課長久世敦による割り勘の掟 後編
「有馬さんの元旦那さんが、研修で今日から二日、本社滞在です」
書類を差し出しながら、部下の須藤が小声で告げる。
こいつ、どこからその情報拾ってきた。
そして何故、それを俺に。
久世は書類を受け取りながら眉を跳ね上げ――そうか、須藤は観察眼の鋭い、情報収集能力に長けたヤツだったか、と納得した。
割り勘の飯友の予定をホワイトボードに確認すると、今日明日と外回りの予定が記されている。
会わずに済むかもしれないが、会わないとも限らない、というわけだ。
「――了解」
印を押し、書類を戻す。
「あの」
少し言い淀んだ須藤が続けた。
「実は昨日、その元旦那さんの塚原さんから、有馬さん宛の電話を取り次ぎまして」
「あ”ぁん?」
「……僕に凄まれても」
会社に電話してくるってことは、プライベートの番号知らないってことですよね? 経緯から考えれば、ま、当然でしょうけど、などとひとりごちる部下を促す。
「それで」
「ああ、はい、ちょっと揉めていたというか……随分しつこく何か言われていたような」
「ほう」
会わないとも限らない、どころか。
久世は椅子の背に身体を預け、腕を組む。
「それで気になって探ってみた、と」
「……ええ、まあ、そんな感じ、というか」
ポリポリと頬を掻きながら、須藤が頷いた。
「お前も人が好いというか、難儀なヤツだな」
「は?」
久世が苦笑する。
「色々気付いちまうもんだから、ちょこちょこ動いちまうし、気を揉むんだろう」
「……ですかね」
「よくわかった。然るべく対処する」
そう請け負うと、須藤はホッとした顔でデスクへと戻って行った。
手持ちの札は、多いに越したことはない。
その日、会議の合間を縫って、久世は思い当たる筋に電話をかけまくった。
公私混同?
何とでも言え。
部下が心置きなく仕事に集中できるよう、取り計らうのも上司の務めだ。
――しかし。
知り得たことを前にして、久世は単なる上司としては些か不穏当だと自覚するほどの憤りを覚えていた。
夕刻の営業フロアは、ひっきりなしに電話が鳴り、外回りから帰ってきた者たちで騒めいている。
有馬もまた、受話器を肩に挟み、PCを叩きながら熱心に話していた。
さてどうしたものか、と久世は椅子に寄り掛かり、頭の後ろで手を組む。
その時、須藤が電話を受けながら久世に視線を向け、軽く頷くのが見えた。
応答を終えると、急ぎこちらへ向かってくる。
「例の方からでした。今電話中だとお伝えしたら、後でまたかけ直すと」
有馬をちらりと伺いながら告げる。
時刻を確認すると六時。
ヤツが受けているような昇格のためのブラッシュアップ研修初日は、大抵八時近くまで拘束される。
久世は電話を終えたところを見計らって有馬をデスクに呼んだ。
「お前の元旦那から電話が入っている。須藤がついさっき受けた」
彼女は顔を強張らせる。
「また掛けてくるだろう」
「……話すようなことは何もありません」
「あちらさんは、そうは思っていないようだな」
「……」
「困っているのか」
有馬が唇を噛んだ。
久世はため息を吐く。
「今回上手く躱せたとしても、それで終わりじゃないだろう。次にいつ電話が掛かってくるか、何を言われるか、突然現れたらと、ずっと気にし続けるのか?」
「……それは」
「仕事と同じだ、有馬」
「はい?」
「主導権を握れ。向こうは何と言っている」
「会って話したいと」
「ならば、時間と場所をお前が指定するんだ。ここお前のはホームだ。アシストならしてやるぞ」
目を瞬かせる有馬に、久世はニヤリと笑ってみせた。
「そうだな、一階ロビーのブースだ」
「あの?」
「お前は、誰かに見られて困るか?」
「いいえ」
彼女は即答する。
そもそも本社ここでは、彼女とその元旦那の関係など知られていない。
二人の間の事情も。
であれば。
「あそこはパーティションで区切られただけだから、人の耳目を完全には防がない。聞かれて困るような話をさせないのに丁度いい。とっとと追っ払うにも都合がいい。エントランスはすぐそこだ」
