第8話 弟です
――ユリアの話。
屋敷に戻って、門の前で馬車を降りた瞬間、空気が違うと思った。
何がどう違うのかは、わからない。
ただ、玄関で迎えてくれた使用人たちの顔が、いつもより明るい。
足取りが軽い。
若い侍女の一人なんて、私の外套を受け取りながら、鼻歌を歌いかけて慌てて口を押さえていた。
この屋敷で鼻歌なんて、聞いたことがない。
「……何か、あったの」
私が尋ねると、アガーテが一歩前に出た。
「奥様。お留守のあいだに、二つ、ございました」
アガーテは、指を二本立てた。
「家令のグスタフ様が、修繕費の横領で、衛兵隊に引き渡されました」
「……え」
「それから、大奥様が、田舎の館へお移りになりました」
「…………え?」
頭の中で、言いたいことが一斉に渋滞した。
どうして。いつ。誰が。何の証拠で。母は。リオは。
喉が詰まって、何ひとつ出てこない。
アガーテは、私の顔を見て、少しだけ笑った。三年間で二度目の笑顔だった。
「旦那様が、なさいました。お祖父様の、誓約書で」
◇
私が視察に出ていたのは、本当は視察ではなかった。
リオが拾ってきた手紙には、医師の名前が書いてあった。
私が心を病んでいるという、偽の診断書を書く医師だ。
その医師に会いに行っていた。
診断書を書かないでほしいと頼むつもりだった。お金で済むなら、払うつもりだった。夫の知らないところで、私ひとりで片をつけるつもりだった。
医師は、留守だった。
家の者は、王都に呼ばれたとだけ言った。
何の収穫もなく、雨に降られて、橋が流されて、三日遅れで帰ってきた。
その三日のあいだに、夫は、帳簿の中から家令の横領を見つけ出し、母を屋敷から出していた。
私が何も言わなかったのに。
何も言えなかったのに。
……ずるい。
いえ、ずるくない。ずるいのは私のほうだ。
あの人に全部を背負わせて、私は医師の留守宅の前で、ただ雨に濡れていただけだった。
◇
書斎の扉の前で、私は三回、深呼吸をした。
言う。
今日こそ、言う。
帳簿の話をしそうになったら、舌を噛む。
扉を叩いた。
「入ってくれ」
夫の声がした。
書斎の机の上に、封書が一通、置いてあった。
宛名の欄は、空白だった。
――マティアスの話。
妻は、少し身構えるように、俺の向かいに座った。
「話がある」
俺はそう言ってから、まっすぐに聞いた。
「あの若い男は、誰なんだ」
長い沈黙だった。
暖炉の薪が、二度はぜた。
妻は、膝の上で両手を握りしめていた。白い指の関節が、さらに白くなっている。
やがて、小さな声がした。
「……弟です」
「弟?」
思わず、聞き返した。
算盤が、珠を弾こうとして、手を止めた。
弟。
ヴァルト伯爵家の子どもは、妻一人のはずだ。
「父が、屋敷の侍女に産ませた子です」
妻は、目を伏せたまま言った。
「母は……あの人は、それを知って、侍女を屋敷から追い出しました。リオはそのあと、母親と二人で、王都の下町で暮らしていたんです」
リオ。
初めて、あの若い男の名前を聞いた。
夫が侍女に子を産ませたのが悪いのよ。
義母の叫びが、頭の中でつながった。
「母親が亡くなって、リオは私を訪ねてきました。半月前のことです」
妻は、懐から一枚の紙を取り出した。
油紙で何重にも包まれた紙だった。
「見てはいけないものを、見てしまった、と言って」
◇
机の上に置かれた紙を、俺は広げた。
見覚えのある筆跡だった。
子どもの頃から、何百回も見てきた字だ。商会の帳簿の余白に。在庫の伝票に。俺が書いた手紙には一度も返ってこなかった、返事の代わりに。
グスタフに宛てた手紙だった。
ヴァルト女伯爵ユリアは心を病んでいる、という医師の偽の診断書を、王都の公証院に出す。
それで、女伯爵を当主の座から降ろす。
婿には、妻の病を理由に離縁を申し立てさせる。
伯爵家の土地は、債権者として、ローデン商会が引き取る。
去年、伯爵領の北の丘で見つかった、銀の鉱脈ごと。
グスタフが三年かけて抜いた金は、その手筈を整えるための資金として、商会へ流れていた。
手紙の最後の署名は、エーリヒ・ローデン。
俺の、父だった。
◇
「リオの母親は、ローデン商会で下働きをしていました」
妻の声が、遠くで聞こえた。
「この手紙は、グスタフが商会に来たときに落としたものを、リオが拾ったそうです」
北の丘。
毎月、毎月、父は北の丘の話をした。羊も放せない岩山だと言うと、そうか、ならいい、と言った。
知っていたのだ。
あの岩山の下に、銀が眠っていることを。
一通目で済むと、お思いですか。
グスタフの言葉の意味が、ようやくわかった。
父が、妻の連れてきた男のことを、もう知っていた理由も。グスタフが知らせたのだ。俺に離縁を急がせるために。
離縁しろ。来週、公証院の書記を寄こす。書類はこちらで用意しておく。
用意してあったのだ。最初から。
「あなたに、言うべきでした」
妻は、目を伏せたまま言った。
「でも、あなたのお父上のことです。どう言えばいいのか、わからなかった。私ひとりで片をつけて、あなたには知らせずに済ませたかったんです」
「それで、弟を愛人だと思われても、黙っていたのか」
「……はい」
この人は、本当に。
俺は、しばらく何も言えなかった。
「どうして、俺に言わなかった」
思ったより、声が掠れた。
妻は、膝の上の両手を、ぎゅっと握り直した。
「……あなたが、お父上を大事にしているのを、知っていたから」
「俺が?」
「毎月、お父上に手紙を書いているでしょう。帳簿のことも、羊毛のことも、全部。褒めてもらえなくても、書き続けている」
妻は、目を伏せたまま言った。
「そんな人に、お父上があなたを売ろうとしている、なんて。……私には、言えなかった」
この人は、見ていたのだ。
金で買われた婿のことなど、興味がないのだと思っていた。
何も話さないのは、話したくないからだと思っていた。
三年間、この人は、黙って俺を見ていた。
俺が誰にも言わなかった、父への手紙のことまで。
◇
ふと、ずっと気になっていたことを聞いた。
「毎朝、俺の机にラベンダーを置いていたのは」
妻の耳が、赤くなった。
みるみるうちに、首まで赤くなった。
「……眠れないと、言っていたから」
三年前。婿入りしたばかりの頃。
廊下でアガーテと話したことがある。慣れない屋敷で、眠れないのだと。
一度だけだ。
それを聞いていて、この人は三年間、ひと言も言わずに、ラベンダーを置き続けていたのだ。
算盤が、珠を弾こうとして、やめた。
弾く必要がなかった。
この三年、俺はずっと、計算を間違えていたのだから。




