第25話 市で売られるのは、物だけではない
寺を出たあとも、鼻の奥に薬草の匂いが残っていた。
あれは不思議なもので、堂の静けさや僧のありがたい顔より、よほど長く人の頭に居座る。乾いた根、刻んだ葉、油に漬けた何か、そしてそれらを包む紙や布の匂い。病を癒やす匂いでもあるはずなのに、近ごろのわしにはどうにも“隠しごと”の匂いにも思えてならぬ。
「いかんな」
道を歩きながら、わしは小さく呟いた。
「寺へ行けば寺を疑い、薬種屋を見れば薬種屋を疑う。これでは、だいぶ性根が曲がっておるではないか」
だが仕方あるまい。武家屋敷から薬種屋へ包みが流れ、薬種屋の裏から僧が出てきて、寺の帳面には武家の印らしきものまで見えたのだ。これで「世はのどかじゃ」と笑えるほど、わしも呑気ではなくなってきた。
もっとも、そうして難しい顔をしておっても、腹は減る。
腹が減れば、結局は市へ足が向く。市へ行けば、人の声と銭の音がある。そこには飯の種もあれば、余計な厄介もある。今のわしにとっては、それが一番生きやすい場所でもあった。
昼を少し回った城下の市は、朝とはまた違う顔をしている。
朝はこれから売る顔、昼は売れたか売れぬかを気にする顔だ。品の減った籠、値切り疲れた声、ここからどう捌くかを考える目。魚売りは最後の声を張り、菜売りはしおれかけた葉を水で立て直し、味噌売りは客の顔を見て包みの大きさを変える。
物は売られる。
だがそれだけではない。
歩いておると、銭ではなく“人”を値踏みする声が耳へ入ることがある。誰それの倅は丈夫だとか、あそこの娘は手が早いとか、奉公へ出すならどこがよいだとか。表向きは「口利き」や「奉公口」の話であっても、その実、人の行く先が銭や都合で決まる匂いがする。
そういう匂いは、あまり好きではない。
好きではないが、目にはつく。
おつねの店先へ向かうと、案の定、娘は今日もよく働いていた。
菜の籠は朝より減り、味噌玉も包みが少なくなっている。母親は奥で干し物を整理しており、おつねは客へ銭を返したところだった。日差しの中で見ると、頬に少し疲れが見える。だが口の方は相変わらず元気そうだ。
「何だい」
と、わしを見るなり言う。
「今度は寺の坊主にでも化かされてきた顔をして」
「ひどい言いようじゃのう」
「違うのかい」
「半分は違う」
「半分は当たりか」
「近頃のわしの顔は、そんなに分かりやすいか」
「ひどく分かりやすい」
そう言って、おつねは客へ会釈を返し、空いた手で籠の位置を直した。
わしはその横へ立つ。
「手伝おうか」
「口で邪魔をするの間違いだろう」
「今日はまだそれほど喋っておらぬ」
「それでその量なら、喋った日は倍だよ」
まことに容赦がない。
だが、その容赦のなさが、今のわしには少しありがたい。寺や武家屋敷や薬種屋ばかり見ておると、世の中が全部裏でできておるような気になってくる。そういう時、おつねみたいな娘に「ほれ、菜を持て」「そこへ置くな」と言われると、土のついた現実へ戻る気がするのだ。
「今日は売れたか」
と、わし。
「まあまあだよ」
「それはよい」
「よいけど、午後は読みづらいね」
「読みづらい?」
「売れ残りをどこまで引っ張るか、安く出すか、家へ回すか、そういう勘定さ」
「やはり商いは奥が深い」
「おぬしは何でも口で片づけるから、その“奥”をすぐ忘れる」
言われつつ、わしは籠を持ち上げるのを手伝った。
その時だった。
通りの向こうから、年の頃四十手前ほどの男がこちらを見ながら近づいてきた。着物は町人ふうで、派手ではない。だが帯の締め方や足の運び方に、どこか人を扱う慣れがある。商人というより、仲立ちか、口入れ屋か、その類だろう。
わしはそういう男があまり好きではない。
人に物を売る顔ではなく、人の行き先を勘定しておる顔だからだ。
男は店先へ来ると、まず菜ではなく、おつねの方を見た。
「おつねちゃん」
と、馴れ馴れしい声を出す。
「今日もよう働いとるな」