有馬の強張った口許がふっと緩んだ。
* * *
翌日の夕刻六時半。
有馬は元旦那の塚原と、一階ロビーのブースに入って行く。
久世もまた少し遅れて、ふらりとその隣のブースへと向かった。
「――忙しいの。話って何」
「久しぶりに会ったのに、そんな冷たいこと言うなよ」
「わざわざ会ってまで話す必要のあることが、私たちにあるとは思えないんだけど。――ああ、そういえば、奥様はお元気かしら。彼女、仕事を辞めて家庭のことを完璧にこなすって私に言ってたけど」
「――俺は騙されたんだ。あいつ、家のことなんか大して出来なくてさ。料理なんかケチャップとソースとマヨネーズのお子様な味付けばかりだし、掃除だって適当だし、仕事をしていた唯の方が、よっぽどきちんと家事をしていた」
「それで? 今更私にはどうでもいい話なんだけど」
「そ、そうだな、そんなことはどうでもいいんだ。ところで、どうだ。本社、やっぱり大変だろう」
「そうでも。場所が変わっただけで、やっていることは同じだもの」
「無理すんなよ。実はさ、提案したいことがあって」
「提案?」
「唯と別れてから、俺、なかなか仕事が上手くいかなくてさ。考えてみたら俺たち、ずっと相談しながらやっていたじゃないか。唯もきっとそうだろうと思って」
「全然」
「――っそんなことはないだろう? だからさ、プライベートはプライベート、仕事は仕事ってことで、これからも前みたいに、お互い相談しながらやっていかないか?」
「……何、言ってんの?」
「ほら、メールでやり取りすれば、そんなに難しい話じゃないだろう? どうアプローチしたらいいかとか、どの辺りを攻めるべきだとか……」
有馬が呆れたようにため息を吐く。
「お話にならない」
ガタ、と椅子を引く音がした。
「待てよ、唯っ」
「――そこまでだ」
何とも馬鹿馬鹿しいやり取りにうんざりしながら、久世はブースの入り口立つ。
目の前にいる、この優男の無神経なご都合主義に殺意が湧いた。
聞けば彼女が仕事を優先して結婚生活をなおざりにした――そう触れ回って離婚したというではないか。
己は不倫相手と、既に子供まで作っておきながら。
「塚原君といったか。君の彼女への申し出は、今に至る経緯を考えれば、些か厚かましくはないか。そもそも、その手の仕事は基本個人でするものだということを置いておくにしても」
「誰ですか、あなたは。俺たちのことに、他人が口を出さないで下さい」
「私は有馬君の上司だが――俺たち、ときたか」
久世は失笑した。
「君たちの関係は、他人の最たるものだと思ったが」
一応羞恥心はあるのか、塚原の顔が朱に染まる。
「君が心配するまでもなく、有馬君は本社で充分に活躍している。意外かな?」
「……いえ」
「そうだろう。彼女は優秀だ。わざわざ遠方の、しかも曰く付きの元旦那に相談に乗ってもらうことなど必要としていない」
塚原はぐっと詰まった。
「それにしても、相談とはこれまた」
久世はあからさまに嘲笑してみせる。
「君は今になって、自分が彼女の能力に寄生していたことに気付いたというわけか」
「何だとっ!」
思わずこちらに踏み出そうとした塚原を、久世は視線だけで押し止めた。
「残念だが、その相談はなしだ。私的な連絡先を知らされていない、それがどういうことだか君にだってわかるだろう。連絡をする必要がない、連絡をしてほしいとも思わないということだ。全く当然の感情だと思うが」
「……」
「そこを無視してこの先またこんな接触を繰り返すならば、彼女もそれなりに対処する」
「どういうことですか」
「別れたパートナーに意に反して付きまとわれるというのは、よくあることらしいからな。何らかの法的手段を取らざるを得ないだろう、安全のために」
「俺はそんなことはっ」
「しない? もちろんそうだろう」
久世はそう言って少し身を引き、ブースの出口を手で示す。
塚原はグッと口を引き結ぶと、乱暴に荷物を手にし、無言で久世の前を通り抜けようとした。
「――ああ、そうだ、忘れていたが」
