第7話 二通目
「商人の息子ふぜいが、我が家の家令を追い出すなんて」
家令がいなくなったことを、いちばん怒ったのは義母だった。
先代伯爵夫人、ヒルデガルト・ヴァルト。妻の母だ。
この屋敷でただ一人、三年間、一度も俺を名前で呼ばなかった人である。
呼ばれ方の一覧を挙げると、こうなる。
「商人の息子」
「婿殿」
「あれ」
「あの者」
以上。
最後の二つに至っては、もはや人間扱いですらない。
「グスタフは、先代の頃から我が家に仕えてきた者よ。それを、帳簿の数字がどうとか、卑しい理屈で」
「数字が合わなかったんです」
「お黙りなさい」
はい。
黙った。
義母の怒りは、とどまるところを知らなかった。それから、すぐに別の場所へ向かった。
◇
昼過ぎ、廊下の向こうから悲鳴が聞こえた。
駆けつけると、客間の前で、義母が若い男の襟首をつかんでいた。
手に持った扇で、頬を打っている。
パシン、と乾いた音がした。
「卑しい生まれの男が。どこの馬の骨とも知れない者が、この屋敷の敷居をまたぐなんて」
若い男の頬は、赤く腫れていた。
悲鳴をあげたのは、本人ではなかった。そばにいた若い侍女のほうだった。
若い男は、歯を食いしばって、声ひとつ立てていなかった。
打たれることに慣れている顔だった。
昨日の夜、竈の前で灰をかき出していた背中を思い出した。この男は、こういう場所で生きてきたのだ。
「おやめください、義母上」
俺は、二人のあいだに割って入った。
「お前まで、この男の肩を持つの? 自分の妻の、愛人を?」
「この人が誰であっても、襟首をつかんで頬を打っていい理由にはなりません」
「誰に向かって口をきいているの」
「義母上にです」
義母の顔が、みるみる赤くなった。
義母の後ろで、年配の侍女が一人、右手を胸に抱えていた。
アガーテだ。
手の甲に、古い火傷の痕がある。
婿入りした最初の年に、俺は、その痕の理由を本人から聞いていた。
紅茶がぬるいと言われて、義母に熱い湯を手にかけられたのだという。
アガーテは、それを恨み言としてではなく、天気の話でもするように話した。もう、そういう話し方しかできなくなっていたのだと思う。
それだけではない。
俺は、三年間、帳簿の隅に、ある名前を書き留めてきた。
義母に暇を出された使用人の名前だ。
十一人。
理由は、どれも義母の機嫌だった。
皿の置き方が気に入らない。返事の声が小さい。目つきが悪い。雨が降った。
最後のは、本当にそう書いてある。帳簿に。俺の字で。
たいていのことは、赦してきた。
俺を名前で呼ばないことも。商人の息子と蔑むことも。食卓で、俺の皿だけ料理を一品少なくさせていたことも。
慈悲を本とし。
祖父の言いつけどおり、三年間、赦してきた。
だが、これは大切なことだ。
◇
騒ぎのあとで、若い男に、頬を冷やす布を渡した。
男は、腫れた頬を押さえもせずに言った。
「……慣れてますから」
慣れていいことじゃない、と言いかけて、やめた。
言葉より先に、することがある。
その夜、俺は書き物机の引き出しを開けた。
残っている封書は、二通。
二通目を取り出して、宛名を書いた。
『人を踏みにじった者へ ヒルデガルト・ヴァルト殿』
誓約書には、義母の署名もある。
婿入りの日、いちばん大きな字で、いちばん偉そうに書いた署名だ。
◇
翌朝、俺は二通目を、義母に手渡した。
ベルガーにも、もう一度来てもらった。
「義母上の暮らしの費用は、この三年、俺の商いから出ていました」
衣装代。宝石代。茶会の費用。義母付きの侍女四人の給金。
「今月をもって、それをやめます。ご実家から受け継がれた田舎の館で、義母上ご自身の財でお暮らしください」
義母の顔から、血の気が引いた。
算盤が鳴らなくても、わかる。義母の実家の財は、もうほとんど残っていない。俺が三年間、帳簿を見てきたのだから。
「……ユリアが、許すはずがないわ」
「ユリアにも、誓約書を見せます」
義母は、震える手で封書を握りつぶした。
けれど、自分の署名を消すことはできなかった。
「私は、何も悪くないわ」
義母は、握りつぶした封書を、床に叩きつけた。
「夫が侍女に子を産ませたのが悪いのよ。この家が貧しくなったのも、夫が借金を残したせい。使用人がどんくさいのは、使用人のせい。……私は、この家で、ずっと我慢してきたのよ」
三年間、聞かされてきた言葉だった。
この人の口から出てくるのは、いつも、誰かのせいだった。
夫のせい。家のせい。使用人のせい。商人の婿のせい。
ひとつだけ、引っかかった。
夫が侍女に子を産ませた。
そんな話は、三年間、一度も聞いたことがなかった。
◇
三日後、義母は、田舎の館へ向かう馬車に乗った。
見送りに出た使用人は、一人もいなかった。
義母付きの侍女四人でさえ、玄関に出てこなかった。
馬車が門を出ていくのを、俺は二階の窓から見ていた。
隣で、アガーテが、火傷の痕のある右手を、左手でそっと包んでいた。
「……長いあいだ、ありがとうございました」
アガーテは、小さな声で言った。
誰に向けた言葉なのか、アガーテは言わなかった。
俺も、聞かなかった。
――残る封書は、一通。
宛名の欄は、まだ空白のままだ。
グスタフの言葉が、耳の奥で鳴った。
一通目で済むと、お思いですか。
その日の夕方、妻が、領地の視察から戻ってきた。