おつねの顔が、すっと冷えた。
「何の用だい」
「何の用ってほどでもないさ」
男は笑う。だが笑いが軽い。軽いくせに、人の懐へ土足で入ろうとする笑いである。
「ちょいと、いい口があると思うてな」
「うちは間に合ってるよ」
「おやおや、聞きもせぬうちからつれない」
「聞かずとも分かる」
おつねがここまで露骨に嫌がるのは珍しい。
わしは黙って横に立った。口を出したい気もする。だが、まずは見ようと思うた。おつねがどう切るかを。
男はそれでも引かず、声を少しだけ潜めた。
「大店の奥で、女手を探しておってな。手の早い娘なら、今よりずっと銭になる」
「いらぬ」
「母御も楽になるぞ」
「いらぬ」
「いやいや、すぐ返事せずとも」
「いらぬと言うておるだろう」
ぴしゃり、とおつねは言い切った。
顔は笑っておらぬ。だが怒鳴りもせぬ。大声にすれば周りの耳が寄る。そうなれば、この手の男は「善意で口をきいただけだ」と逃げる余地ができる。おつねはそれを知っておるのだろう。だからこそ、低い声で切る。
男は少しだけ舌を鳴らしそうな顔をしたが、まだ崩れぬ。
「そんなに嫌がることもあるまい。奉公口は早い者勝ちだ」
「わたしは店を手伝う」
「一生か?」
「一生でも何でも、おぬしに決められることではない」
「はっきり言う娘だなあ」
「分かりやすい方がよいと思うてね」
よい。
実によい切り返しだ。
わしは横で感心した。おつねはやはり強い。ただ怒るだけではない。相手に“これ以上踏み込んでも得はない”と思わせる強さを持っている。
だが、男は諦めが悪かった。
「最近はな」
と、男は今度は母親の方へ目をやった。
「寺も武家も、娘の行き先には口を出す。今のうちに、きれいな口で決めておく方が、後々楽なんだ」
「……何だって?」
と、おつねの母が低く言った。
その一言で、場の空気が変わった。
わしの腹の底が、少し冷えた。
寺も武家も、娘の行き先に口を出す。
何だ、それは。
ただの奉公口の話ではない。もっと別の、人の都合を家の外から決める匂いがある。しかも“寺”と“武家”を同じ息で言うあたりが、近ごろのわしにはどうにも引っかかる。
おつねも、たぶん同じことを感じたのだろう。目がさらに冷えた。
「帰れ」
と、娘は言うた。
「今すぐにだ」
「おやおや、そんな怖い顔を――」
「帰れと言うておる」
「おつね」
と、母親が娘の袖を押さえる。
だが、おつねは引かなんだ。
「うちの行き先はうちで決める。おぬしの口も、寺の口も、武家の口も借りぬ」
男の顔から、ようやく薄い笑いが消えた。
「若い娘は強情でいかんな」
「強情で結構」
「後で困るぞ」
「困るならその時困る。今、帰れ」
見事である。
見事だが、こういう時の男は最後に何か棘を残していく。
案の定、男は鼻を鳴らし、
「町の娘は気楽でよい。村の連中のように、口減らしも急がずに済むからな」
と捨てるように言った。
その言い方に、わしの胸のあたりで何かがぷつりと鳴った。
おつねの家のことを知らぬわけではない。母娘で回しておる小さな商いだ。大店でもなければ、余裕があるわけでもない。だが、そういう暮らしを“気楽”と一息で括る顔が、どうにも腹立たしい。
しかも、村の連中の口減らし、と来る。
村で水に苦しむ者を見てきたばかりの今、その言い方は余計に癇に障る。
わしは一歩前へ出た。
「のう、旦那」
男が面倒そうにこちらを見る。
「何だ、若造」
「人を口数で商うのも結構じゃが、せめてもう少し、相手の前で吐く言葉を選んだ方がよいぞ」
「何?」
「娘の前で娘の行き先を値で言い、村の前で口減らしを軽く言う。そういうのは、口利きではなく、ただの品のなさじゃ」
「おぬし、部外者が――」
「部外者だから言えることもある」
おつねが横で「やめろ」と小さく言ったが、もう遅い。
男の目が険しくなる。だが、ここでこちらへ噛みつけば、ただの口利き屋では済まぬ顔をさらすことになる。通りの耳も少し寄ってきている。ならば、この男はきっと別の逃げ道を探す。