通り過ぎようとした塚原の目の前に、胸ポケットから取り出した数枚のコピー用紙をひらりと差し出す。
「こっちの案件は、既に本社法務の預かりなっている」
それを手にし、サッと目を通した塚原が青褪めた。
「……これは」
「お宅の嫁さんは少々やり過ぎたんじゃないか。本社の窓口アドレスに、個人のスマホからこんな中傷メールを送りつけてくるとはな。どうやら大阪支社でも有馬君をターゲットに派手にやらかしていたようじゃないか。とっくに素性が割れていたようだぞ。彼女の転勤と本人の退職で有耶無耶になっていたが、これ以上続くなら、警察に被害届を出すようアドバイスされている」
「あの馬鹿っ」
紙を奪い取りぐしゃりと握り潰すと、荒々しい足音を立てて塚原が立ち去る。
その後ろ姿がエントランスを抜けるまで、久世はズボンのポケットに手を突っ込んだまま見送った。
手許に塩がないのが残念だ。
「ほい、いっちょあがり。さて、戻るぞ……って、何だ、どうした」
振り返ってみると、両手で目を押さえ天を振り仰いだまま、有馬が突っ立っている。
――嘘だろう、泣いているのか。
暫く声を掛けるのを躊躇っていると、突然、有馬は勢いよく手を外し久世の方を振り向いた。
「あーすっきりしたっ!」
そう言い放って、泣き出しそうに笑った顔には、しかし涙は無かった。
* * *
元旦那と対峙したことで気持ちが正しく整理できたのか、その夜、飯友はよくしゃべり、良く食べ、よく飲んだ――
「距離を置いて、冷静に見られるようになったというか。こんなのに引っ掛かってしまったんだと改めて目の前に突き付けられて、結構クルものがありました」
「確かに、アレは酷いな」
「そうやって、傷口に塩を塗る……」
「まあ、食え。食って忘れちまえ」
「食えって。課長はそればっかり。こういう場合、普通、飲めって勧めるんじゃないんですか」
「お前はもう、充分飲んでいるだろう」
「……かも、しれませんけど」
有馬は日本酒を一気に呷る。
「――おい」
「飲んでも食べても、忘れることなんて。だって、なかったことには、出来ないんですから」
久世はふん、と鼻で笑って、蒟蒻の味噌田楽に箸を伸ばした。
「当たり前だ。そんな簡単に、なかったことになんか出来るわけないだろう。なかったわけじゃないんだから、無茶言うな」
「課長、冷たいです」
「だから、忘れちまえって言ってるんだよ」
「え?」
「そのうち、何かがお前の“なかったことにしたいこと”を上書きしてくれるだろう。それまでの間は、こういった」
蒟蒻の味噌田楽の皿を有馬の方へ押しやる。
「美味いもん食って、そんなつまんねぇこと記憶の淵に上らせんなってことよ」
有馬はゆっくりと目を瞬かせた。
「それじゃ私……太っちゃいます」
「おいおい、その前に探せよ、上書きしてくれるもんをよっ」
久世はくっくと笑って日本酒を口にした。
いつになく酔っている有馬に、久世は勘定書きを見せなかった。
今日は、そう、割り勘な気分じゃない。
しかし、彼女は不満のようで。
「それは、飯友の掟に、反します」
そう主張するも、ゆらりと傾いだ身体が道路の段差に躓く。
咄嗟に腕を支えると、有馬がクスクス笑い出した。
「……靴が」
振り返ると、黒いパンプスが片方、転がっている。
ビルの壁に彼女を寄り掛からせると、久世はそれを拾い上げ――そして、とうとう観念した。
シンデレラはどうやら、黒いパンプスを履いていたらしい。
ゆっくりと有馬の元へと戻り、その足元に跪く。
「ほれ、シンデレラ。ヘンな所で靴を落とすから、引っ掛かったのはこんな王子だ」
差し出した靴に足を入れ、「まあ、ぴったり」と笑う彼女に向かって、久世は言った。
「飯友は、もう終わりだ」
「……え?」
急に酔いが醒めたかのように表情を強張らせ、有馬は目を瞠る。
まだきちんと傷が癒えていない時に、こんな風に言うのは卑怯だとわかっている。
それでも、今夜ほどそれに相応しい日はないような気もした。
やけに清々しい気分で久世は口にする。
「落とそうと思っている女を相手に、割り勘なんて有り得ない」