔で分かる」

「おぬしにだけは顔が分かるなどと言われたくない」


それもそうだ。


わしは包みを荷箱へ移しながら、店の中を見回した。広くはない。壁際の棚に並ぶ味噌玉、干した菜、少しばかりの乾物、布に包まれた米。大店のように人が何人も働いておるわけではない。母と娘で回しておる、小さくて真面目な店だ。


小さい店というものは、ひとつ崩れるとすぐ傾く。


だが逆に言えば、ひとつひとつを支えておるのは、全部“家の手”でもある。


おつねは菜を水で立て直しながら言った。

「おぬし、何か言いたそうな顔だね」

「そうか」

「そうだよ」

「では言おう」

「やめておけ」

「早い」

「どうせ余計なことだ」

「いや、少しはまともなことじゃ」

「半分は余計なことだろう」

「否定しづらい」


おつねがため息をついた。


「何だい」

「おつね、おぬしは一人でだいぶ回しておるのう」

「母と二人だよ」

「それは見ておる」

「じゃあ何だ」

「いや、思うより細かく気を配っておる」

「……」


おつねの手が、少しだけ止まった。


わしは続ける。

「朝の菜の張り、昼の値、客の顔、変な男の追い返し方、母御の手の空き具合、全部見て動いておる」

「見ておったのかい」

「見ておるとも」

「余計なところばかり見る男だね」

「商いの娘というのは、もっとこう、笑って売るだけのものかと思うておった」

「阿呆か」

「やはりか」

「そんなわけあるかい。笑うのも売るうちだよ。笑って済む時は笑うし、値を引く時は引くし、押し返す時は押し返す」

「強いのう」

「強くなければ食えぬ」


その言い方は、おつねらしい。


農村娘が土の重みで真っ直ぐなら、おつねの強さは勘定と段取りの中にある。どこまで愛想を見せるか、どこから切るか、どの客に何を言うか。その全部を一瞬で決めておる。


そういうのは、軽く見ておったわけではない。だが、ここまで意識して見たこともなかった。


「のう」

と、わしは少し真面目に言った。

「おぬし、すごいのう」

おつねはきょとんとした顔をした。

「何だい急に」

「いや、本当に」

「気味が悪い」

「褒めておるのに」

「おぬしが素直に褒めると、何か企みがありそうで怖い」

「ひどい」

「で、企みは」

「ない」

「本当にか」

「……今は」

「やはりあるではないか」


あるのは企みというより、単なる感心である。


だが、そう正直に言えば言うほど、怪しまれるのがわしという男らしい。難儀な話だ。


おつねは水気を払った菜を並べ直し、それからようやく少しだけ息をついた。

「まあ」

「おお」

「店を潰したくないだけさ」

「それだけか」

「それだけが一番重いんだよ」


その声は、いつもの軽さより少し低かった。


通りの喧噪は変わらぬ。魚売りの声、車の軋み、誰かの笑い声。だがその中で、おつねの一言だけが静かに落ちた。


店を潰したくない。


大きな夢でも、立派な志でもない。だが、こういう小さな店では、それが一番重いのだろう。店を守るということは、暮らしを守ることでもあり、母を守ることでもあり、自分の行き先を自分で決めることでもある。


だから、さっきの口入れ屋の言葉が腹に立ったのだ。


「大店に出れば銭になる」

「女手を探しておる」

「今より楽になる」


そういう言葉は一見もっともらしい。だがその実、今ここで積み上げておるものを、他人の都合ひとつで横へどける話でもある。


「おつね」

「何だい」

「おぬし、さっき本当に怒っておったのう」

「当たり前だろう」

「うむ」

「うちはうちで回しておる。それを、どこかの口利きが“もっとよい行き先”だの何だのと、勝手に値で見るのが腹立たしい」

「……」

「母も、わたしも、楽だからここにおるのではない。ここしかないからでもない」

「ほう」

「ここを守ると決めておるからだ」


わしは思わず黙った。


こういう時、おつねは妙に大人びて見える。年はそう違わぬはずなのに、腹の括り方が違う。わしは風の向く方へ転がる石ころだ。だがこの娘は違う。自分で“ここ”を決めて、そこへ立っておる。