その通りだった。
男は、わしをじろりと見てから、口元だけで笑った。
「面白い若造だな」
「よう言われる」
「だが、町で長く生きるなら、余計な口は慎んだ方がよい」
「慎んでおるつもりじゃ」
「それでその量か」
「これでも半分ほど」
「……」
「残り半分を聞きたければ、銭を取る」
通りの端で、誰かが吹き出した。
よし。
こういう男は、周りが笑うと少しだけ形勢が悪くなる。なぜなら、自分が相手を値踏みする側でありたいのに、場の空気では自分が品定めされる側へ落ちるからだ。
男は舌打ちをこらえるような顔をし、やがて肩をすくめた。
「いいだろう。今日は引く」
「それがよい」
「だが、町は狭いぞ」
「腹も狭い」
「……意味が分からぬ」
「よく言われる」
男はそれきり、鼻白んだような顔で去っていった。
通りの空気が、少しだけ緩む。
おつねの母親がほっと息をつき、おつねはしばらく男の去った背を睨んでいた。やがてわしの方を振り向く。
「おぬし」
「何じゃ」
「余計なことを言うなと言いたいところだが」
「ほう」
「今のは、少しだけましだ」
「少しだけか」
「十分だろう」
「おつねらしい褒め方じゃ」
するとおつねは鼻を鳴らしたが、完全には不機嫌ではなかった。
だが、母親の方は眉を寄せたまま呟いた。
「寺も武家も、娘の行き先に口を出す、か……嫌な言い方だねえ」
その言葉に、わしもおつねも少し黙った。
嫌な言い方だ。
しかも、近ごろのわしにとっては、嫌なだけでは済まぬ言い方でもある。寺と武家。その二つを同じ口で言われると、どうしても薬種屋や茶屋や包みの流れが頭をよぎる。
おつねが、少し低い声で言った。
「ろくでもない男だよ」
「うむ」
「でも」
「でも?」
「全部が嘘とも限らぬ顔をしていた」
「……」
「そこが嫌なんだ」
そう、それだ。
ただの与太話なら笑って追い払える。だが、半分は本当かもしれぬ時、人はすぐに笑えぬ。村の水路と同じだ。完全な嘘なら殴り合いもせぬが、少しでも本当が混じると、皆が顔を曇らせる。
わしはおつねの店先の向こう、人の流れを見た。
市で売られるのは、菜や味噌や魚だけではない。
奉公口。
借金のかた。
人の手。
娘の行き先。
それらが、物のように値と都合で流れていく。
「……いかんな」
と、わしはぽつりと言った。
「何が」
と、おつね。
「人が物のように並ぶ話は、どうにも好きになれぬ」
「今さらかい」
「今さらじゃ」
「おぬしは、腹が絡まぬと怒らぬかと思うておった」
「腹も絡んでおる」
「どういう意味だい」
「人が飯のために売られそうになるのは、腹の話でもある」
おつねは少しだけ黙った。
それから、小さくため息をつく。
「……そういうところだよ」
「何が」
「おぬしが、器用そうで一番不器用なところさ」
またそれを言う。
だが今は、少しだけ分かる気がした。
器用に立ち回るなら、あの男へ笑って相槌を打ち、おつねの家の事情へは踏み込まず、自分は次の飯の種だけを探せばよい。だが、そうはせぬ。せぬから、不器用なのだろう。
「褒めておるか」
と、わしは一応聞いてみた。
「少しだけね」
「今日は多いのう」
「助けられた分くらいは言うさ」
「では、礼に何か買おう」
「銭があるのかい」
「少しは」
「なら、自分の飯へ回しな」
「やはりよい娘じゃ」
「今ので帳消しだよ」
おつねはそう言ったが、目の端は少しだけやわらいでいた。
通りの向こうでは、また別の口入れらしい男が、誰かと声を潜めて話しておる。市は相変わらず賑やかだ。だが今のわしには、その賑やかさの裏で、人の値打ちまで量られているように見える。
寺も武家も、娘の行き先に口を出す。
あの男の捨てた言葉は、どうにも胸の奥へ引っかかって残った。
ただの脅しならよい。
だが、ただの脅しでなければ――やはり、近ごろ城下で動いておるものは、村の水や薬の包みだけでは済まぬのかもしれぬ。