それが、強い。


「……やはり、よい娘じゃのう」

と、わしが小さく言うと、

「またそれかい」

と、おつねは呆れたように返した。

「今日だけで三度は聞いた」

「足りぬ」

「足りぬ顔をしておるのは、おぬしの腹だよ」

「腹もそうじゃが、感心もしておる」

「感心されても銭にはならぬ」

「では何か買おう」

「さっきも言うたろう。自分の飯へ回しな」

「おぬし、結局そこへ戻すのう」

「それが一番確かだからさ」


その返しが、あまりにおつねらしくて、わしは笑ってしまった。


笑われたおつねは、少しだけむっとした。

「何が可笑しい」

「いや」

「ごまかすな」

「おぬし、本当に強い娘じゃと思うて」

「……」

「守りたいものがある顔をしておる」

おつねは一瞬、何も言わなかった。


それから、少しだけ視線を逸らして言った。

「誰だって、守りたいものくらいあるよ」

「そうかもしれぬ」

「おぬしにもあるのかい」

「飯」

「真顔で言うな」

「いや、本気半分」

「では残り半分は」

「……」


少し考えた。


残り半分、と言われると難しい。飯はたしかに大事だ。だがそれだけではない。近ごろのわしは、妙なものをいくつも拾ってしまっている。


村の水。

寺の帳面。

薬種屋の裏口。

簾の向こうの声。

猫目の忍びらしい目。

おつねの、この小さな店を守る顔。


守りたいもの、か。


「まだ、よう分からぬ」

と、わしは正直に言った。

「ただ、守ろうとする顔を見ると、軽く扱ってはならぬと思う」

おつねが、こちらを見た。

「……誰かに何か言われたのかい」

「農村娘に」

「また娘かい」

「土の匂いのする娘じゃ」

「ろくでもない顔ぶれだね」

「まったくです」


おつねは吹き出しそうになり、だが半分で止めた。


「おぬし、本当に変な縁ばかり増やす」

「転ばされるたび増える」

「猫にでもか」

「猫目に」

「まだその呼び方をしておるのかい」

「気に入っておる」

「相手は気に入っておらぬだろう」

「たしかに」


そう言いながら、猫目の顔がふと浮かんだ。


町娘に化けた顔。

物陰で短刀を抜く手。

薬種屋を見張る目。

「おぬし、目だけはよう利く」と言うた時の、わずかな笑み。


あの娘もまた、何かを守る側の顔をしていたのかもしれぬ。そう思うと、さっきまでの店先の空気と、不思議なところで繋がる気がした。


おつねが、その一瞬を見逃さなかった。

「……何だい」

「何がじゃ」

「今、また別の娘のことを思い出した顔をした」

「そんなに分かるか」

「分かるよ」

「おつね、おぬしは本当に目がよいのう」

「おぬしが分かりやすすぎるのだ」


そして、少しだけ面白くなさそうな顔になる。


それが何だか可笑しくて、わしはつい口を滑らせた。

「おお、妬いておるか」

「は?」

「いや、今の顔が」

その瞬間、おつねの手が飛んだ。


ぺし、と、ちょうどよい強さでわしの腕を叩く。


「痛い」

「痛いくらいで済んでありがたいと思いな」

「妬いてはおらぬか」

「黙れ」

「はい」

「おぬし、本当に調子に乗ると台無しだね」

「そうらしい」


だが、その叩き方に本気の怒りはなかった。


やはり、おつねは強い。強いが、それは人を切り捨てる強さではない。自分の暮らしと家と立場を守るために、ちゃんと怒り、ちゃんと叱り、ちゃんと踏ん張る強さだ。


そういう娘を前にすると、わしのような半端者は少しばかり背筋が伸びる。


「のう」

と、わしは真面目に言った。

「何だい」

「おぬしが守りたいと思うておるこの店、わしも少しは役に立つかもしれぬ」

おつねが目を丸くする。

「急にどうした」

「いや、今思うた」

「唐突すぎる」

「そうか」

「そうだよ」


だが、おつねは完全には笑わなかった。


少しだけ考え、それから言う。

「……なら、明日ひとつ荷を見ておくれ」

「ほう」

「朝のうちに、少し厄介な品が入るかもしれぬ」

「どんな」

「まだ分からぬ。だが、変な顔をした男が来る気がする」

「おつねも顔で分かるのか」

「商いの娘をなめるな」

「それは失礼した」


なるほど、頼み事である。


しかもおつねが“誰かへ頼む”のは、そう軽いことではあるまい。店のことは自分で回す娘だ。そんなおつねが、わしへ荷を見てほしいと言うのなら、それなりに警戒しておるのだろう。


「承知した」

と、わしは頷いた。

「明日、朝から来よう」

「寝坊するなよ」

「おぬしは、そういうところだけ本当に信用がないのう」

「そういうところだから信用がないんだよ」


まことにもっともである。


店先の風が、少しだけ軽くなった。


母親が奥から顔を出し、

「おつね、その干し物、裏へ回しておくれ」

と声をかける。

「はいよ」

と、おつねは返し、荷を抱え直した。


わしも手を貸そうと一歩寄る。


その時、おつねがふと足を止めて、こちらを見た。


「おぬし」

「何じゃ」

「……さっきの“守りたいものがある顔”ってのは」

「うむ」

「少しだけ、よかった」

「おお」

「だが、次に“妬いておるか”とか言うたら、もう少し強く叩く」

「承知」

「本当に分かったか」

「半分ほど」

「足りぬ」


そう言って、おつねはようやく少しだけ笑った。


それを見て、わしもようやく笑う。


守りたいものがある顔は、たいてい強い。


そしてその強さは、必ずしも刀や怒声のように見えるものではない。菜を並べる手、客を見る目、口入れ屋を追い返す声。そういうところに、しっかりと出るのだ。


城下へ来れば、飯の種も厄介も増える。


だが、こういう顔を知ることもまた、悪くない拾い物なのかもしれぬ。

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